30. 鬼哭啾々(後編)
「強くなるだけなら、ボクシングとか柔道でもいいと思うけどー」
「強くなりたい訳じゃなくて……僕は、自分より強い相手と戦えるようになりたい、んだと思います」
悠之歩はどうにか言語化した。
戦って勝つだけで何もかも思い通りになるほど世界が単純なら、悠之歩ももう少し生きやすかっただろう。だが現実問題、誰かと戦って勝ったり倒したりすることは、悠之歩にとって自分を守る過程で通る状況の一つでしかない。裏を返せば、目の前の誰かを倒すだけで問題が解決とも限らず、相手を倒すことだけが勝利ではなく、かといって、弱いまま生きていけるとも思えない。策を弄するにしろ逃げるにしろ、交渉するにしろ助けを待つにしろ、まずは選択肢を確保する必要がある。
そう考えた時、悠之歩より体格で優れる者、経験に長けた者、武器を持つ者を相手にしてもそれを成立させられると実感させてくれたのが、鳴気流の師範だったのだ。
「自分より強い相手、かぁ……」
彩音は呟きながら、ぼんやり天井を見上げる。
「全体的な印象だけどさー。千秋くん、自分が弱いと思ってるよね」
「実際弱いですよ。最近は天才との力の差を感じてます」
悠之歩は、血の混じった唾を吐くような気分で言った。
「で、お師匠さんに投げられると、生まれ変われる気がするんだよね?」
「はい」
「それって、一回殺されるって意味?」
「――――」
いつも自分の中で響く言葉を外界から耳を通して聞かされ、悠之歩は固まった。
「千秋くんの鍛え方は否定しないけどー……話聞いてると、溺れる練習をしてるみたいっていうか……自傷行為をして、弱い自分を否定したいのかなーって。そうやって、何かの不安を麻痺させようとしてない?」
するすると糸を引くかのように、彩音は悠之歩の中にあるものを声に出し、音として外界の現象に変換していく。
「ね、千秋くんに自分は弱いと思わせたのは何?」
彩音に問われ、他人に自分の胸中を吐露することに抵抗を覚えていると、彩音は悠之歩の背後に回って背中を合わせた。
「あたしの顔見ながらより、こっちの方が話しやすい?」
「……まぁ、どちらかといえば」
彩音の背中の温もりと、冷えた自分の汗が混ざり、悠之歩はどぎまぎしながらも、自分の中に言葉の滴を落とすように悠之歩は訥々と語り始める。
「……僕は、昔から臆病で……色んなことが怖かったんです。夜中に親が喧嘩する声が聞こえるだけで、離婚するんじゃないかとか不安になったり。アニメを見ても、本当に怪物に襲われたらどうしようとか。災害のニュースとか、誰かの病気の話を聞くのも嫌でした」
悠之歩の両親は基本的に仲睦まじかったが、意見が衝突することもあった。今思えば、暴力にまで発展したり何日も引きずったりしない、良識の範囲内の口論だ。しかし幼い悠之歩は、深夜に目が覚めた時に両親が別室で言い争う声が聞こえてくると、重大な口論だと思ってしまい、2人が離婚するのではないかなどと不安になった。
そしてそんな時は大概、姉の歩実も隣の布団で目を覚ましていた。
暗がりで見えなくても、姉も不安そうにしていることが息遣いでわかった。
自分の中にある不安や恐怖とまったく同じものが、姉の中にも丸々もう一つある。
隣にいるのは、もう1人の自分だ。
そう考えた途端、抱えている恐れが2倍になり、さらには姉の助けになれないことへの申し訳なさまで加わって、頭が内側から破裂しそうだった。
どうやったら姉をこの苦しみから救えるかがわからない。
自分の心すら救えない悠之歩では、姉の心を軽くすることすらできない。
そんな漠然とした無力感が、幼い悠之歩には常にあった。
「……そしたら、僕が5歳の時、従妹がうちに養子に来たんです。叔母と叔父が事故で亡くなって、引き取ることになって……」
何の変哲もない、ただの交通事故だったらしい。叔母夫婦が理穂を保育園に預け、2人で車で通勤する途中で、暴走する対向車と正面衝突したそうだ。
そして他に理穂を育てられる親戚がおらず、叔母の実兄である悠之歩の父が理穂を引き取ることになった。
「その時、人はいつ死んでもおかしくないって思い知ったんです。自分とか家族とか、友達も同じ目に遭うかもしれない。それに、実の親が亡くなってるって知ったら従妹はどんなに辛いかとか……僕じゃその悲しさを慰められないんじゃないかとか、自分が従妹の立場なら耐えられるかとか……どんどん、何もかもが怖くなって」
悠之歩には家族もいて、生活に困っておらず健康だが、それ自体が幸運によってもたらされたものであり、不運によって容易く崩れ去ってもおかしくない。
不仲が高じて両親が離婚したり、事故に遭ったり病気にかかったりする可能性は常にあり得る。もっと些細な不幸や不運など、数え出したらキリがない。
元々そう感じていた折、親を喪った従妹が家に来たことで、恐れている事態が実現する可能性をより間近に感じるようになったのだ。
従妹の件がなくとも遅かれ早かれ同じことになっていたかもしれない。しかしいずれにせよ、従妹が養子に来たのを明確な境として、悠之歩の中の疑心暗鬼が声としてはっきり聞こえるようになり、悠之歩はそれに自答できないでいた。
家族と一緒に温かな暮らしをできている以上、幸福や愛情が存在しない偽りやまやかしではないことはわかっている。だが、「本当の幸福」や「真の愛情」が実在したとて、それらに永遠性や不変性が保証されていることにはならない。
幸福も愛情も尊いものだが、いつどこで終わりを迎えてもおかしくない以上、それらを過信し依存してはならない。
あれば嬉しく、なくても悲観してはいけないのだ。
だからこそ悠之歩は、離別や苦難、喪失に耐えられるように備えねばと思った。
いつ、どんな形で幸せと言える今の状態が終わるかわからない。
いつか必ず大切な誰かと別れることになる。
だから、尊くも不確かな幸福や愛情を人生の骨格としてはならない。
理不尽な不幸も不条理な危険も乗り越えられる自分になっておかねばならない。
姉の中に悠之歩と同じ不安があったように、従妹の悲しみと同じものもいつか悠之歩の中に生じるかもしれない。自分も、あの時の従妹と同じ表情になるかもしれない。
誰かが感じる悲しみは、いつ悠之歩にも生じてもおかしくないのだ。
「……だから、生き方に骨格が欲しかったんです。原点というか、困った時に最後に残るものが。それで、単に強くなるだけじゃ解決しなさそうだし、そもそも強いってどういうことかわからなくて……鳴気流に迷い込みました」
そして鳴気流の稽古を通して自分の成長を実感できたことで、疑心暗鬼な己を封じるには餓鬼の如き貪欲さで鍛錬し続けるしかないと気づけたのだ。
「鳴気流で稽古して……師範に投げられたら、その経験も成長に繋がるって実感できて……道場に通えなくなっても、一人でも型稽古して、いつでも呼吸法をして……そうやって、少しでもマシな自分になろうとしてきました。とりあえず、こんなところです」
「従妹さんには、実のご両親のことは?」
「まだ話してません。来年高校に入るので、その時、うちの両親から話すつもりらしいです」
「そうなんだ……教えてくれてありがと」
柔らかい声で彩音が言った。
「千秋くんが戦う相手は、人じゃなくて、不幸とか不運そのものだったんだね。それに比べたら、自分は無力って思ってて……だから苦しいことに慣れて、苦しむ自分を変えて、不幸に備えようとしてきた。これってすごいことだと思う。でも、今も鳴気流は苦しいだけ? 鳴気流を知った後で、鳴気流以外にわかるようになったことはない?」
「それは……」
彩音に言われて、悠之歩は思い出す。
確かに初めは、鳴気流の稽古は辛いばかりだった。しかしその稽古が実を結んだという経験があったから過去の稽古に意義を見出し、意味ある稽古をできていたことが嬉しく、次の稽古の辛さに臆することもなくなった。
そして、鍛えるということへの価値観や、戦うことへの意識もまた、間違いなく変わったはずだ。
流火のコンセプトを矩場から聞いた時や、燎に犯罪者の生殺与奪について問われた時、悠之歩は自分なりの着眼点や価値観で答えを返すことができた。
何より、深和が自分と異なる鍛錬をしても、それが深和にとっての「呼吸法」であり、彼女にとって価値があることだと認識できた。さらにそんな深和の姿を励みに、悠之歩自身の稽古のモチベーションにもできたではないか。
「千秋くんの稽古には、千秋くんが思う以外の実りもあると思うしー。深和ちゃんの悩みに何もできないってこと、ないんじゃない? もちろん、千秋くんが一人で全部解決って訳にもいかないけどさー。千秋くんは、深和ちゃんにどうなって欲しいの?」
そう問われて、悠之歩は、深和に自分を倒させて深和の強さを実感しようという考えを改めて整理し、遡った。
――僕は、二冬に傷ついて欲しくない……二冬が強いってことを確かめて、安心したい。二冬がやりたいことをやり切れると知りたい――
「……二冬に、自力で道を切り拓いて欲しいです」
悠之歩は、口に出した。
「僕が知らないところでも、二冬はずっと鍛えて、勉強して、頑張ってたはずなんです。そうじゃなきゃ、今みたいになれないはずだから。そうやって積み上げたものを、無駄にして欲しくない。今までの頑張りが間違ってたとか、無力だとか、二冬本人には思って欲しくない。手に入れてきたもの全部使って、望む道を行って欲しい。二冬が、自分の努力が無駄で間違ってたみたいな表情するのが嫌なんです」
そう口にしてから、ここしばらく自分が深和に対して抱えていた感情の傲慢さと無責任さに気づき、悠之歩は顔を顰めた。
いついなくなるかもわからない他人に多くを望み、押し付けることは、悠之歩にとってできる限り避けたいことだったはずだ。奈笠に来てから一人で稽古するようになったのも、そもそも師範のような特定の個人や、道場という環境に依存したくないと思い、独力でも稽古できると自身に証明したかったから他ならない。
――なのに、二冬に僕を殺してもらおうだなんて……これじゃ依存と変わらない。二冬のことを盲信して、僕を納得させろって押し付けてただけだ。二冬を手助けすることもなく、自分が流火で鳴気流を使うことだけ考えて、好き勝手して……。
悠之歩は、罪悪感が肺腑を掻き毟るのを感じた。
するとその時、そんなことを知る由もない彩音は悠之歩に体重を預けてきた。
「それ、深和ちゃんに直接言ってあげた方がいいと思うよー?」
「……一方的にこんなこと考えてたなんて暴露されたら、鬱陶しくないですか?」
「ぶっちゃけ重い」
「…………」
「でもさー。深和ちゃんからしたら、そもそも千秋くんがあまりに未知じゃんー? だったら千秋くんの方から何か言わなきゃ。じゃないと、ファンを自称してるのに自分の能力をひけらかして自尊心をへし折ってくる、無自覚サイコ変態クソ野郎のままだよ?」
「クソ⁉」
「だけど千秋くんのことを理解できれば、心優しい異常者くらいには持ち直すかも」
「それ持ち直したって言えるんですか?」
「どうせ他人を救うのなんて、千秋くんに限らず誰にだって難しいしさー。とはいえ、何もできない訳じゃないじゃん? 少なくともあたしは、千秋くんのこと知れて良かったっていうかー……実は最初、千秋くんの波形見つけてビビったんだよねー」
「そうなんですか?」
「だってさー。誰に見せるためでもないのに、延々と深層筋に負荷かけてるんだよー? 意味不明じゃない? 何考えて生きてるかわかんないしー」
「そこまで言います?」
「深層筋のことに気づける人間を、千秋くんが逆探知してるんじゃないかとさえ思ってー。ほら、深淵を覗く時、深淵もこちらを覗くってやつ」
「さすがに考え過ぎです」
「結果的にはそうだったけどー。でもあたしからしたら、千秋くんってそれくらい得体が知れなかったよ? 研究室に呼んだ時、怖かったの何の」
「すみません……って、これ僕が悪いんですか?」
「まぁ、悪くはないかー」
彩音は笑ってから言葉を続ける。
「それでいざ会った時、あたしのコーヒー美味しそうに飲んでくれたでしょ」
「本当に美味しかったですよ」
「あはは、ありがとー。でもあたしが言いたいのはさー。千秋くん、最初はコーヒー飲むつもりなかったんじゃないかって」
「それは……」
警戒心を覚えていたことを見抜かれていたらしい。
「いいよー。要は、あたしが千秋くんを怖がる気持ちは、千秋くんがなくしたってこと。最初警戒しても、最終的に飲んで、喜んでくれるだけで充分じゃん。だから、誰かを救えないとか決めつけなくていいと思うよ? 失敗を恐れずチャレンジするの、得意なんでしょ?」
「…………」
彩音が背後に回ってくれたことを、悠之歩は今更ながらに内心で感謝した。
今の自分の表情を見られるのは恥ずかしい。
「深和ちゃん相手にも、当たって砕けてこ? 研究室戻ってから、2人で話す時間作ってあげるからさー」
「……ありがとうございます」
「あ、2人きりだからってえっちなことするのはナシね?」
「しませんよ……僕、そんな悪い男に見えますか?」
「別ベクトルでやばくはあるかなー」
身に憶えがないと反論しようとしたが、かつて深和になら殺されてもいいなどと考えたことがあるので、悠之歩は黙っておくことにした。




