1. 餓鬼偏執
――これで本当に死に足りるのか?
頭蓋の裡の暗闇で、姿なき鬼の声なき声が響く。
八畳一間の部屋の中央で、白い道着と黒の袴を身に着けた千秋悠之歩は、素手に見えない刀を握っているかのように両腕を振り下ろした。
部屋にある家具は壁際に寄せられたデスクと本棚、衣服用チェスト、畳まれた布団だけだ。本棚に並ぶのは大学の教科書や参考書ばかりで、フローリングの床には敷物すらない。
『――続いてのニュースです。本日未明、都内で違法な導式装骨格による襲撃事件が発生しました。死傷者は八人。出動した自衛隊との交戦により、犯人は現場で死亡が確認されました。警察庁は、国内における装骨格犯罪は依然として増加傾向にあるとしています。これを受け、装骨格犯罪の被害者や遺族に対し支援する一般財団法人、治域基盤構想機構は――』
衣擦れとすり足、息遣いの音、そしてデスクに置かれたスマートフォンから流れるニュースの音声が、飾り気も温もりもない虚ろな空間に満ちては消えていく。
――ほら、また人が死んでる。
鬼が囁く。
――もっとちゃんと自分を殺せ――
悠之歩はその鬼を肚の奥底へ押し沈めて黙らせようと、細く、長く、深く、静かに鼻から息を吸い込んだ。
腰を落として素足の踵を紙一重で床から浮かせ、親指の付け根の一点を軸に一歩踏み出すごとに、真っ向斬り、袈裟斬り、突き、横薙ぎ、斬り上げの素振りを繰り返す。昏い光を湛えた双眸で眼前を確と見据え、一人きりの部屋にいながら、その太刀筋は標的を明確に捉えているように迷いがない。
悠之歩はそのままさらに腰を落とす流れで、爪先を揃えて立てて正座した。そして一方の膝を支点に反対の膝と両爪先を蹴り出し、滑るような膝行で進み、退がり、転換しながら、上半身では先ほどと同じ素振りをする。
そんな約2時間の稽古を終え、全身汗みずくになり疲労と虚脱感で精神が凪いだ悠之歩の耳に、スマートフォンのメールの着信音が届く。
「『波形研究への協力依頼』……?」
袖で汗を拭いながらメールを読んだ悠之歩は呟いた。
送信元は「奈笠大学 導学部 解析科 第32研究室」とある。
奈笠大学は悠之歩がこの4月から通い始めた大学で、導学部は導波動にまつわる教育と研究のための学部、解析科は導波動の波形や骨格者を専門とする学科だ。
導波動とは、世界でおよそ500人に1人が第二次性徴を境に体から発するようになる、特殊な生体磁気だ。その体質を持つ者は骨格者と呼ばれ、骨格者である悠之歩は導波動の波形を記録して提出したことがある。そのため悠之歩が呼び出されること自体は自然だ。
――具体的に何をさせられるのかはわからないけど……仕方ないか。
悠之歩はシャワーを浴びて大学に行く準備をしながら考える。
――行かなきゃわからない。わからないなりに身を守る。死ぬ時は死ぬ。それだけだ。
悠之歩は協力依頼を受ける旨のメールを返信し、下宿先の部屋を出た。
奈笠大学や悠之歩の下宿があるのは、日本全国に6つある警備特区の1つ、奈笠警備特区と呼ばれる街の中だ。
関東北部にある奈笠警備特区は厳重な警備体制が敷かれた人口5万人ほどの街で、導波動を利用した発電所や、導波動を用いる機械の製造工場、導波動関連の研究施設、そして2つの大学と4つの高校、住宅街や生活インフラなどを有している。
道中、悠之歩は鋼の装甲に身を包んだ体高四メートルほどの巨人を見かけた。装甲はグレーと水色のラインの塗装が施されており、両腕の前腕や右背面には大型の銃火器が装備され、両足のタイヤを使って車道をゆっくりと走行している。
導式装骨格――導波動を動力として稼働する人型兵器だ。
奈笠警備特区は民間警備会社の涼羽SAによって警備されており、涼羽SAは日本で警備業務に装骨格運用を認められた三社の警備会社の内の一社だ。
そんな装骨格が街中を闊歩する様子を尻目に、新しく綺麗で現代的なデザインの建物が並ぶ奈笠大学導学部キャンパスに到着する。
午前中に講義を2つ受けた後、悠之歩は解析科第32研究室を訪ねるべく研究室棟に向かった。研究室に配属されるのは2年生からなので、入学してまだ2ヶ月の悠之歩には馴染のない建物だ。
案内板で研究室の場所を確認し、五階でエレベーターを降りる。
ちらほらと上級生たちが歩いている廊下を行くと、十字に交わる廊下の正面にあるトイレから身長180センチほどの男子学生が出てきた。手に持ったスマートフォンを注視し、ワイヤレスイヤホンを着けている。その歩調は速く、ちらりと悠之歩を見てまた手元に目を落とし、悠之歩の右側をすれ違おうとした。それと同じタイミングで、右の廊下から大きな箱を重そうに抱えた小柄な女子学生もよたよたと歩いてくる姿が悠之歩の視界に入る。
2人がぶつかる――そう直感した悠之歩はすっと男子学生に体を寄せ、男子学生の右肘に左手で軽く触れつつ、相手の背後に向けて自分の重心を入れた。
悠之歩の腕にはほとんど力が込もっておらず、上半身も真っ直ぐ立ったままだ。
それなのに、悠之歩より10センチほど背が高い男子学生の姿勢が崩れ出す。
「――うぉっ!?」
一拍遅れて男子学生の声が上がるが、悠之歩は動きを止めない。男子学生の左肩に右手を当てつつ、自分と相手の重心を一緒に沈めるように少し腰を落とし、右足を踏み出す。
事態に気づいても、男子学生は踏ん張ることも抗うこともできない。
このまま相手を突き飛ばせば、壁に叩きつけられる。
足を掛けて跳ね上げれば、頭から床に落とすことができる。
無防備な状態なので、顎を1発殴れば昏倒させられるかもしれない。
そんな状態になっている。
――殺せる――
脳裏でそんな声がするのを聞き流し、相手の肘と肩を支えて介助しつつ、悠之歩は脱力した上体の重さを預けるように僅かに上体を前に傾け、男子学生をストンと座らせた。
「ぶつかりませんでした?」
悠之歩は振り返って女子学生に尋ねた。
「――えぇっ!? あ、はい、大丈夫……」
声をかけられ初めて悠之歩たちに気づいたらしい女子学生は、びくっと体を震わせ言った。
「ならよかったです」
悠之歩はぎこちなく笑って見せ、男子学生に「驚かせてすみません」と声を掛けて助け起こしてから、相手に背中を向けないようにしつつさりげなく一歩下がる。
男子学生は有無を言わさず転ばされたことに思うところはあるようだが、歩きながらスマートフォンをいじっていた自分の非も自覚しているのだろう。ばつが悪そうに立ち上がり、そそくさとエレベーターの方に立ち去っていった。
それを見送ってから悠之歩が改めて第32研究室に向かおうと視線を巡らせると、女子トイレの前に別の女子学生がおり、悠之歩と目が合った。
くっきりした二重瞼の垂れ目に大きな瞳、整った鼻筋、桜色の薄い唇の美女だ。鎖骨まで届くミディアムの髪は丸みのあるシルエットのレイヤーカットで、アッシュブラウンに染められている。白のニットに黒のテーパードパンツという服装だが、その曲線美は隠しきれておらず、柔和な雰囲気が醸し出されている。
――綺麗な人だな。
他人事のようにそんな感想を抱いた悠之歩の方に近づいてくると、その女子学生は廊下の先にある第32研究室のドアを指さし、力の抜けた柔らかい声で話しかけてきた。
「あのさー。もしかしてキミ、ここに用事あるー?」
「……はい」
「おっ、マジかー。的中~」
美女がふにゃっと笑った。
「キミを呼び出したの、あたしなんだー」




