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28. 心折心

「え、ハードル高くないー?」


 名乗りを上げた深和に、彩音が面食らったように言う。


「柔道なら中学の体育でやったことがあります」


「いや、男女でやるのがって意味でー……」


「確か千秋くんの流派は、襟を掴んだり組んだりが最小限なんですよね」


「うん、まぁ」


「なら、道着じゃなくジャージでも乱取りできますか?」


 ――何で女子側が男相手の乱取りにやる気出してるんだ……?


 困惑しつつ、悠之歩は答える。


「襟とか胸元は握らないから、ジャージでもできなくはない……かな」


「わかりました。私の方は問題ありません」


 深和は薄手のジャージを羽織り、ファスナーを締めた。


「別のどこかで問題ありそうなんだけど」


「……とりあえず千秋くん、やらしいことは絶対ダメだよ?」


「しませんよ。命を懸けて」


 悠之歩はコクコク頷いた。


 ――二冬と乱取りって……。


 思いもしなかった展開に、悠之歩は戸惑う。


 3ヶ月前は、深和と装骨格で模擬戦をすることすら予想外だった。その上まさか、生身の腕試しまですることになるとは。


 ――それでコツとか掴めるならそれでいいけど……何も得るものがなかったら?


 悠之歩は、武道場の中央に向かう深和の背中を見ながら考える。


 深和が異性相手に、さほど経験がある訳でもない柔道の乱取りをしようとするのは、それほど追い詰められているからだ。悠之歩と対峙することで格闘戦の要素を吸収するにしろ、丹田にまつわる何かを体感するにしろ、これが最適とも効果的とも言い難い。深和自身、もはや破れかぶれなのではないか。


 となれば、この乱取りの結末によっては深和に引導が渡されることになりかねない。


 それならばここで――


 ――今、二冬の心を折るべきか?


 晴天の霹靂とも言える鬼の囁きに、悠之歩は延髄に直接毒を注入されたかのような寒気が、首から下にすっと下りていく心地を覚えた。


 音斬も格闘も深和には適していないと突きつけ、公認三社や警察に入って戦う気が起きなくなるほど挫折させれば、深和が死にかけるような目に遭わないかと憂慮する必要もない。


 ――違う……ダメだ。そんなことするために稽古してきたんじゃない。他人の心をどうこうしようなんて烏滸がましい。分不相応だ。余計なことを考えるな。


 悠之歩は思考を閉ざそうと心掛け、深和と向き合う。


 ――今は乱取りの――鳴気流のことだけ考えろ。息をして、歩け。


 悠之歩は深く呼吸し、肚の奥底に意識を集中させる。


 先ほどまで稽古を実演していたので、身体の状態はそれなりに準備ができている。


「えっと、じゃあー……用意、始め」


 彩音がぎこちなく開始の合図を出すと、深和が果敢に踏み込んできて、悠之歩の右袖と左の奥襟に向かって手を伸ばしてきた。中学の体育の授業でしか経験したことがないにしては、迷いなく的確な動きだ。


 それに対し、悠之歩は歩法で僅かに立ち位置をずらしつつ、丹田を中心に小さく体を揺すりながら深和の手を逸らした。悠之歩の道着を掴もうとしていた深和は、それだけで深和の姿勢は崩れ、その隙に悠之歩は深和の側面に回り込む。柔法が機能している証拠だ。


 悠之歩の動きに合わせ、深和はすぐ体勢を立て直し、掴むというより殴るかのような速度で次々に手を伸ばしてくる。


 悠之歩は、深和の真正面から微かにずれた場所で、敢えて深和に襟と袖を取らせた。その直後に深和が足を掛けて悠之歩を倒そうとするが、それより先に悠之歩は、上体を脱力させつつ左足を軸に右半身を前に出して、重心を深和に寄せる。


 余計な力を抜く柔法によって、自分自身の身体を一つの重い塊として扱うだけで、相手は悠之歩を持ち上げたり動かしたりすることが瞬間的に困難になる。このまま脱力した上体でいれば純粋な腕力や筋力で対応されてしまうが、一瞬の力学的な変化には反応が遅れるため、その隙に悠之歩はまた呼吸と共に肉体の状態を変化させつつ歩法で間合いをずらせるのだ。


 足払いを狙った深和は、あたかも自ら悠之歩を引き寄せて自分の身体にぶつける形になり、その勢いでよろける。すんでのところで踏み留まるが、それでも姿勢が崩れ切っていることに変わりはない。


 悠之歩は深和に右袖を掴まれているが、左腕は自由だ。


 顔でも腹でも殴れる。


 髪を掴んで畳に叩きつけてもいい。


 目を突いてもいい。


 深和はそれらを防げない状態にある。


 ――殺してしまおうか――


 好機を嗅ぎつけた鬼の声をいつもならすぐ押し殺せるが、この時ばかりは受け流すのに逡巡し、それを察知したのか深和が大きく動いた。


 まだ畳についていた左足の余力で軽く跳び、両脚を悠之歩の胴に巻きつけてきたのだ。


 このまま全体重を使って悠之歩を引きずり倒し、寝技に持ち込もうというのか。


 しかし悠之歩は姿勢を崩すことなく、自分の右袖を掴む深和の右手の親指の付け根を、左手で押し込むように握った。これによって深和の右手が外れ、悠之歩はそのまま右手を伸ばして自分の両腕を交差させ、深和のジャージの右肩口を掴む。


 これで深和は逃れられない。


 悠之歩を引き倒すこともできない。


 このまま悠之歩が上体の力を抜き、自らを六〇キログラムの塊として深和にのしかかれば、深和は手を使って受身を取れず頭から畳に叩きつけられることになる。


 ――殺せ――


 そんな声なき声が悠之歩の頭蓋の裡で響き、暗闇の中で溶ける。


 その瞬間、悠之歩と深和の目が合った。


 深和の瞳に、怯えの光が揺らぐのが見えた。


 彼女も、このまま地に叩きつけられるのを防ぐ術がないと気づいたのだろう。


 ――嗚呼、くそ……。


 悠之歩は「ふっ」と息をつき、深和の後頭部が畳に触れそうになったところで、深和を落とす動きを止めた。


 それだけで、言葉を交わさずとも、これが悠之歩の一本になったという合意が結ばれたと感じる。


 悠之歩は深和に組みつかれたまま腰を落とし、正座しながらぐいっと深和の身体を持ち上げて引き起こした。深和は悠之歩の胴に両脚を巻きつけ跨る形になり、真上から悠之歩を見下ろす形になる。


「……参りました」


 悠之歩を真上から見下ろしながら、深和は喉がひくつくような声を絞り出した。


 深和の顔から汗の滴がぼたぼたと落ち、悠之歩の額や頬に落ちる。


 それを見て深和が「すみません」と言いながら慌てて悠之歩から離れたその時、彩音が声を上げた。


「――は、はっ、破廉恥じゃない!?」


 悠之歩と深和が彩音の方を見ると、武道場の隅で、両手で顔を覆いつつも指の隙間から悠之歩たちを見ていた彩音が言った。


「くんずほぐれつを、色んなアングルから撮影しちゃって! AVじゃないんだから!」


「人聞きが悪過ぎる……」


「カメラを設置したのは百白先輩ですが……」


 悠之歩と深和が呆れ半分で言う。


「千秋くん、えっちなのはダメって言ったじゃん!」


「腕以外には触らないようにしましたけど……ごめん、変なところに手とか当たってた?」


 悠之歩が聞くと、深和は「……いえ」と袖で汗を拭いながら不機嫌そうに答える。


「……おかしなところはありませんでした。まったく」


「ならいいけど……」


 悠之歩は深和の反応を不可解に思いつつ、カメラの片づけを始める。


「あ、深和ちゃん。この後、研究室まで来てもらってもいい? ちょっと同意書にサインして欲しくてー」


「……同意書?」


「ほら、今の乱取り、撮影したじゃん? 深和ちゃんにもデータ収集に協力してもらったってことになるから。帳尻合わせだけど、サインが要るんだー」


「……わかりました。シャワーを浴びてからでもいいですか?」


「もちろんー」


 深和はそう言い、悠之歩の方は一瞥もせず武道場の掃除を手伝ってから、逃げ去るように武道場を出ていった。

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