敗北を受け入れる覚悟
1943年7月12日。
ベルリン、総統官邸。
俺は、受話器を握りしめていた。向こうからは、モーデル上級大将の声が聞こえてくる。
「総統閣下。クルスク北部、ソ連軍の反攻が始まりました。規模は――予想を超えています」
クルスク突出部。史実では、7月5日にドイツ軍が攻勢に出て大敗した。だが、今回は違う。俺は攻勢を中止し、防御に徹した。
そして、7月12日。ソ連軍が反攻を開始した。
「損害は?」
「第9軍、持ちこたえています。防御陣地が効いています。ソ連軍の戦車は、地雷原と対戦車砲で大きな損害を受けています」
(……防御は、成功している)
だが、それで終わりではない。
「モーデル。ソ連軍の攻勢は、どれくらい続く?」
「……わかりません。しかし、彼らの物量は圧倒的です。いずれ、防御線は突破されるでしょう」
俺は、窓の外を見た。夏の陽射しが、ベルリンの街を照らしている。
(……そして、もう一つの悪い知らせ)
机の上には、別の電文がある。7月10日、連合軍がシチリア島に上陸した。
史実通りだ。いや、史実よりも早いかもしれない。クルスクで攻勢に出なかったことで、ヒトラーがシチリア島上陸のニュースを聞いて作戦を中止する、という流れがなくなった。
つまり――
東部では、ソ連軍が圧倒的な物量で攻めてくる。
西部では、連合軍がイタリアに上陸した。
挟み撃ちだ。
「モーデル。撤退準備を始めろ」
受話器の向こうで、モーデルが息を呑む音が聞こえた。
「……総統閣下。撤退、ですか?」
「ああ。ソ連軍の攻勢が本格化する前に、秩序ある撤退だ。ドニエプル川まで後退し、そこで防御線を張れ」
「……承知しました」
通信が切れた。
俺は、椅子に座り込んだ。
(……これで、いいのか?)
史実では、ヒトラーは「死守」を命じ続けた。その結果、ドイツ軍は無秩序に後退し、多くの兵が無駄に死んだ。
だが、今回は――秩序ある撤退。少しでも多くの兵を生かす。
ドアがノックされた。
「閣下、ゲーリング元帥がお見えです」
俺は、深く息を吸った。
「……入れ」
ゲーリングが入ってきた。太った体を揺らしながら、怒りで顔を紅潮させている。
「総統閣下! クルスクから撤退だと!? 何を考えているのですか!」
「ゲーリング。シチリア島の状況は知っているか?」
俺は、地図を広げた。
「連合軍が、イタリアに上陸した。このままでは、ムッソリーニ政権は崩壊する」
「それが何だと言うのです! イタリアが降伏しても、我々は戦い続けます!」
「二正面作戦は、不可能だ」
俺は、ゲーリングを見た。
「東部でソ連軍と戦い、西部で連合軍と戦う。そんな余裕は、もうない」
ゲーリングが、言葉を失った。
「……では、どうするおつもりですか」
「東部では、防御に徹する。西部では――」
俺は、地図のイタリアを指差した。
「イタリアを見捨てる」
ゲーリングの顔が、青ざめた。
「そ、総統閣下。それは――同盟国を裏切るということですか!」
「裏切るのではない。現実を受け入れるだけだ」
俺は、立ち上がった。
「ムッソリーニは、もう終わりだ。イタリアは降伏する。我々がどれだけ支援しても、それは変わらない」
「ですが――」
「ゲーリング。君に聞く。空軍は、イタリアを守れるか?」
ゲーリングが、口ごもった。
「……それは――」
「守れないだろう。スターリングラードでも、空軍は補給できなかった。イタリアでも、同じことが起きる」
ゲーリングは、何も言えなくなった。
俺は、窓の外を見た。
(……俺は、負け方を選んでいる)
イタリアを見捨てる。東部で後退する。
これは、敗北を認めることだ。
だが、それでいい。
史実では、ヒトラーは最後まで「勝利」を信じ続けた。その結果、何百万人もの命が無駄に失われた。
俺は――それを繰り返したくない。
その夜、緊急の閣議が開かれた。
ゲーリング、ヒムラー、ゲッベルス、ボルマン、カイテル、そしてマンシュタイン。
俺は、彼らを前に立った。
「諸君。状況を説明する」
俺は、地図を指差した。
「東部戦線では、ソ連軍が大規模な反攻を開始した。我々は、ドニエプル川まで後退する」
ヒムラーが、立ち上がった。
「総統閣下! 後退など、敗北主義です!」
「後退ではない。戦略的撤退だ」
俺は、ヒムラーを睨んだ。
「無意味な死守で兵を失うより、秩序ある撤退で戦力を温存する。それが、合理的な判断だ」
ヒムラーが、歯ぎしりした。
「そして、西部では――」
俺は、続けた。
「イタリアへの支援を、最小限にする」
ゲーリングが、叫んだ。
「総統閣下! それでは、ムッソリーニを見捨てるということですか!」
「ムッソリーニは、すでに終わっている」
俺は、きっぱりと言った。
「7月24日か25日、彼は失脚するだろう。そして、イタリアは降伏する」
一同が、ざわめく。
「……なぜ、そんなことがわかるのですか?」
ゲッベルスが、鋭い目で俺を見た。
「状況から、明らかだ」
俺は、冷静に答えた。
「シチリア島が陥落すれば、イタリア国民は戦争に疲れる。ムッソリーニは、国王と軍部に見捨てられる。そして、バドリオが首相になり、連合軍と講和する」
マンシュタインが、頷いた。
「……総統閣下の分析は、正しいでしょう。問題は、その後です」
「その後?」
「イタリアが降伏すれば、連合軍は本土に上陸します。我々は、アルプスからバルカン半島まで、広大な防衛線を敷かなければなりません」
マンシュタインは、地図を指差した。
「東部でソ連軍と戦い、南部で連合軍と戦う。そして、西部ではいずれ、フランスに上陸してくるでしょう。三正面作戦です」
沈黙。
重い沈黙が、部屋を支配した。
「……では、どうすればいいのですか」
ゲッベルスが、低い声で聞いた。
「講和だ」
俺は、答えた。
「西側連合国と、講和する」
ヒムラーが、嘲笑した。
「総統閣下。西側連合国は、『無条件降伏』を要求しています。講和など、不可能です」
「ならば、条件を変える」
俺は、ヒムラーを見た。
「マンシュタイン。君が、密かに交渉していたルートは?」
マンシュタインが、躊躇いがちに答えた。
「……スイスを経由して、アメリカの諜報機関と接触しています。しかし、彼らの反応は――冷たいものです」
「当然だ。ヒトラーが生きている限り、彼らは交渉しない」
俺は、震える手でテーブルに手をついた。
「だが――もし、ヒトラーが退位したら?」
一同が、凍りついた。
「……退位、ですか?」
ゲッベルスが、信じられないという表情で俺を見た。
「ああ。俺が退位し、別の誰かが総統になる。そうすれば、連合国も交渉のテーブルにつくかもしれない」
ヒムラーが、立ち上がった。
「総統閣下! 何をおっしゃっているのですか! あなたは、ドイツの救世主です! 退位など、ありえません!」
「救世主?」
俺は、ヒムラーを見た。
「俺は、ドイツを戦争に引きずり込んだ張本人だ。救世主などではない」
「ですが――」
「もういい」
俺は、手を上げた。
「今日は、ここまでだ。各自、考えてくれ」
一同が、困惑した表情で退室していく。
最後に残ったのは、マンシュタインだけだった。
「総統閣下」
マンシュタインは、静かに言った。
「あなたは、本気ですか? 退位を」
「……わからない」
俺は、窓の外を見た。
「だが、このままでは、ドイツは滅びる。何百万人もの命が、無駄に失われる」
「退位しても、戦争は終わらないかもしれません」
「わかっている。だが――やってみる価値はある」
マンシュタインは、長い沈黙の後、頷いた。
「……わかりました。私も、できることをします」
マンシュタインが退室した後、俺は一人、窓の外を見続けた。
ベルリンの夜。
街灯が、静かに街を照らしている。
だが、あと一年もすれば、この街も爆撃で焼け野原になる。
(……俺は、何ができる?)
退位すれば、戦争は終わるのか?
それとも、ただの無駄な行為なのか?
わからない。
だが――
窓の外では、雨が降り始めていた。
ベルリンの街を、冷たく濡らしていく。
まるで、これから流れる血を洗い流すかのように。




