指先の向こう
「なにみてんの?」
ふと見上げていた視界がよく見慣れた顔で遮られた。
冬賀に入学してからほとんど毎日顔を合わせている相手の一人で、さらに同室者とくれば本当は目をつぶってたってその気配でわかりそうなものだけど。
近づいてくるの、気づかなかったなと思いながら中西は笑った。
「なんにも」
「……なにそれ?」
嘘つき、と顔がしかめられる。
白いシャツと逆光に彩られた根岸の向こう側に見える太陽に目を細めながら、中西は尋ね返した。
「じゃあなに見てたと思うわけ?ネギっちゃんは」
「だって中西――空、見てたんじゃないの?ひっくり返って寝っころがってたら普通そうじゃん」
ほい、おみやげ。と差し出されたパックのコーヒーを片手で受け取りながら、また中西は笑った。
「学食どうだった?」
「ん。ロクなのなくて。やっぱお昼ご飯のときに買っとけばよかった」
「まあサボる予定なかったわけだし。仕方ないって。――でもなんで苺ミルク?」
「しょうがないじゃん。いつもの売り切れで、コーヒーは好きじゃないし――」
ピンク色のかわいらしいパックをちゅるちゅると啜りながら、根岸は「行って損したー」と呟いた。
何せ学食はここから非常に遠い。ついでに人も何かと多い。
サボってる身としては正攻法でいけない場所だということは周知の事実である。
どうやってこの紙パック二つをゲットしてきたかは推して知るべし。
「――あー、いい天気」
「……ネギッちゃん」
春から夏に変わろうとする風の中、不意に増えた重みに中西は目を細める。
「いい天気なのは結構。でもなんで俺がネギッちゃんの枕になってるわけ?」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「……普通、腹の上に頭のせられたら俺は折角のコーヒーが飲めないと思わない?」
「俺、飲めるよ。あ。苺ミルクって結構甘いけどいけるー」
打てば響く相槌に、今度こそ中西は大きなため息をついた。
「――ネギッちゃん。何怒ってんの?」
すぐに返事は戻ってこなかった。
でも。
「……怒ってないし」
「サボらせたの、駄目だった?」
「……誘ってなかったらもっと怒る」
「じゃ、何が駄目?」
「…………」
だって、と小さい声がする。
返事を促すように、中西は少しだけ揺れたその頭に手を伸ばした。
いつもグラウンドで埃や泥にまみれてるとは思えないほど柔らかな感触は結構好きだ。
「……手」
「手?」
ふと頭を撫でていた右手とは逆に、飲めないコーヒーを持っていた左手に熱が触れた。
「――バーカ」
「……なにそれ」
「バーカバーカバーーーーカ!中西のバーカ!」
「……ネギッちゃん」
それはいくらなんでも子供じみている、とため息をついたところで、いきなりぺしっと叩かれた。
「――……最低」
「……ネギッちゃん?」
「気づいてない、わけじゃないくせに」
「いや、何のことだか俺にはさっぱり――」
「――女の敵。つーか男の敵?」
はあ?と今度こそ顔をしかめようとして――不意に中西は気がついた。
左手。
なぞるように、確かめるように触れられている箇所。
「あ――……」
非常に気まずい。
いつもなら誰に対してもそんな気持ちなど欠片も抱かない中西だったが、相手が根岸であればそれはよく感じる気持ちの一つで。
根岸は何も言わない。
けど、だからこそ確信した。
「……えっと。もしかして――歯型、とかついてる?」
「――正確には歯型らしい痣と傷」
ああ、やっぱり。
中西は大きなため息をついた。
心当たりがない――わけじゃない。
昨日、どうしようもない熱を発散させに外泊をしてきたところで、それで昨夜は一人じゃなかった。
でも――声は、聞きたくなかったから。
「……最低。今朝帰ってきたとき、俺だって気づいたのに」
「あー……」
「絶対、あとで渋沢が怒りに来るよ。水上はからかうだけかもしれないけど――あ、葛西がヤな顔してたから藤澤あたりもからかいにくるかも」
「あー……だろーねえ……」
「俺、庇ってやんないから」
「えー……でもネギッちゃん、それって外泊協力したのもバレてるってことだからネギッちゃんも怒られるんじゃ――」
「――とにかく庇ってやんないって決めたの!」
今度はべしべしべしっと容赦なく叩かれて、中西は黙り込んだ。
けれど気がすんでからも、根岸は手を離すことはしなかった。
……感覚でわかる。
きっと一本、一本、確かめるように指でなぞって、その歯型らしいところは特に念入りになぞって、そうしてぎゅうっと指を絡めて、また同じことを繰り返している。
「それで……今回はなんで荒れてんの、中西」
「……んーなんだろうね」
「っていうか、女の人、かわいそうだ」
「……かもね」
かわいそうだ、ともう一つ根岸が呟いた。
頭を撫でる手に力がこもりそうになるのを、中西はなんとか防いだ。
もし言えるなら――言いたいことはたくさんあった。
例えば渋沢は怒りに来るだろうけど、でも最後に「……大丈夫か?」といつものように聞いてくれるだろうとか。
水上や藤澤はからかいに来るだろうけど、でもそれは半分慰めに来てくれてるんだ、とか。
葛西はすごく嫌な顔をするだろうけど、でも責めたりはしないんだ、とか。
そういうことから。
「……でも今回はもう大丈夫。試合も近くなってきたし、テストもあるし。またしばらくはちゃんと真面目にやるし」
「――やっぱ……話してはくれないんだ?」
「……」
――好きだとは絶対に伝えないと決めた、臆病者でごめん。
ということまで。
「――あーーーーーーーーこの我侭!」
「ん」
「本当にお前みたいな自分勝手でどうしようもない、最低な男って絶対他にいないと思う!」
「俺もそう思う」
そこでふと言葉が途切れた。
でも何かとても小さな小さな声が聞こえた気がして。
「ネギッちゃん?今なにか言った?」
「――別に。それより少し寝ていい?なんか怒鳴ったら疲れた」
「そりゃいいけど……このまま?」
「だって気持ちいいし」
「……」
結構、重たかったりする。たぶん後で背中は痛いだろう。
でも温かくて、柔らかくて。
何よりも欲しいと思う手が、今はまるで寄り添うようにこの手にあって。
「……じゃあ時間になったら起こしてあげるから、今回はそれでチャラってことで」
「……しょうがないからそれで手をうつ」
「ありがと」
「……中西って……そういうとこばっか謙虚でブキミ」
「いや、そりゃないって。ネギッちゃん」
軽口を叩きながら、そんな幸せを。
今だけの幸せだろうと知っていて、中西はそれでも笑った。
根岸が――中西と同じように少しだけ目を細めて、痛みをこらえたことも知らずに。