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史上最悪(ヒトラー)の後始末 ――1943年、世界で一番“詰んでいる”男に転生した  作者: イチジク浣腸


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3/10

元帥の冠

 


 1943年1月28日。


 総統官邸の地下壕は、冷たい沈黙に包まれていた。


 俺は、机に広げられた電文を何度も読み返していた。スターリングラードからの最後の通信。パウルス大将の署名がある。


『弾薬尽きる。食糧なし。医薬品なし。零下30度。凍死者続出。総統閣下の命令により死守を続けるも、限界近し』


 25万を超える兵が、あの地獄に閉じ込められている。マンシュタイン元帥の「冬の嵐作戦」は、12月下旬に失敗した。ソ連軍の猛反撃により、救援部隊はスターリングラードから48キロの地点で撤退を余儀なくされた。


 あの時、パウルスが独断で脱出していれば――いや、マンシュタインが「脱出せよ」と要請した12月19日の時点で、この肉体の持ち主が許可していれば、もっと多くの兵が助かっただろう。


 だが、もう遅い。歴史通りに、事態は最悪の方向へ進んでいる。



(……俺は、何をすればいいんだ?)


 転生して一ヶ月。モレルの薬は半分に減らした。おかげで頭は以前よりクリアになったが、それが逆に地獄だった。クリアな頭で、この状況が見えてしまう。


 ヒムラーは俺を排除しようとしている。ゲーリングは権力闘争に明け暮れている。ゲッベルスは俺の「変化」を警戒している。軍部は――国防軍と親衛隊が互いに牽制し合っている。


 誰も信用できない。そして、俺は22歳の大学生だ。政治も、軍事も、教科書で読んだだけ。こんな奴が、ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争を終わらせられるのか?


「閣下」


 ボルマンが、恭しく頭を下げた。党官房長。ヒトラーの秘書官でありながら、実質的な権力の番人。


「本日は、総統就任10周年の記念日でございます。国民へのラジオ演説の原稿を、ゲッベルス大臣が用意しております」


 1月30日。1933年のこの日、ヒトラーは首相に任命された。ナチス政権の始まりの日。そして、史実通りなら――この日、パウルスは元帥に昇進させられる。


 ドイツ元帥は降伏しない。全員、戦死している。つまり、元帥への昇進は、暗黙の自殺命令だ。


(……これを、止められるのか?)


 手が震える。パーキンソン病の震えではない。恐怖だ。


 もし降伏を許可すれば、25万の命が助かる。だが、ドイツ軍の士気は崩壊する。そして、ヒムラーやゲーリングが、俺を「弱腰」と非難し、クーデターを起こすかもしれない。


 だが、降伏を拒否すれば――25万人が、無駄に死ぬ。


 どっちを選んでも、地獄だ。


「……ボルマン」


 俺は、掠れた声で言った。


「スターリングラードの第6軍に関する報告書を、すべて持ってこい」


 ボルマンの目が、わずかに細まる。


「閣下。すでにお読みになられたかと」


「全部だ。陸軍総司令部、国防軍最高司令部、空軍、親衛隊、すべての報告書だ」


 ボルマンは一礼して退室した。


 一人になった執務室で、俺は窓の外を見た。ベルリンの冬空。灰色の雲が、重く垂れ込めている。


(……逃げたい)


 正直な気持ちだった。こんな責任、22歳の俺には重すぎる。だが、逃げ場はない。この肉体から出ることはできない。


 ドアがノックされた。ボルマンではない。軍靴の重い足音。


「失礼します、総統閣下」


 入ってきたのは、ヴィルヘルム・カイテル元帥。国防軍最高司令部総長。背が高く、立派な口髭を蓄えた軍人だが、ヒトラーへの従順さから「うなずき驢馬」と陰で呼ばれている男だ。


「閣下。スターリングラードに関してですが」


 カイテルは、新しい電文を差し出した。


「パウルス大将から、再度、降伏許可の要請が」


「……」


 俺は、電文を受け取った。手が震える。


『総統閣下。我々は限界に達しました。これ以上の抵抗は、兵士たちを無意味に死なせるだけです。どうか、降伏をお許しください』


 パウルスの悲痛な叫びが、紙の向こうから聞こえてくる。


(……俺は、どうする?)


 歴史を知っている。この後、ヒトラーは降伏を拒否し、パウルスを元帥に昇進させる。そして、パウルスは降伏を選び、ドイツ史上初めて「降伏した元帥」となる。


 だが、それまでに何万人が死ぬ?


「カイテル」


 俺は、震える声で言った。


「もし――もし、降伏を許可したら、どうなる?」


 カイテルの顔が、一瞬固まった。


「は……?」


「降伏だ。第6軍に、降伏を許可したら」


 カイテルは、信じられないという表情で俺を見た。


「そ、総統閣下。それは……国防軍の名誉を汚す行為です。ドイツ軍は、降伏しません。最後の一兵まで戦うのが、我々の誇りです」


「誇りで、兵士は生き返るのか?」


 俺は、カイテルを睨んだ。


「25万の兵士が、誇りのために死ぬのか?」


「……それが、軍人の務めです」


 カイテルは、硬い表情で答えた。


 俺は、何も言えなくなった。


(……こいつの言ってることも、間違ってない)


 軍人には、軍人の論理がある。名誉、誇り、規律。それがなければ、軍隊は成り立たない。


 だが、それで本当にいいのか?


「……パウルスを呼べ。直接話す」


 俺は、そう言った。カイテルは、困惑しながらも一礼して退室した。


 30分後、通信室に俺は向かった。無線機の前で、技術兵が待機している。


「総統閣下、第6軍司令部との回線、つながりました」


 俺は、受話器を取った。雑音混じりの向こうから、弱々しい声が聞こえてくる。


「……こちら、第6軍司令官、パウルス大将」


 咳き込む音。彼も、病んでいる。


「パウルス」


 俺は、できるだけ穏やかに言おうとした。だが、声が震える。


「君の状況は、理解している」


「……閣下」


 パウルスの声が、わずかに震えた。


「閣下の命令により、我々は死守を続けてきました。しかし、弾薬も食糧も尽きました。兵たちは凍え、飢えています。これ以上の抵抗は、無意味な死を増やすだけです」


 俺は、目を閉じた。


(……言えるか? 降伏しろ、と)


 言えば、25万の命が助かる。だが、ドイツ軍の士気は崩壊する。そして、ヒムラーたちが動く。


 言わなければ、25万人が死ぬ。


 どっちを選んでも、地獄だ。


「パウルス」


 俺は、震える声で言った。


「君は――」


 言葉が、喉に詰まる。


「――よく戦った。第6軍は、ドイツの誇りだ」


(……あれ? 俺、何を言ってる?)


 自分の口が、勝手に動いている。この肉体に染み付いた記憶が、俺の言葉を操っている。


「だから、最後まで――」


「待て!」


 俺は、自分の口を押さえた。技術兵たちが、驚いた表情で俺を見ている。


(……違う。これじゃ、何も変わらない)


 深呼吸。震える手。冷や汗。


「パウルス、聞いてくれ」


 俺は、必死で言葉を絞り出した。


「俺は――いや、私は、君たちを見捨てたくない」


「閣下……?」


「でも、わからないんだ。降伏を許可すれば、ドイツ軍の士気が崩壊する。許可しなければ、君たちが死ぬ。どっちが正しいのか、俺には――」


 カイテルが、血相を変えて叫んだ。


「総統閣下! 何をおっしゃっているのですか!」


 俺は、カイテルを無視した。


「パウルス。君は、どう思う?」


 長い沈黙。


 やがて、パウルスの声が聞こえた。穏やかな、諦めたような声。


「……閣下。私は、軍人です。命令に従います。ただ――」


 咳き込む音。


「――兵士たちには、罪はありません。彼らは、ただ命令に従っただけです」


 その言葉が、胸に刺さった。


「……わかった」


 俺は、受話器を握りしめた。


「パウルス。君に――降伏を、許可する」


 通信室が、凍りついた。


「総統閣下!」


 カイテルが、俺の腕を掴んだ。


「何をおっしゃっているのですか! 撤回してください!」


「離せ!」


 俺は、カイテルを振り払った。


「パウルス、聞こえるか。これは命令だ。第6軍は、降伏してよい」


 沈黙。


 やがて、パウルスの声が聞こえた。泣いているような声。


「……ありがとうございます、閣下」


 通信が切れた。


 俺は、その場に座り込んだ。全身から力が抜ける。


(……やった。俺、やったのか?)


 25万の命を救った。いや、生き残っているのは、もう9万人程度だろう。それでも、9万人だ。


 だが――


 ドアが、勢いよく開いた。


 入ってきたのは、ヨーゼフ・ゲッベルス。宣伝大臣。小柄で、足を引きずりながら、俺に詰め寄ってくる。


「総統閣下! 今の通信、聞きました! スターリングラード降伏だと!?」


「……ゲッベルス」


 俺は、立ち上がろうとした。だが、足が震えて立てない。


「国民に、どう説明するおつもりですか! 我々は勝っていると、そう言い続けてきたのですよ! それが突然、25万の大軍が降伏だと!?」


「……真実を、言えばいい」


 俺は、震える声で答えた。


「我々は、負けた。スターリングラードで、負けた」


 ゲッベルスの顔が、みるみる紅潮した。


「真実を!? 閣下、あなたは何もわかっていない! 国民には、希望が必要なんです! 真実など、誰も求めていない!」


「でも――」


「黙りなさい!」


 ゲッベルスが、初めて俺を怒鳴った。


「あなたは、政治を知らない。プロパガンダを知らない。真実を語れば、国民は絶望します。絶望すれば、戦意は崩壊します。そして、ドイツは本当に滅びます!」


 俺は、何も言い返せなかった。


(……こいつの言ってること、正しいのか?)


 わからない。22歳の大学生の俺には、わからない。


「我々がすべきことは、希望を語ることです」


 ゲッベルスは、冷たい目で俺を見た。


「スターリングラードは、英雄的な抵抗の末に玉砕した、と。第6軍の兵士たちは、最後の一兵まで戦い、ドイツの名誉を守った、と。そう発表します」


「……嘘を、つくのか?」


「嘘ではありません。演出です」


 ゲッベルスは、きっぱりと言った。


「政治とは、演出です。国民が信じたいことを、信じさせる。それが、我々の仕事です」


 俺は、ゲッベルスを見た。


 この男は、間違っているのか? それとも、正しいのか?


 わからない。


「……好きにしろ」


 俺は、諦めたように言った。


「だが、パウルスと第6軍の兵士たちは、生きている。それだけは、事実だ」


 ゲッベルスは、鼻で笑った。


「生きていても、ソ連の捕虜です。帰ってこられるのは、戦争が終わってから。それまでに、何人生き残るか」


 その言葉が、胸に刺さった。


(……そうだ。俺、何も救ってない)


 降伏を許可しても、彼らはソ連の捕虜収容所に送られる。極寒のシベリア。飢餓。強制労働。史実では、9万人の捕虜のうち、ドイツに帰還できたのは、わずか6000人。


 俺は、何も救っていない。


 ゲッベルスは、俺を置いて退室した。


 一人になった通信室で、俺は床に座り込んだ。


(……俺、何もできない)


 正しいことをしたつもりだった。でも、ゲッベルスの言葉が正しいかもしれない。真実を語れば、国民は絶望する。そして、戦争は続く。


 結局、何も変わらない。


 その夜、俺は眠れなかった。


 翌朝、1月29日。


 パウルスは、ソ連軍に降伏した。


 そして、その日の午後――


 執務室のドアが、乱暴に開いた。


 ハインリヒ・ヒムラー。親衛隊長官。その背後には、短機関銃を構えた親衛隊員たちがいる。


「ヒトラー」


 ヒムラーは、初めて「閣下」をつけなかった。


「貴様は、ドイツを裏切った」


 俺は、椅子から立ち上がった。震える足。だが、逃げ場はない。


「ヒムラー。私は、兵士を救った」


「貴様は臆病者だ! もはや総統の資格はない!」


 ヒムラーが、手を上げた。親衛隊員たちが、銃を構える。


 俺は、引き出しからワルサーPPKを取り出した。


「撃つか、ヒムラー?」


 にらみ合い。


 その時――


 扉が、また開いた。


 入ってきたのは、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥。


 ドイツ軍最高の戦術家。「冬の嵐作戦」を指揮し、失敗した男。


「……何の騒ぎだ」


 マンシュタインは、ヒムラーと俺を見た。


「ヒムラー長官。親衛隊を、下がらせろ」


「マンシュタイン元帥。これは、党の問題です」


「いいや」


 マンシュタインは、冷たい目でヒムラーを見た。


「これは、軍の問題だ。スターリングラードの件、私は総統閣下の判断を支持する」


 ヒムラーの顔が、歪んだ。


「貴様……何を言っている! 25万の大軍が降伏したのだぞ!」


「だからだ」


 マンシュタインは、静かに言った。


「私は、冬の嵐作戦で、第6軍を救えなかった。48キロ手前で、撤退せざるを得なかった。あの時、総統閣下が脱出を許可していれば――いや、パウルスが独断で脱出していれば、もっと多くの兵が助かった」


 マンシュタインは、俺を見た。


「総統閣下。遅すぎた判断ではありますが、それでも、あなたは正しいことをした」


 俺は、何も言えなかった。


 ヒムラーは、歯ぎしりした。だが、マンシュタインと陸軍を敵に回すことはできない。


「……覚えていろ、ヒトラー」


 ヒムラーは、親衛隊を引き連れて退室した。


 マンシュタインが、俺に向き直った。


「閣下。一つ、よろしいですか」


「……何だ」


「これから、どうなさるおつもりですか」


 マンシュタインの目が、俺を見据えている。


 俺は、震える手で椅子に座った。


「……わからない」


 正直に答えた。


「俺には、わからない。何が正しいのか。何をすればいいのか」


 マンシュタインは、わずかに笑った。


「それでいい」


「……え?」


「わからない、と言える指導者は、珍しい」


 マンシュタインは、窓の外を見た。


「総統閣下。一つだけ、助言します。この戦争は、我々の負けです。問題は、どう負けるか、です」


 その言葉が、胸に刺さった。


「……どう、負けるか」


「はい。できるだけ多くの兵を生かし、できるだけ多くの民間人を守り、そして――できるだけ早く終わらせる。それが、我々に残された道です」


 マンシュタインは、一礼して退室した。


 一人になった執務室で、俺は窓の外を見た。


 雪が、降り始めていた。


 スターリングラードの雪と、同じ雪が。


 ベルリンの街を、静かに白く染めていく。


(……どう、負けるか)


 マンシュタインの言葉が、頭の中で繰り返される。


 そうだ。俺には、勝つ方法はわからない。でも、負け方なら――歴史を知っている俺なら、少しはマシな負け方ができるかもしれない。


 俺は、震える手で紅茶のカップを持ち上げた。


 苦い。


 でも、少しだけ――ほんの少しだけ、道が見えた気がした。

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