雪解け
1943年4月5日。
クルスク北部、第9軍司令部。
泥だらけの塹壕の中で、ヴェルナー・シュミット伍長は震える手でスプーンを握っていた。
(……もう、限界だ)
21歳。ハンブルク出身。両親は爆撃で死んだ。妹は疎開先で病死した。帰る場所は、もうない。
目の前の錫の食器には、茶色い液体が入っている。エンドウ豆のスープ、と呼ばれているが、中身はほとんど水だ。黒パン50グラム。これが、今日の配給の全てだ。
「シュミット、食わないのか?」
隣の塹壕から、フランツ軍曹が声をかけてきた。40代。東部戦線を3年生き延びた古参兵だ。
「……いえ。ただ、考えていました」
「何を?」
「俺たち、ここで何をしているんでしょうか」
フランツは、苦笑した。
「命令に従って、死なないように頑張ってる。それだけだ」
4月に入ってから、前線の状況は悪化の一途を辿っていた。スターリングラードで25万の兵を失い、補充は遅れに遅れている。新兵は16歳の少年か、45歳を超えた老人ばかりだ。
そして、食糧が足りない。武器が足りない。弾薬が足りない。
何もかもが、足りない。
「フランツ軍曹。本当に、総統閣下は攻勢を中止したんですか?」
シュミットは、小声で聞いた。
3月下旬、前線に奇妙な命令が届いた。「クルスク攻勢、無期限延期」。代わりに、防御陣地の構築を命じられた。
「ああ。俺も信じられなかったが、本当だ」
フランツは、塹壕の縁に腰掛けた。
「考えてみれば、当然なんだがな。スターリングラードで何万人死んだと思ってる? 攻勢に出る余裕なんて、ねえんだよ」
「でも、ゲッベルス大臣は『総力戦』だと……」
「ゲッベルスはベルリンで演説してりゃいいんだよ。ここで戦ってるのは、俺たちだ」
フランツは、吐き捨てるように言った。
その時、塹壕の向こうから、若い声が聞こえた。
「軍曹! 軍曹!」
駆けてきたのは、カール・ブラウン二等兵。17歳。先月、東部戦線に配属されたばかりだ。
「ど、どういうことですか! ソ連軍が攻めてくるんですか!?」
カールの顔は青ざめている。手が震えている。
「落ち着け、落ち着くんだブラウン。何があった」
「師団長から、伝令が! 全員、集合だそうです!」
────
30分後、第9軍の兵士たちが、泥だらけの広場に集められた。
壇上に立ったのは、ヴァルター・モーデル上級大将。第9軍司令官。「防御のライオン」と呼ばれる、東部戦線屈指の名将だ。
「兵士諸君」
モーデルの声は、低く、重い。
「諸君は疑問に思っているだろう。なぜ攻勢が中止されたのか」
兵士たちが、ざわめく。
「理由を説明する。現在の戦力配置、弾薬備蓄、補給状況を総合的に判断した結果、攻勢作戦の成功確率は著しく低い」
モーデルは、地図を指し示した。
「スターリングラードで失った戦力は未だ回復していない。新型戦車の配備も遅れている。この状態で攻勢に出れば、損耗率は許容範囲を大きく超える」
兵士たちが、息を呑む。
「だが、防御なら話は違う。我々は準備時間を得た。塹壕を掘り、地雷原を敷設し、対戦車砲陣地を構築する。ソ連軍が攻めてきた時、最小の損耗で最大の打撃を与える――それが第9軍の方針だ」
モーデルの目が、兵士たちを見渡す。
「これは総統閣下の命令であり、同時に第9軍の総意でもある。我々は、最も合理的な方法で戦う」
兵士たちが、ざわめく。だが、それは恐怖のざわめきではなく――安堵のざわめきだった。
(……総統閣下が、変わった?)
シュミットは、フランツ軍曹を見た。
「本当に、攻めなくていいんですか?」
「ああ。守ればいい。準備して、配置について、待ち構えればいい」
フランツは、初めて笑った。
「シュミット。お前、何か願い事はあるか?」
「……願い事、ですか?」
「ああ。俺はな、戦争が終わったら、故郷に帰って、パン屋をやりたいんだ。毎朝、焼きたてのパンを食う。そんな平凡な生活がしたい」
シュミットは、少し考えた。
「俺は――妹の墓参りに行きたいです。ハンブルクの、小さな墓地に埋まってるんです」
「いい願いだ。じゃあ、生き延びような」
フランツは、シュミットの肩を叩いた。
───
同じ日、ベルリン。総統官邸。
俺は、窓の外を見ていた。春の陽射しが、ベルリンの街を照らしている。
(……本当に、これでいいのか?)
クルスク攻勢の中止。防御への転換。
ゲーリングは激怒した。ヒムラーは冷たい目で俺を見た。ゲッベルスは「士気が下がる」と抗議した。
だが、マンシュタインは支持してくれた。そして、前線の将軍たち――特にモーデルも、「これが正しい」と言ってくれた。
机の上には、マンシュタインからの報告書がある。
『防御陣地の構築、順調に進んでいます。兵士たちの士気は、以前より高まっています。「準備された防御」という方針が、彼らに安心感を与えています』
(……準備された防御)
そうだ。それが、俺にできる唯一のことだ。
このやり方では勝てない。だが、少しでも多くの兵を生かすことはできる。
ドアがノックされた。
「閣下、ゲッベルス大臣がお見えです」
俺は、深く息を吸った。
「……入れ」
ゲッベルスが入ってきた。いつもの鋭い目つきだ。
「総統閣下。国民から、疑問の声が上がっています。『なぜ、攻勢に出ないのか』と」
「……ゲッベルス。君は、前線の有様を見たことがあるか?」
俺は、ゲッベルスを見た。
「泥だらけの塹壕で、16歳の少年が凍えている。45歳の老人が、震える手で銃を構えている。そんな兵士たちに....『攻めろ』と言えるか?」
ゲッベルスは、何も言わなかった。
「俺は...現実を見たい」
俺は、立ち上がった。
「国民に、方針の転換を伝えろ。我々は、このやり方では勝てない。だが、より合理的な戦い方に切り替える。防御に徹し、時間を稼ぎ、そして――講和の可能性を模索する」
ゲッベルスの顔が、わずかに歪んだ。
「……わかりました。プロパガンダの方向性を、調整します」
ゲッベルスは一礼したが、その目には明らかな違和感があった。
「ただし、閣下。国民は希望を求めています。真実だけでは、彼らは絶望します。その責任は――」
「俺が取る」
俺は、ゲッベルスを遮った。
「すべての責任は、俺が取る」
ゲッベルスは、何も言わずに退室した。だが、その背中には、明らかな不信感が漂っていた。
ゲッベルスが退室した後、俺は再び窓の外を見た。
ベルリンの街。まだ、平穏に見える。だが、あと一年もすれば、この街も焼け野原になる。
(……俺は、何ができる?)
防御に徹する。時間を稼ぐ。講和を探る――いや、探っている。マンシュタインが動いているが、それが実を結ぶかはわからない。
それでも――やるしかない。
窓の外では、雪が降り始めていた。
4月の雪。季節外れの、冷たい雪。
俺は、その雪をただ見つめていた。




