暗殺未遂
1943年5月10日。
ベルリン、総統官邸。
俺は、窓の外を見ていた。春の陽射しが、街路樹の新緑を照らしている。だが、その光は、俺の心を明るく灯してくれない。
(……もう、2ヶ月以上経った)
スターリングラードで降伏を許可してから、俺は少しずつ、この狂った戦争を終わらせようと動いてきた。クルスク攻勢の中止。防御への転換。マンシュタインによる西側連合国との秘密交渉。
だが、何も変わらなかったんだ。
東部戦線では、ソ連軍が着実に攻勢を準備している。西部では、連合軍がいつ上陸してくるかわからない。そして、ベルリンでは——ヒムラー、ゲーリング、ゲッベルス達が、俺を監視している。
机の上には、報告書の山。だが、その中で一番重いのは、マンシュタインからの電文だった。
『西側連合国との接触、進展なし。カサブランカ会議での「無条件降伏」要求は、変わらず。ルーズベルトとチャーチルは、我々との交渉を拒否しています』
(……やっぱりか)
史実通りだ。連合国は、ナチス・ドイツとの交渉を拒否する。無条件降伏以外、受け入れない。
つまり、俺がどれだけ「まともなドイツ」を演じても、連合国は信用しない。ヒトラーが生きている限り、交渉の余地はないらしい。
ドアがノックされた。
「閣下、本日のスケジュールです」
副官の声。俺は、深く息を吸った。
「……入れ」
副官が入ってきて、書類を差し出した。
「本日午後、東部戦線の中央軍集団司令部への視察が予定されております。専用機は14時に離陸いたします」
「……中央軍集団?」
俺は、書類を見た。スモレンスク。ロシア奥地の前線基地。
「はい。クルーゲ元帥からの要請です。防御陣地の進捗状況を、閣下自らご視察いただきたいと」
(……クルーゲ)
ギュンター・フォン・クルーゲ元帥。中央軍集団司令官。優秀な軍人だが、日和見主義者でもある。ヒトラーに忠実なふりをしながら、内心では疑問を抱いている。
そして——史実では、この男の参謀が、ヒトラー暗殺計画の中心人物だった。
ヘニング・フォン・トレスコウ少将。
(……まさか)
俺は、カレンダーを見た。5月10日。史実では、3月13日にトレスコウによる暗殺未遂があった。専用機に爆弾を仕掛けたが、信管の不具合で失敗した。
だが、今は5月だ。時期がずれている。
(……いや、待て。俺が「変わった」ことで、トレスコウたちも動きを変えたのか?)
可能性はある。スターリングラードで降伏を許可し、クルスク攻勢を中止した「異常なヒトラー」を見て、反ヒトラー派の将校たちは、どう思っただろう?
「変わった」ヒトラーなら、暗殺する必要がない——そう思うか?
それとも、「これはチャンスだ」と思うか?
俺は、震える手で書類を置いた。
「……視察は、中止する」
副官が、驚いた表情で俺を見た。
「し、しかし、閣下。クルーゲ元帥が——」
「体調が優れない。延期だ」
「……承知しました」
副官が退室した後、俺は窓の外を見た。
(……逃げたのか、俺は)
もし、トレスコウが本当に暗殺を計画しているなら——行けば、殺される。だが、行かなければ、彼らは別の機会を狙う。
そして、史実通りなら、トレスコウは1944年7月のクーデターにも関わり、失敗後に自決する。
(……俺が、トレスコウに会えば)
話し合えるか? 「俺はヒトラーだが、中身は違う。戦争を終わらせたい」と言えば、信じてくれるか?
いや、無理だ。誰が信じる。
その日の午後、俺は執務室に引きこもっていた。
そして、夕方——副官が、血相を変えて飛び込んできた。
「閣下! 大変です!」
「……何があった」
「スモレンスクへ向かう予定だった専用機が——爆発しました!」
俺は、立ち上がった。
「……爆発?」
「はい。離陸準備中、格納庫で爆発が。パイロットと整備兵、3名が死亡しました」
背筋が凍りついた。
(……やっぱりか)
トレスコウは、動いていた。俺が乗るはずだった専用機に、爆弾を仕掛けていた。
もし、俺が視察に行っていたら——今頃、空中で爆死していた。
「原因は?」
「……調査中ですが、整備ミスか、あるいは——」
副官が、言葉を濁す。
「……あるいは、sabotageか」
俺は、窓の外を見た。灰色の空。ベルリンの街。
(……トレスコウ。お前は、俺を殺そうとした)
だが、責めることはできない。彼からすれば、俺は史上最悪の独裁者だ。変わったように見えても、信用できない。殺すしかない。
問題は——これからだ。
「副官。ゲシュタポを呼べ。スモレンスクの中央軍集団司令部、全員を調査しろ」
「はい!」
副官が駆け出していく。
俺は、椅子に座り込んだ。
(……トレスコウを、逮捕させるのか?)
史実では、トレスコウはこの暗殺未遂が発覚せず、1944年まで生き延びた。だが、今回は——専用機が爆発した。調査すれば、すぐにバレる。
そして、トレスコウは逮捕され、処刑される。
(……それでいいのか?)
トレスコウは、ナチスの蛮行に憤慨し、ドイツを救おうとした軍人だ。史実では、7月20日のクーデター失敗後、「世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた」と言い残して自決した。
そんな男を、俺は——ヒトラーの姿をした俺は、殺すのか?
だが、放置すれば、また暗殺を企てる。次は、成功するかもしれない。
(……どうする?)
その夜、俺は眠れなかった。
翌朝、ゲシュタポからの報告が届いた。
『専用機爆発の原因、sabotageの可能性高し。中央軍集団参謀、トレスコウ少将に嫌疑』
俺は、報告書を握りしめた。
(……やっぱり、トレスコウか)
ヒムラーが、執務室に入ってきた。
「総統閣下。報告書をご覧になりましたか」
「……ああ」
「トレスコウ少将を、逮捕すべきです。尋問し、共犯者を洗い出します」
ヒムラーの目が、冷たく光っている。この男は、反ヒトラー派を一掃するチャンスだと思っている。
「……待て」
俺は、ヒムラーを見た。
「証拠が不十分だ。sabotageの可能性があるだけで、トレスコウが犯人とは限らない」
「ですが、閣下——」
「調査を続けろ。だが、逮捕は待て」
ヒムラーが、不満そうな顔をした。
「……承知しました」
ヒムラーが退室した後、俺は窓の外を見た。
(……俺は、何をしてる?)
トレスコウを逮捕しなければ、また暗殺を企てる。だが、逮捕すれば、ドイツ国内の反ヒトラー派は壊滅する。
そして——俺は、生き延びる。
だが、それでいいのか?
史実では、ヒトラーは1945年4月30日に自殺した。それまでに、どれだけの人間が死んだか。
もし、俺がトレスコウに殺されれば——戦争は、早く終わるかもしれない。
(……いや、違う)
ヒトラーが死んでも、ゲーリングやヒムラーが後を継ぐだけだ。戦争は続く。むしろ、内乱が起きて、もっと混乱するかもしれない。
それに——俺には、まだやることがある。
防御に徹し、時間を稼ぎ、講和の道を探る。少しでも多くの命を救う。
それが、俺の贖罪だ。
俺は、机の引き出しを開けた。中には、ワルサーPPK。
(……まだ、死ねない)
窓の外では、雨が降り始めていた。
ベルリンの街を、冷たく濡らしていく。
まるで、これから流れる血を洗い流すかのように。




