第59話 老魔術師、リモートで会談する
「では、開戦の地を後退せよと、つまりそう言いたいのか?」
執務椅子に座って報告を聞いていた老人は、露骨に不快感をあらわにした。
その内容があまりにも期待外れで、彼の意にそぐわぬものだったからだ。
白髪の老人は目を細めた。そして報告をもたらした張本人――目の前に立つ異国風の女に、鋭い視線を投げかける。
「ご期待に沿えず申し訳ありません、閣下。しかしながら、用意している火種は他にもあります。一つばかり立ち消えたとして、計画に支障をきたすほどではないかと」
南国の人間特有の風貌を持つ女は、淡々とした口調で返した。
明らかな軽蔑を込めた老人の視線を受けても、少しも動じた様子を見せない。
失敗を失敗とも思わない。
女のそんなふてぶてしい態度が余計に気に食わなかった。
しかし、この女に責任を追及することは出来ない。女の立場は、あくまでも協力者であって老人の部下ではない。利害関係はあれど、建前上は自由意思で力を貸してもらっているに過ぎない。
老人は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん、あれだけ吸血鬼を推しておいて結局このザマか? だがまあ確かに、死に駒に固執しても仕方あるまい。開戦の頃合いについては再考する」
「閣下の深い慈悲を賜ることを、心より感謝いたします」
「つまらぬ世辞など不要だ。それより西の押さえはどうなっている? 貴様らの宗主殿とやらから、その後の連絡は?」
「万事つつがなく行われております。海底遺跡の起動にも成功したため、その成果を試したいとのことです。彼がひとたび賽を投げれば、プリマスはたちまちのうちに陥落しましょう」
「勘違いするな。賽を振るうのはこの儂だ、貴様らではない。それとも何か? この期に及んで、貴様ら余所者が戦の主導権を握るつもりか?」
「いえ、決してそのようなつもりは――」
「もうよい。話は分かった、下がれ」
老人はもはや女に一瞥もくれることなく、冷たく命じる。
まるで虫を払うかのようなぞんざいな扱いを受けても、女は表情一つ変えず、深々と礼をしてから部屋を出ていった。
一人、室内に残された老人――フーラ太守ルキウス・イスマインは、静かに息をついた。
この部屋は、フーラ地方アカデミーの最上階に位置する学長執務室であり、自身も魔術師であるルキウスの研究室も兼ねた仕事部屋だ。今では公務のほとんどもここで執り行っている。
都市郊外に建てられた絢爛豪華な公爵邸よりも、この手狭な執務室こそがルキウスにとって安寧の場所であった。
もう何日も部屋にこもりきりだが、若い頃に魔術の研究にのめり込んでいた時期に比べれば、これくらいのことは大した負担ではない。
「……よもや、バーンライトが滅ぼされるとはな。火付け役としてなら、確かに吸血鬼は能力的にも適任かと思えたのだが」
今、執務室にはルキウスの他には誰もいない。
それでも老人は、誰と話すでもなくただ独り言を続ける。
「敵陣をかき乱して騒乱を引き起こすには最適な火種だ。そこから野火の如く戦火が広がるのは確実であったはずだが……どこに伏兵が潜んでいた?」
執務机の上に広げられた地図を指でコツコツと叩きながら、ルキウスは眉間にしわを寄せた。
バーンライト領に中央騎士団が攻め込んでくるのなら、それでも良かった。
それならば子爵を失ってさえ、公爵配下の貴族に対して中央が武力行使に及んだという、反乱の大義名分を得ることに繋がったのだから。
それが即座に、バーンライト子爵の告発が無いまま病死として片づけられることになるとは予想外だった。霧化で落ち延びることもできるはずの吸血鬼が、再生の暇すらなく一夜にして滅ぼされるとは……。
結果的に、バーンライト領は王都を中心とする王族直轄地に取り込まれる形となり、水面下では王都の目前まで迫っていた戦線は大きく後退した。
「開戦の位置がこれ以上後退すれば、他の貴族たちも浮足立つ。リズマイル伯爵には強めのくさびを打っておく必要があるか」
バーンライト領にある砦が使えないとなれば、公爵直属の配下で構成される南征騎士団が駐留できる場所は、そう多くはない。
必然的にバーンライトの隣の領地、リズマイル伯爵が治める城塞都市トレスタあたりが、規模的にも立地的にも最適といえた。
「こうなると、開戦までの流れにほぼ選択の余地はないが、さて残りの時間でどう駒を進めるか――」
「相変わらず一人で陰謀語りか。いい歳した老人が暗い趣味じゃのう、ルキウス」
この場にいるはずがない者の声。だが、かつてよく聞いたその声に、ルキウスはゆっくりと振り返った。
背後にある窓硝子の向こう側に、一匹の黒猫が佇た。
ルキウスは執務椅子から億劫そうに立ち上がると、窓枠の鍵を外して、片側だけ窓を開ける。
「貴様のほうこそ相変わらずの偏屈ぶりだな。その気になれば自らの脚でこの場に来ることなど造作もないくせに、敢えて使い魔などを寄越すとは」
皮肉交じりの言葉に、黒猫は笑うような鳴き声で応じた。
「多系統を組み合わせる研究はなかなか楽しいぞ。たまにはその成果を実践する機会も欲しくてな。お主のほうこそ、昔ながらの付与魔術一辺倒か」
黒猫は人語で返しながら、執務室の壁際に並べられた大量の甲冑に目線を送る。
それらはこの男のコレクションではなく、すべて生ける鎧――付与魔術で造ったゴーレムの一種のはずだ。
この物言わぬ守護者達が公爵を常に護っている。
公爵という重鎮の立場にも関わらず、私的な空間に人間の護衛を置かないのは、ひとえに他者を信用していないからに他ならない。
「自らの力のみに頼る姿勢は相変わらずか……あまり一つの研究ばかりに打ち込んでいると発想が衰えるぞ? たまには気分転換に野外に出て精霊術でも嗜んでみてはどうじゃ」
「いらぬ世話だ。それより、さっさと入れ。他の者に気づかれると面倒だ」
黒猫は小さく首を横に振る。
「ここで良い、その部屋の瘴気は使い魔にとって毒だ」
そう言って、油断のない視線を室内の老人に送る。
ルキウスは顔をしかめると、窓を開けたまま再び執務椅子に腰をかけた。
「それで、用件は何だ?」
「いや、特に用はない。顔を見に来ただけじゃ」
「ふざけているのか? 用がないなら帰れ」
「まあ、そう邪険にせんでくれよ同胞。これが最後になるかも知れんじゃろ? 数少ない昔馴染みの面くらいは拝んでおきたいのが人情というものじゃよ」
「よく言えたものだな。一番必要としていた時期に、儂の呼びかけをすげなく断っておきながら」
ルキウスは苛立たしげに言った。
相対する黒猫も、油断なさげに目を細める。その口から出てくる低い声が真剣な口調へと変わる。
「あのタイミングで断れば先は無いと思った。それが今頃になって表立って反旗を翻すとは愚かな真似を……王国からの独立は、フーラの繁栄によって成し遂げるのではなかったか?」
「あの頃とは状況が異なる。フーラの遺跡から期待した発掘結果が得られなかった以上は、次の計画に移るより他に無かった」
「それで余所の国の人間まで巻き込んだのか? 何ともお主らしくない短慮に走ったな、ルキウス」
黒猫はそこで一度言葉を切り、憐れむような目で老人を見つめる。
「あれから十年経ち、二十年経ち……もうすぐ三十年だぞ?」
「……貴様こそ、あの戦で最も多くの帝国兵を手にかけた戦犯のくせに、まるで他人事のように言うのだな、オズワルド」
落ち着きの中に暗い怒りを込めて、ルキウスは呟いた。
「戦後、あのような扱いを受けると分かっていれば、最初から手など貸さなかった。兄上は……先王は、われらを見捨てたのだぞ? 誰もが平和のために手を血で染めたというのに、魔術師だけが守ったはずの祖国に裏切られた。あの時の苦しみは貴様とて同じであったはずだ」
「もうそれも昔の話じゃ。ルキウス、時間は進んでいくものだ」
「すべて過去の話だと言うのか? 貴様が! 真っ先に責任を取るべき立場だったはずの貴様が!」
ルキウスは顔を歪ませ叫んだ。
それを、オズワルドは使い魔の目を通して、窓の外から静かに見つめ返す。
「老人の憎しみに次の世代を巻き込むな、ルキウス」
「だから見捨てたのか? この国から去っていく同胞たちを止めることもせず、ただ世捨て人のように目と口を閉ざして……そんな奴が今頃になって、この儂に説教をしに来るなど道理が通らんぞ」
「説教などするつもりはない。言ったじゃろう、これが最後になるかも知れんと」
黒猫は老人から視線を外し、窓の外に広がる景色を見つめた。
アカデミーの中庭の向こう側に見えるフーラの優雅な街並み。
街から少し離れた場所に佇む巨大な遺跡群。
さらに遠く彼方には、広大なウルスベルグ山脈が広がっている。
「森から老木が消えれば、地面まで陽が届くようになる。陽を浴びた土から新芽が伸び、芽はやがて木となり新たな森を作っていく。――後の世のことは、若者に託してみてはどうじゃ?」
「……これは傑作だな。まさか貴様の口から女神の教義が語られるとは思わなかった。ここまで酷い冗談を聞かされたのは、久しぶりだ!」
怒りの声と共に、ルキウスは手元の杖で執務室の床を激しく叩いた。
椅子を蹴るようにして立ち上がり、突き刺すような視線を使い魔に向ける。
「オズワルド、貴様の目は節穴か? 今この国の魔術師たちを見て、何をどう託せと言うのだ! 消えることのない怨嗟はいつまでもこの国に渦まき、禍根を残し続けている。王家への復讐を果たし、魔術に依るアカデミーを再興せぬ限り、あるべき姿には戻らぬ!」
「……ルキウス」
妄執に囚われたこの老人は、もはや聞く耳さえ持たない。
そう、分かっていながらも、オズワルドはかつての友に静かに語りかけた。
「それでもじゃ、時代は進んでいく。もう戻ることはない。ワシらのしてきたことは、ただの昔話になっていくのだ……」




