それで国民は立ち上がるか
1943年2月18日。
ベルリン・スポーツ宮殿。
巨大なハーケンクロイツが壁に掛けられ、演壇の上には「TOTALER KRIEG - KÜRZESTER KRIEG(総力戦――最も短期間の戦争)」という大きなスローガンが掲げられている。
会場を埋め尽くした2万人の聴衆。だが、彼らは無作為に選ばれた国民ではない。ゲッベルスが慎重に選別した、熱狂的なナチス信奉者たちだ。
俺は、総統官邸の執務室で、ラジオ中継を聴いていた。
「国民よ!」
ゲッベルスの声が、スピーカーから流れてくる。
「私は諸君に問う。諸君は総力戦を望むか? 諸君は必要とされるならば、我々が今、想像する以上の全面的で徹底的な戦争を望むか?」
会場から、雷のような「ヤー!(そうだ!)」の叫びが響く。
俺は、ラジオの音量を下げた。
(……あいつ、俺の許可なしに勝手に)
2月2日、スターリングラードでパウルスが降伏してから、16日が経った。ゲッベルスは、事実を無視し、国民には「第6軍は最後の一兵まで戦い、英雄的に玉砕した」と発表した。
そして、今日。総力戦演説。
スターリングラードの敗北を「あえて率直に認める」ことで、国民の信頼を取り戻し、同時に「だからこそ、全力で戦わなければならない」と煽り立てている。
完璧なプロパガンダだ。
「私は諸君に問う。諸君ドイツ国民は、もし総統が非常事態に命じるならば、10時間、12時間、必要とするならば14時間働く決意があるか?」
また、「ヤー!」の嵐。
俺は、窓の外を見た。ベルリンの街。まだ、平穏に思われる。だが、この演説が終われば、女性も子供も、すべてが戦争に動員されてしまう。
(……俺は、何をしてるんだ?)
スターリングラードで降伏を許可したことで、9万人の命を救った――いや、救ったつもりだった。だが、その9万人は、ソ連の捕虜収容所に送られ、極寒の劣悪なシベリアの環境下で強制労働させられている。史実で生き残るのは、わずか6000人。
結局、俺は何も変えていない。
ドアがノックされた。
「閣下、マンシュタイン元帥がお見えです」
副官の声。俺は、ラジオを消した。
「……入れ」
マンシュタインが入ってきた。ドイツ軍最高の戦術家。厳しい顔つきだが、どこか疲れている様子だ。
「総統閣下。お時間をいただき、ありがとうございます」
マンシュタインは、一礼した。
「ゲッベルス大臣の演説、お聴きになりましたか」
「……ああ」
俺は、椅子に座ったまま答えた。
「マンシュタイン。率直に聞く。我々は、この戦争に勝てるのか?」
マンシュタインの目が、わずかに揺れた。
「……閣下。それは――」
「いい。俺が聞きたいのは、お世辞じゃない。本当のことだ」
俺は、マンシュタインを見た。
「クルスクで攻勢に出れば、ソ連軍を押し返せるか?」
マンシュタインは、長い沈黙の後、答えた。
「……難しいでしょう」
「理由は?」
「ソ連軍は、レンドリース法によってアメリカから大量の物資を受け取っています。戦車、航空機、トラック、食糧。我々が一台失うたびに、彼らは二台を手に入れる」
マンシュタインは、地図を広げた。
「さらに、クルスク突出部は、ソ連軍が事前に防衛線を張っています。我々の攻勢計画は、おそらく漏れている」
「……なら、どうすればいい?」
「徹底防御です」
マンシュタインは、きっぱりと言った。
「攻勢ではなく、防御に徹する。ソ連軍の攻撃を受け止め、反撃する。そうすれば、時間を稼げます」
「時間を稼いで、その後は?」
「……西側連合国との講和です」
マンシュタインの言葉に、俺は息を呑んだ。
「閣下。アメリカとイギリスは、カサブランカ会議で『無条件降伏』を要求しました。しかし、これは交渉の余地がないという意味ではありません」
マンシュタインは、窓の外を見た。
「もし、ソ連軍の進撃を食い止め、東部戦線を安定させることができれば――イギリス(チャーチル)は、ソ連がヨーロッパ全土を支配することを恐れています。だから、その時、我々は交渉のカードを手に入れます」
(……なるほど)
史実では、ヒトラーはクルスクで攻勢に出て、大敗した。だが、もし防御に徹していたら?
「マンシュタイン。その作戦、具体的に聞かせてくれ」
マンシュタインの目が、わずかに輝いた。
「まず、クルスクでの攻勢計画を中止します。代わりに、防御陣地を強化する。ソ連軍が攻めてきたら、機動防御で迎え撃ちます」
マンシュタインは、地図に線を引いた。
「そして、西部戦線では――」
「待て」
俺は、手を上げた。
「その作戦を、ヒトラーが受け入れると思うか?」
マンシュタインが、俺を見た。不思議そうな顔。
「……閣下。何をおっしゃいますか。」
しまった。つい、第三者視点で語ってしまった。
「いや、あの、つまり――俺が、これまでの方針を180度変えることを、周りが受け入れるか、ということだ」
マンシュタインは、少し考えてから答えた。
「ゲーリング元帥とヒムラー長官は、おそらく反対するでしょう。彼らは、攻勢こそがドイツの生きる道だと信じています」
「だが、君は賛成してくれるだろ?」
「はい。私は、軍人です。兵士の命を無駄にしたくはありません。」
その言葉が、胸に刺さった。
(……この人も、スターリングラードで多くの兵を失った)
マンシュタインの「冬の嵐作戦」は失敗した。彼自身、それを悔いている。
「わかった。君の作戦、採用する」
マンシュタインが、驚いた表情で俺を見た。
「本当に、よろしいのですか?」
「ああ。だが、条件がある」
俺は、立ち上がった。
「君が、前線を視察してくれ。兵士たちの本当の状態を、俺に報告してほしい」
「……前線を、ですか」
「ああ。ベルリンにいると、本当のことがわからない。ゲッベルスの演説も、ヒムラーの報告も、すべて嘘偽りかもしれない」
俺は、窓の外を見た。
「俺は、兵士たちの生の声を聞きたい」
マンシュタインは、しばらく黙っていたが、やがて一礼した。
「承知しました。明日、東部戦線に向かいます」
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3月5日。
マンシュタインからの電報が届いた。
『前線の状況、予想以上に深刻。兵士の士気は低下。武器弾薬不足。食糧も不十分。このままでは、夏の攻勢は不可能かと。』
俺は、電報を握りしめた。
(……やっぱりな)
ゲッベルスの総力戦演説は、ベルリンでは成功した。だが、前線の兵士たちには、病的な想像を絶する演説など届かない。彼らに必要なのは、ただの言葉ではなく、食糧と弾薬。
「閣下」
ボルマンが、別の電文を持ってきた。
「ゲーリング元帥から。『クルスクでの攻勢計画、予定通り実行すべし。空軍が全面支援する』とのことです」
俺は、電文を破り捨てた。
「却下だ。攻勢は中止。防御に切り替える」
ボルマンの顔が、一瞬固まった。
「し、しかし、閣下。すでに準備が――」
「中止だと言っている!」
俺は、机を叩いた。手が震える。だが、ここで引いたら、また同じことの繰り返しだ。
「マンシュタインの報告通り、前線の状況は深刻だ。攻勢に出れば、また何万人もの兵が無駄死にする」
「ですが、ゲーリング元帥が――」
「ゲーリングに伝えろ。『総統命令だ』と」
ボルマンは、青ざめた顔で退室した。
一人になった執務室で、俺は窓の外を見た。
(……俺は、本当にこれでいいのか?)
防御に徹すれば、時間は稼げる。だが、それで本当に講和できるのか? アメリカとイギリスが、本当に交渉してくれるのか?
わからない。
だが、少なくとも――攻勢に出て、また何万人もの兵を失うよりは、マシだ。
その夜、ゲーリングが総統官邸に押しかけてきた。
「総統閣下! クルスク攻勢中止とは、どういうことですか!」
ゲーリングは、太った体を揺らしながら怒鳴った。
「我々には、まだ力があります! 新型戦車パンターも、ティーガーも配備されています! 空軍も万全です!」
「ゲーリング」
俺は、冷静に答えた。
「スターリングラードで、君は何と言った? 『空軍が補給する』と。だが、できなかった」
ゲーリングの顔が、紅潮した。
「あれは――天候が――」
「言い訳はいい...お前は判断力が足らなかったな。」
俺は、ゲーリングを睨んだ。
「マンシュタインの報告では、前線の兵士は常に飢えと戦っている。武器も弾薬も足りない。そんな状態で、攻勢など不可能だ。」
「ですが――」
「これは命令だ、ゲーリング。クルスク攻勢は中止。防御に切り替える」
ゲーリングは、歯ぎしりした。だが、最終的には一礼して退室した。
その後、ヒムラーも、ゲッベルスも、次々と抗議に来た。だが、俺はすべて却下した。
(……これで、いい)
史実では、クルスクの戦いでドイツは大敗し、以降、完全に守勢に回った。だが、今回は――最初から守勢に徹する。
そうすれば、少しは違う未来が見えるかもしれない。
3月15日。
マンシュタインが、前線から戻ってきた。
「閣下。防御陣地の構築、始めました」
マンシュタインは、地図を広げた。
「クルスク周辺に、三重の防御線を敷きます。ソ連軍が攻めてきたら、機動防御で迎え撃ちます」
「兵士たちの反応は?」
「……正直に言えば、戸惑っています。これまで『攻めろ』と言われ続けてきたのに、急に『守れ』と」
マンシュタインは、少し笑った。
「ですが、『無駄に死なずに済む』と安堵している兵も多いです」
(……そうか)
俺は、窓の外を見た。ベルリンの空は、灰色に曇っている。
「マンシュタイン。もう一つ、頼みたいことがある」
「何でしょうか」
「西側連合国との、秘密交渉のルートを探ってくれ」
マンシュタインが、目を見開いた。
「……講和交渉、ですか」
「ああ。無条件降伏は受け入れられない。だが、条件付きなら――」
俺は、マンシュタインを見た。
「戦争を、終わらせたい」
マンシュタインは、長い沈黙の後、頷いた。
「……わかりました。私にできることを、やってみます」
マンシュタインが退室した後、俺は一人、窓の外を見続けた。
ゲッベルスの総力戦演説は、国民を戦争に駆り立てた。だが、俺は――戦争を終わらせようとしている。
矛盾している。
だが、それでいい。
(……俺は、負け方を探している)
マンシュタインの言葉を、思い出す。
「どう負けるか、です」
できるだけ多くの兵を生かし、できるだけ多くの民間人を守り、そして――できるだけ早く終わらせる。
それが、俺にできる唯一のことだ。
窓の外では、雪が降り始めていた。
ベルリンの街を、静かに白く染めていく。
まるで、これから流れる血を隠すかのように。




