元帥の冠
1943年1月28日。
総統官邸の地下壕は、冷たい沈黙に包まれていた。
俺は、机に広げられた電文を何度も読み返していた。スターリングラードからの最後の通信。パウルス大将の署名がある。
『弾薬尽きる。食糧なし。医薬品なし。零下30度。凍死者続出。総統閣下の命令により死守を続けるも、限界近し』
25万を超える兵が、あの地獄に閉じ込められている。マンシュタイン元帥の「冬の嵐作戦」は、12月下旬に失敗した。ソ連軍の猛反撃により、救援部隊はスターリングラードから48キロの地点で撤退を余儀なくされた。
あの時、パウルスが独断で脱出していれば――いや、マンシュタインが「脱出せよ」と要請した12月19日の時点で、この肉体の持ち主が許可していれば、もっと多くの兵が助かっただろう。
だが、もう遅い。歴史通りに、事態は最悪の方向へ進んでいる。
(……俺は、何をすればいいんだ?)
転生して一ヶ月。モレルの薬は半分に減らした。おかげで頭は以前よりクリアになったが、それが逆に地獄だった。クリアな頭で、この状況が見えてしまう。
ヒムラーは俺を排除しようとしている。ゲーリングは権力闘争に明け暮れている。ゲッベルスは俺の「変化」を警戒している。軍部は――国防軍と親衛隊が互いに牽制し合っている。
誰も信用できない。そして、俺は22歳の大学生だ。政治も、軍事も、教科書で読んだだけ。こんな奴が、ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争を終わらせられるのか?
「閣下」
ボルマンが、恭しく頭を下げた。党官房長。ヒトラーの秘書官でありながら、実質的な権力の番人。
「本日は、総統就任10周年の記念日でございます。国民へのラジオ演説の原稿を、ゲッベルス大臣が用意しております」
1月30日。1933年のこの日、ヒトラーは首相に任命された。ナチス政権の始まりの日。そして、史実通りなら――この日、パウルスは元帥に昇進させられる。
ドイツ元帥は降伏しない。全員、戦死している。つまり、元帥への昇進は、暗黙の自殺命令だ。
(……これを、止められるのか?)
手が震える。パーキンソン病の震えではない。恐怖だ。
もし降伏を許可すれば、25万の命が助かる。だが、ドイツ軍の士気は崩壊する。そして、ヒムラーやゲーリングが、俺を「弱腰」と非難し、クーデターを起こすかもしれない。
だが、降伏を拒否すれば――25万人が、無駄に死ぬ。
どっちを選んでも、地獄だ。
「……ボルマン」
俺は、掠れた声で言った。
「スターリングラードの第6軍に関する報告書を、すべて持ってこい」
ボルマンの目が、わずかに細まる。
「閣下。すでにお読みになられたかと」
「全部だ。陸軍総司令部、国防軍最高司令部、空軍、親衛隊、すべての報告書だ」
ボルマンは一礼して退室した。
一人になった執務室で、俺は窓の外を見た。ベルリンの冬空。灰色の雲が、重く垂れ込めている。
(……逃げたい)
正直な気持ちだった。こんな責任、22歳の俺には重すぎる。だが、逃げ場はない。この肉体から出ることはできない。
ドアがノックされた。ボルマンではない。軍靴の重い足音。
「失礼します、総統閣下」
入ってきたのは、ヴィルヘルム・カイテル元帥。国防軍最高司令部総長。背が高く、立派な口髭を蓄えた軍人だが、ヒトラーへの従順さから「うなずき驢馬」と陰で呼ばれている男だ。
「閣下。スターリングラードに関してですが」
カイテルは、新しい電文を差し出した。
「パウルス大将から、再度、降伏許可の要請が」
「……」
俺は、電文を受け取った。手が震える。
『総統閣下。我々は限界に達しました。これ以上の抵抗は、兵士たちを無意味に死なせるだけです。どうか、降伏をお許しください』
パウルスの悲痛な叫びが、紙の向こうから聞こえてくる。
(……俺は、どうする?)
歴史を知っている。この後、ヒトラーは降伏を拒否し、パウルスを元帥に昇進させる。そして、パウルスは降伏を選び、ドイツ史上初めて「降伏した元帥」となる。
だが、それまでに何万人が死ぬ?
「カイテル」
俺は、震える声で言った。
「もし――もし、降伏を許可したら、どうなる?」
カイテルの顔が、一瞬固まった。
「は……?」
「降伏だ。第6軍に、降伏を許可したら」
カイテルは、信じられないという表情で俺を見た。
「そ、総統閣下。それは……国防軍の名誉を汚す行為です。ドイツ軍は、降伏しません。最後の一兵まで戦うのが、我々の誇りです」
「誇りで、兵士は生き返るのか?」
俺は、カイテルを睨んだ。
「25万の兵士が、誇りのために死ぬのか?」
「……それが、軍人の務めです」
カイテルは、硬い表情で答えた。
俺は、何も言えなくなった。
(……こいつの言ってることも、間違ってない)
軍人には、軍人の論理がある。名誉、誇り、規律。それがなければ、軍隊は成り立たない。
だが、それで本当にいいのか?
「……パウルスを呼べ。直接話す」
俺は、そう言った。カイテルは、困惑しながらも一礼して退室した。
30分後、通信室に俺は向かった。無線機の前で、技術兵が待機している。
「総統閣下、第6軍司令部との回線、つながりました」
俺は、受話器を取った。雑音混じりの向こうから、弱々しい声が聞こえてくる。
「……こちら、第6軍司令官、パウルス大将」
咳き込む音。彼も、病んでいる。
「パウルス」
俺は、できるだけ穏やかに言おうとした。だが、声が震える。
「君の状況は、理解している」
「……閣下」
パウルスの声が、わずかに震えた。
「閣下の命令により、我々は死守を続けてきました。しかし、弾薬も食糧も尽きました。兵たちは凍え、飢えています。これ以上の抵抗は、無意味な死を増やすだけです」
俺は、目を閉じた。
(……言えるか? 降伏しろ、と)
言えば、25万の命が助かる。だが、ドイツ軍の士気は崩壊する。そして、ヒムラーたちが動く。
言わなければ、25万人が死ぬ。
どっちを選んでも、地獄だ。
「パウルス」
俺は、震える声で言った。
「君は――」
言葉が、喉に詰まる。
「――よく戦った。第6軍は、ドイツの誇りだ」
(……あれ? 俺、何を言ってる?)
自分の口が、勝手に動いている。この肉体に染み付いた記憶が、俺の言葉を操っている。
「だから、最後まで――」
「待て!」
俺は、自分の口を押さえた。技術兵たちが、驚いた表情で俺を見ている。
(……違う。これじゃ、何も変わらない)
深呼吸。震える手。冷や汗。
「パウルス、聞いてくれ」
俺は、必死で言葉を絞り出した。
「俺は――いや、私は、君たちを見捨てたくない」
「閣下……?」
「でも、わからないんだ。降伏を許可すれば、ドイツ軍の士気が崩壊する。許可しなければ、君たちが死ぬ。どっちが正しいのか、俺には――」
カイテルが、血相を変えて叫んだ。
「総統閣下! 何をおっしゃっているのですか!」
俺は、カイテルを無視した。
「パウルス。君は、どう思う?」
長い沈黙。
やがて、パウルスの声が聞こえた。穏やかな、諦めたような声。
「……閣下。私は、軍人です。命令に従います。ただ――」
咳き込む音。
「――兵士たちには、罪はありません。彼らは、ただ命令に従っただけです」
その言葉が、胸に刺さった。
「……わかった」
俺は、受話器を握りしめた。
「パウルス。君に――降伏を、許可する」
通信室が、凍りついた。
「総統閣下!」
カイテルが、俺の腕を掴んだ。
「何をおっしゃっているのですか! 撤回してください!」
「離せ!」
俺は、カイテルを振り払った。
「パウルス、聞こえるか。これは命令だ。第6軍は、降伏してよい」
沈黙。
やがて、パウルスの声が聞こえた。泣いているような声。
「……ありがとうございます、閣下」
通信が切れた。
俺は、その場に座り込んだ。全身から力が抜ける。
(……やった。俺、やったのか?)
25万の命を救った。いや、生き残っているのは、もう9万人程度だろう。それでも、9万人だ。
だが――
ドアが、勢いよく開いた。
入ってきたのは、ヨーゼフ・ゲッベルス。宣伝大臣。小柄で、足を引きずりながら、俺に詰め寄ってくる。
「総統閣下! 今の通信、聞きました! スターリングラード降伏だと!?」
「……ゲッベルス」
俺は、立ち上がろうとした。だが、足が震えて立てない。
「国民に、どう説明するおつもりですか! 我々は勝っていると、そう言い続けてきたのですよ! それが突然、25万の大軍が降伏だと!?」
「……真実を、言えばいい」
俺は、震える声で答えた。
「我々は、負けた。スターリングラードで、負けた」
ゲッベルスの顔が、みるみる紅潮した。
「真実を!? 閣下、あなたは何もわかっていない! 国民には、希望が必要なんです! 真実など、誰も求めていない!」
「でも――」
「黙りなさい!」
ゲッベルスが、初めて俺を怒鳴った。
「あなたは、政治を知らない。プロパガンダを知らない。真実を語れば、国民は絶望します。絶望すれば、戦意は崩壊します。そして、ドイツは本当に滅びます!」
俺は、何も言い返せなかった。
(……こいつの言ってること、正しいのか?)
わからない。22歳の大学生の俺には、わからない。
「我々がすべきことは、希望を語ることです」
ゲッベルスは、冷たい目で俺を見た。
「スターリングラードは、英雄的な抵抗の末に玉砕した、と。第6軍の兵士たちは、最後の一兵まで戦い、ドイツの名誉を守った、と。そう発表します」
「……嘘を、つくのか?」
「嘘ではありません。演出です」
ゲッベルスは、きっぱりと言った。
「政治とは、演出です。国民が信じたいことを、信じさせる。それが、我々の仕事です」
俺は、ゲッベルスを見た。
この男は、間違っているのか? それとも、正しいのか?
わからない。
「……好きにしろ」
俺は、諦めたように言った。
「だが、パウルスと第6軍の兵士たちは、生きている。それだけは、事実だ」
ゲッベルスは、鼻で笑った。
「生きていても、ソ連の捕虜です。帰ってこられるのは、戦争が終わってから。それまでに、何人生き残るか」
その言葉が、胸に刺さった。
(……そうだ。俺、何も救ってない)
降伏を許可しても、彼らはソ連の捕虜収容所に送られる。極寒のシベリア。飢餓。強制労働。史実では、9万人の捕虜のうち、ドイツに帰還できたのは、わずか6000人。
俺は、何も救っていない。
ゲッベルスは、俺を置いて退室した。
一人になった通信室で、俺は床に座り込んだ。
(……俺、何もできない)
正しいことをしたつもりだった。でも、ゲッベルスの言葉が正しいかもしれない。真実を語れば、国民は絶望する。そして、戦争は続く。
結局、何も変わらない。
その夜、俺は眠れなかった。
翌朝、1月29日。
パウルスは、ソ連軍に降伏した。
そして、その日の午後――
執務室のドアが、乱暴に開いた。
ハインリヒ・ヒムラー。親衛隊長官。その背後には、短機関銃を構えた親衛隊員たちがいる。
「ヒトラー」
ヒムラーは、初めて「閣下」をつけなかった。
「貴様は、ドイツを裏切った」
俺は、椅子から立ち上がった。震える足。だが、逃げ場はない。
「ヒムラー。私は、兵士を救った」
「貴様は臆病者だ! もはや総統の資格はない!」
ヒムラーが、手を上げた。親衛隊員たちが、銃を構える。
俺は、引き出しからワルサーPPKを取り出した。
「撃つか、ヒムラー?」
にらみ合い。
その時――
扉が、また開いた。
入ってきたのは、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥。
ドイツ軍最高の戦術家。「冬の嵐作戦」を指揮し、失敗した男。
「……何の騒ぎだ」
マンシュタインは、ヒムラーと俺を見た。
「ヒムラー長官。親衛隊を、下がらせろ」
「マンシュタイン元帥。これは、党の問題です」
「いいや」
マンシュタインは、冷たい目でヒムラーを見た。
「これは、軍の問題だ。スターリングラードの件、私は総統閣下の判断を支持する」
ヒムラーの顔が、歪んだ。
「貴様……何を言っている! 25万の大軍が降伏したのだぞ!」
「だからだ」
マンシュタインは、静かに言った。
「私は、冬の嵐作戦で、第6軍を救えなかった。48キロ手前で、撤退せざるを得なかった。あの時、総統閣下が脱出を許可していれば――いや、パウルスが独断で脱出していれば、もっと多くの兵が助かった」
マンシュタインは、俺を見た。
「総統閣下。遅すぎた判断ではありますが、それでも、あなたは正しいことをした」
俺は、何も言えなかった。
ヒムラーは、歯ぎしりした。だが、マンシュタインと陸軍を敵に回すことはできない。
「……覚えていろ、ヒトラー」
ヒムラーは、親衛隊を引き連れて退室した。
マンシュタインが、俺に向き直った。
「閣下。一つ、よろしいですか」
「……何だ」
「これから、どうなさるおつもりですか」
マンシュタインの目が、俺を見据えている。
俺は、震える手で椅子に座った。
「……わからない」
正直に答えた。
「俺には、わからない。何が正しいのか。何をすればいいのか」
マンシュタインは、わずかに笑った。
「それでいい」
「……え?」
「わからない、と言える指導者は、珍しい」
マンシュタインは、窓の外を見た。
「総統閣下。一つだけ、助言します。この戦争は、我々の負けです。問題は、どう負けるか、です」
その言葉が、胸に刺さった。
「……どう、負けるか」
「はい。できるだけ多くの兵を生かし、できるだけ多くの民間人を守り、そして――できるだけ早く終わらせる。それが、我々に残された道です」
マンシュタインは、一礼して退室した。
一人になった執務室で、俺は窓の外を見た。
雪が、降り始めていた。
スターリングラードの雪と、同じ雪が。
ベルリンの街を、静かに白く染めていく。
(……どう、負けるか)
マンシュタインの言葉が、頭の中で繰り返される。
そうだ。俺には、勝つ方法はわからない。でも、負け方なら――歴史を知っている俺なら、少しはマシな負け方ができるかもしれない。
俺は、震える手で紅茶のカップを持ち上げた。
苦い。
でも、少しだけ――ほんの少しだけ、道が見えた気がした。




