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鬼道ウォーカー  作者: 有多照
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1. 誘い

 頭蓋の(うち)の暗闇に潜む姿なき鬼を、(はら)の奥底まで押し沈める。


 そのような意識で、深く、細く、長く、静かに息を吐き出し、白い道着と黒の袴を身に着けた千秋(ちあき)悠之歩(はるのぶ)は見えない刀を握っているかの如く両腕を振り下ろした。


 下宿先の八畳一間の自室には、壁際に寄せられた簡易テーブルと畳まれた布団、デスク、本棚しかない。本棚に並んでいるのはまだ真新しい大学の教科書や参考書ばかりで、フローリングの床は敷物すらなく剥き出しだ。衣擦れとすり足、息遣いの音、そして窓の外で降りしきる雨音だけが飾り気も温もりもない虚ろな空間に満ちては消えていく。


 裸足の悠之歩は踵を紙一重で床から浮かせ、親指の付け根の一点を軸にした足運びで部屋を縦横無尽に動き回りながら、真っ向斬り、袈裟斬り、突き、薙ぎ、斬り上げの素振りを繰り返した。眉間に皺を刻み、(くら)い光を湛えた双眸は眼前を確と見据え、1人きりの部屋にいながら標的を明確に捉えているかと思わせるほど太刀筋に迷いがない。


 素早くも静かな型をひとしきりこなすと、悠之歩は爪先を揃えて立てて正座し、一方の膝を支点にして、もう一方の膝と両爪先を蹴り出す膝行を始めた。立って歩く時と変わらない速度で滑るように進み、退()がり、転換しながら、上半身では先ほどと同じ素振りをする。


 約2時間の稽古を終えて全身汗みずくになり、疲労と虚脱感で精神が凪いだ悠之歩の眉間からは皺が溶け落ちていた。


 濡れたスポンジのように重い体を引きずってシャワーを浴び、朝食を摂ってから、悠之歩はスマートフォンに昨日届いたメッセージを確認した。件名は「導波動(どうはどう)波形研究の協力依頼」、送信元は「奈笠(ながさ)大学導学部解析科第32研究室」とある。


 奈笠大学は悠之歩がこの4月から通い始めた大学で、導学部は導波動にまつわる教育と研究のための学部、解析科は導波動の波形や骨格者を専門とする学科だ。


 導波動とはごく一部の人間が発する特殊な生体磁気で、およそ500人に1人が第二次性徴を境に導波動を発するようになり、そのような人間は骨格者と呼ばれる。


 プロメテウスの再犯によって緋導鋼の存在が知られ、緋導鋼が帯びた導波動は物理的なエネルギーとして利用可能になると明らかとなって以降、世界中で導波動の研究が進められてきた。


 悠之歩は骨格者であり、導波動の波形を記録して提出したことがある。そのため悠之歩が呼び出されること自体は自然だが、そのデータから何をどう求められるかはわからない。


 ――どういう研究の協力かな……高校の時、ランダムで呼び出された人もクラスにいたけど……それとも、今回は何か特別な理由があるとか?


 悠之歩は考えながら大学のホームページを開くが、解析科第32研究室については珠城(たまき)という女性教授の研究室であること以外に記述はない。大学専用のアプリで届いたメッセージなのでなりすましではないだろうが、それでも訝しんでしまう。


 やがて時間になり、悠之歩は勉強道具一式を入れたリュックを背負い、大学の講義に出席するため部屋を出た。


 奈笠大学や悠之歩の下宿があるのは、日本全国に6つある警備特区の1つ、奈笠警備特区と呼ばれる街の中だ。関東北部にある奈笠警備特区は厳重な警備体制が敷かれた人口5万人ほどの街で、導波動を利用した発電所や、緋導鋼を用いた機械を製造する工場、導波動関連の研究施設、そして2つの大学と4つの高校、住宅街と生活インフラを有している。


 奈笠大学導学部キャンパスは悠之歩の下宿先からは徒歩で20分の場所にあり、キャンパス内の建物はどれも新しく綺麗で現代的なデザインのものばかりだ。


 午前中に講義を2つ受けた後、悠之歩は解析科第32研究室を訪ねるべく研究室棟に向かった。研究室に配属されるのは2年生からなので、入学してまだ2ヶ月の悠之歩には馴染のない建物だ。


 研究室棟に入って案内板を確認し、エレベーターで5階まで上がる。エレベーターを降りて廊下を左に突き当りまで進んだところに第32研究室があるはずだ。


 ちらほらと上級生たちが歩いている廊下を行くと、十字に交わる廊下の正面にあるトイレから身長180センチほどの男子学生が出てきた。ワイヤレスイヤホンを着け、スマートフォンを注視している。その歩調は速く、ちらりと悠之歩を見てまた手元のスマートフォンに目を落とし、悠之歩の右側をすれ違おうとした。それと同じタイミングで、右の廊下から大きな箱を重そうに抱えた小柄な女子学生もよたよたと歩いてくる姿が悠之歩の視界に入る。


 2人がぶつかる――そう直感した悠之歩はすっと男子学生に体を寄せ、男子学生の右肘に左手で軽く触れつつ、相手の背後に向けて自分の重心を入れた。


 悠之歩の腕にはほとんど力が込もっておらず、上半身も真っ直ぐ立ったままだ。


 それなのに、悠之歩より10センチほど背が高い男子学生の姿勢が崩れ出す。


「――うぉっ!?」


 倒れ始めてから一拍遅れて男子学生の声が上がるが、悠之歩は動きを止めない。男子学生の左肩に右手を当てつつ、そのまま自分と相手の重心を一緒に沈み込ませるように少し腰を落とし、右足を踏み出す。


 事態に気づいても、男子学生は踏ん張ることも抗うこともできない。


 このまま相手を突き飛ばせば、壁に叩きつけられる。


 足を掛けて跳ね上げれば、頭から床に落とすことができる。


 無防備な状態なので、顎を1発殴れば昏倒させられるかもしれない。


 そんな状態になっている。


 ――殺せる――


 脳裏でそんな声がするのを聞き流し、相手の肘と肩を支え続けたまま、悠之歩は上半身を完全に脱力して体重を預けるように僅かに上体を前に傾け、男子学生を介助するかのようにストンと座らせた。


「ぶつかりませんでした?」


 悠之歩は振り返って女子学生に尋ねた。


「――えぇっ!? あ、はい、大丈夫……」


 いきなり声をかけられて初めて悠之歩と男子学生に気づいたらしい女子学生は、びくっと体を震わせて反射的に言った。


「ならよかったです」


 悠之歩は少し笑って見せ、男子学生に「驚かせてすみません」と声を掛けて助け起こしてから、相手に背中を向けないようにしつつさりげなく一歩下がる。


 男子学生は有無を言わさず転ばされたことに思うところはあるようだが、歩きながらスマートフォンをいじっていた自分の非も自覚しているのだろう。ばつが悪そうに立ち上がり、そそくさとエレベーターの方に立ち去っていった。


 それを見送ってから悠之歩が改めて第32研究室に向かおうと視線を巡らせると、女子トイレの前に別の女子学生がおり、悠之歩と目が合った。


 くっきりした二重瞼の垂れ目に大きな瞳、整った鼻筋、桜色の薄い唇の美女だ。鎖骨まで届くミディアムの髪は丸みのあるシルエットのレイヤーカットで、アッシュブラウンに染められている。白のニットに黒のテーパードパンツという服装だが、その曲線美は隠しきれておらず、柔和な雰囲気が醸し出されている。


 ――綺麗な人だな。


 他人事のようにそんな感想を抱いた悠之歩の方に近づいてくると、その女子学生は廊下の先にある第32研究室のドアを指さし、力の抜けた柔らかい声で話しかけてきた。


「あのさー。もしかしてキミ、ここに用事あるー?」


「はい」


「おっ、マジかー。的中~」


 美女がふにゃっと笑った。


「もしかして……」


「そー。キミを呼び出したの、あたしなんだー。解析科2年の、百白(ももしろ)彩音(あやね)っていいまーす。よろしくー」

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