2. 臍下丹田
「解析科2年の百白彩音でーす。よろしくー」
「解析科1年、千秋悠之歩です」
「え、同じ学科なんだー。奇遇じゃーん」
研究室の方に歩き出しながら彩音が言った。
「百白先輩は大学入試で入ったんですか?」
「うんー。導波動の研究が面白そうだったから」
「警備特区の大学に入れたのすごいですね。入試問題、すごく難しかったのに」
「むずかったむずかったー。めちゃくちゃ頑張って勉強したもん。千秋くんは高校からの内部進学なんだよね? 導波動のデータ、3年前からあるしー」
「はい」
警備特区内に居住する骨格者は月に1度、5日連続で手にスマートウォッチ型の記録装置を着けて導波動波形を記録し、提出する決まりだ。悠之歩は警備特区内の奈笠第二高校にも通っていたので、波形の記録も3年2ヶ月分保存されている。
そんな話をしながら、彩音はドアを開け、悠之歩を研究室に招き入れた。
狭い部屋だ。入口から見て右の壁際にあるスチール製の棚は、学術書やファイル、コーヒー用品で埋まっている。左側には2台のパソコンと電気ケトル、デスク、キャスター付きの椅子が、奥には3人掛けのソファーがある。
彩音は悠之歩にソファーを勧めてから、コーヒーサーバーやカップ、ドリッパーなどを準備し、ケトルでドリッパーの豆に湯を注ぎ始めた。
「この研究室って、どんな研究してるんですか?」
「運動生理学って言ったらいいのかなー。ヒトが運動した時に脳内物質がどうなるかとか、導波動波形から研究してるんだー」
「たいへんそうですね……」
導波動は人体から発せられるエネルギーであると同時に、磁気的な性質を持った、言うなれば生体磁気の一種だ。そしてこの導波動は、運動や栄養摂取、疾病、加齢、疲労、負傷、精神的ストレスなどによって起こる神経の電気信号や血流、リンパ液、脳波、体内物質などの影響で波形が変動する。
導学部解析科はこの波形変化を通して人体や精神を研究・教育する学科であり、疾病や外傷の研究や治療に役立てる医学部とは別に、人間工学や心理学に導波動を応用している。
「結構面白いよー? スポーツするのがどれくらいストレス解消になるかとかー。あと、ランナーズハイとかゾーンの研究もしてるんだー」
「意識が冴えるやつでしたっけ」
「そー。運動への影響とか、どんな運動をするとそうなれるかとか調べててー」
彩音はドリッパーにコーヒーを注ぐ手を止めないまま言った。
「――千秋くんの波形データも、かなり良いサンプルになりそうなんだよねー。結構な頻度でハイになってるでしょー」
「もうちょっと他の言い方でお願いします……」
「あはは、ごめんごめんー。今の言い方だと危ないクスリやってるみたいかー」
導波動波形を提供している以上、悠之歩が普段している稽古を把握されるのは織り込み済みだ。むしろ、悠之歩が稽古をすることで悠之歩に何かを見出す者がいるのかが気になったから、波形計測期間中も習慣を変えず稽古することにしたのだ。
「僕を呼んだのは、その研究テーマと被ってるからですか?」
「ううん、別件。企業からの依頼なんだけど、涼羽精工って会社は知ってる? 導波動の計測機器とか、精密機器のメーカーでー」
「涼羽SAの親会社ですよね」
「そーそー。その涼羽精工から、お腹の深層筋が発達した骨格者を探すよう頼まれてねー。教授が理論とか手法を考えてー、あたしが解析用のアルゴリズム作ってー、それで千秋くんを見つけたんだー。で、教授は色々忙しいから、代わりにあたしが説明してるって訳ー」
――アルゴリズム作ったって、プログラミングしたってことか? この人、もしかしてずば抜けて優秀なんじゃ……。
そう思いつつ、悠之歩は別に気になったことを尋ねる。
「深層筋って、臍下丹田のことですか? 何というか……目の付け所がマニアックですね」
「あたしもそう思うー」
彩音は少し笑って言った。
「しかも、発達度合いの要求水準が超高くてー。武道とかスポーツやってる人でも、なかなか届かないんだよねー。奈笠にいる骨格者全員を分析しても、千秋くん含め3人しかいなかったしー」
悠之歩以外に2人いる。
そう言われた途端、悠之歩の脳裏に1人の女子の顔が浮かんだ。
「僕以外の2人もここに来るんですか?」
「その二人は涼羽の方でコンタクト取れたらしいんだよねー。でも千秋くんは、この研究室でしか見つけてないから。ここで概要説明して、千秋くんが同意したら紹介するって流れ」
波形データは個人の名前や住所が特定できない状態で保存されており、奈笠警備特区にある研究機関と奈笠大学導学部の研究室、奈笠医科大学と奈笠医大附属病院は、研究のためにそのデータバンクへアクセスが可能だ。
そしてそんな個人情報でもある波形データや、その波形の持ち主を外部企業に紹介する場合、本人の同意が必要になる。
「深層筋が発達してるって、筋力が強いって意味ですか?」
「導波動波形が大きく変化してるって感じー。深層筋を使い慣れて神経が発達してるってことだから、結局は筋力も含むかなー。どちらにしろ相当鍛えてないといけないんだよねー。その点、千秋くんはかなり使い込んでるでしょー」
彩音はようやくドリッパーからコーヒーを落としきり、カップのお湯をケトルにもどしてから、コーヒーサーバーのコーヒーをカップに注いで悠之歩に渡す。
「毎日、呼吸する度に腹圧を上げて深層筋に負荷かけてるじゃん? 食事と睡眠の時以外ずっと」
「導波動の波形からそこまでわかるんですね。びっくりしました」
悠之歩はコーヒーカップを受け取りながら聞いた。
「びっくりしたのはこっちっていうか、フィルタリングとかミスったのかとテンパったんだけどー……ご飯食べる時と寝る時以外、ずっとこんな息の仕方してんのー?」
「慣れると結構やれますよ」
「そもそもやろうと思わないって話だよ?」
「深層筋を使って、涼羽は何をしたいんですか?」
「機械のテストらしいけど、あたしも聞かされてないんだー。詳しい説明は涼羽の人がするんだってー。こっちの担当はあくまで、千秋くんを涼羽に紹介するかどうかってとこまで」
「なるほど……」
呟きながら、悠之歩は思案を巡らせる。
気になるのは、悠之歩以外に条件を満たした2人の内の1人が、悠之歩の心当たりと合致するかどうかだ。
根拠はないが、彼女も選ばれたのではないかと直感が告げる。
悠之歩が昼も夜もなく鍛え上げてきた臍下丹田を必要とされる分野で、彼女と同じ土俵に上がることになるかもしれない。そして、そんな風に悠之歩たちが招かれるとしたら、それはどんな舞台なのか。
肚の底が疼くような感覚を覚えつつ、悠之歩は彩音に聞いた。
「僕以外に条件を満たした2人って、どんな人なんですか?」
「ごめん、あたしからは言えないんだー。こっちでも波形データは見つけてるけど、個人情報だから」
――確かめるには、飛び込むしかないってことか。
「……わかりました、涼羽に紹介してください。丹田の波形を何に使うか気になるので」
「わぉ、マジでー? 助かるー」
彩音は「肩の荷下りた~」と言いながら、何やらスマートフォンを操作し、そして書類の山から引っ張り出した一枚の紙とペンを悠之歩に渡した。
「この同意書にサインもらっていーい? 教授の確認はもうもらってるから」
「はい」
悠之歩は頷き、同意書に目を通す。研究室が悠之歩の波形データや氏名、住所などの情報を涼羽精工に提供することへ同意するという内容だ。第32研究室の教授の署名も既に入っている。その同意書に悠之歩も学籍番号と名前を書き、それをチェックした彩音はカーボン紙の控えを悠之歩に渡して、原本をクリアファイルに挟んで封筒に入れた。
そして着信音の鳴ったスマートフォンを見て、彩音が立ち上がる。
「じゃ、行こっか」
「どこにですか?」
「涼羽の人、他の2人に説明しに、大学に来てるらしいんだー」
「そうなんですね。コーヒー、いただきます」
悠之歩は手元のカップを満たす、黒く、香しく、底の見えない液体に視線を落とし、一息に口に含んだ。口腔を満たしたコーヒーの香りはたちまち鼻腔を抜け、喉を通った後もナッツを思わせる風味が余韻の如く残った。
「……美味っ」
思わず声を漏らすと、彩音は少し驚いたように悠之歩の方を見てから噴き出した。
「そうでしょー? 豆にはこだわってるんだー」
それから悠之歩は彩音に連れられ、教室や講堂が入っている本館に向かった。そして空き教室の1つに彩音がノックして入ると、そこには3人の先客がいた。




