第58話 おじ戦士のリスタート
今回が第二章最終話となります。
実に三十年ぶりに、ラルフは故郷であるオブライト領に戻ってきていた。
今は、父の墓前にいる。
ここに来る前に領内を一通り見て回ったが、それも一日とかからなかった。
何も変わっていない。それが率直な感想だった。
驚くほど昔の記憶のままだ。
この領地にあるのは自分が生まれ育った小さな館と、その周囲に点在するわずかな農園だけ。土地の管理を任されている農園主も、農園を支える領民たちも、皆が昔と変わらない生活を続けていた。
ただ、出会った領民たちは誰一人としてラルフの記憶には無かった。
三十年の間に世代交代をしたか、ただ単に顔を忘れてしまっただけだろうが……。
自分がいなくても、この地で営みは続いているのだ。
「きたない墓だ……」
苔むした墓石に向かって、俯き気味にポツリと呟く。
他の墓はそれほどでもないのに、辛うじて父の名が刻まれていることが分かるこの墓石だけが、かなり長い間、人の手が入った形跡がない。
何が墓参りくらいしろ、だ。
自分だってしっかりサボっているじゃないか。
一体どういうつもりなのかと呆れて笑おうしたところで、唐突に気づいた。
その馬鹿げた気遣いに。
急速に頭が冷えると同時に、不思議と気持ちが落ちついていくのを感じた。
「……いい歳した大人が、ほんと何やってんだか」
額に手を当て、声を殺して笑った。
結局、それだけのことだったのだ。
割り切ることは出来ても、嫌いなものは嫌いなままだ。
そしてそれは別に無理に正すことでもない。
そんな誰にでも辿り着く簡単な考えを共有しただけで、これほど気が楽になるとは思わなかった。
「むしろ歳を取ったからこそ、か」
歳を取れば、当たり前を受け入れるのにも、いちいち面倒くさい理由付けが必要になるということだろうか。
歳を取るほどに、わざわざ理由を与えてくれる存在などいなくなるというのに。
「年配者の忠告は、素直に聞いておくべきだな」
ラルフは生家がある方向に向き直ると、静かに頭を下げた。
今はただ、そうしたい気分だった。
やがてゆっくりと頭を上げ、後ろを振り返る。
後ろに控えて黙とうを捧げていたヘレンがそれに気づき、閉じていた目を開いた。
「もう、よろしいのですか?」
「ああ、やりたかったことは済んだ。家に帰ろう」
淡々と答えるラルフの姿は、ヘレンの目にはいつもと変わらなく見えた。
ただ、随分と機嫌が良さそうなのは表情からも伝わってくる。
「結局、実家には顔を見せないまま帰るのですか?」
「下手に顔を出すと、その気があるものと兄貴に誤解されそうだからな。今の情勢で、この土地のみを守ったところで意味はない」
兄は領内の治安が乱れることを危惧していたが、この騒乱を引き起こしている原因を取り除かないことには事態は好転しないだろう。
故郷のためを思うなら、真にやるべきはそちらのほうだ。
何より、変化を求めないこの地に自分は必要ない。
この地に自分が入り込めば、必ず何か歪みが生じてしまう。
ずっと変わることのない穏やかな暮らしなど、求めていないのだから。
「それに、プリマスの一件でやることが山積みだ。今は一日も早く王都に戻りたい」
ラルフたちが魔族と戦ったその翌日。朝一番に、盗賊ギルドからの報告が舞い込んできた。
ヒュドラ家の一行が、プリマスの街から忽然と姿を消したと。
その報告によると、街に滞在していたヒュドラ家の人員はもちろん、港に係留されていたはずの帆船も、一夜にして煙のように消えてしまったとのことだ。盗賊ギルドの人員が夜間も絶えず監視を続けていたにも関わらず、誰もその逃亡劇に気づくことができなかったのだと言う。
冷や汗をかきながらそう説明するガズリーに対し、ラルフとしてはもう必要無くなった情報であることを隠し、素知らぬ顔で残念がって見せた。
ただ、果たせなくなった情報提供の代わりとなる約束を一つ取り付けた。
「遺跡の魔法陣を、あのままにしておいてもらうよう頼んだが、今のところはガズリーとの間だけでの合意だからな。万が一、あいつの立場が変われば約束が反故になる危険もある。早々にアカデミーに情報を伝え、あの辺り一帯は遺跡ごと接収してもらうように働きかけたい」
「それは良い考えですね。何と言っても『王立』アカデミーですから。プリマスの太守と盗賊ギルドとの間にどのような利害関係があろうとも、王家の威光があればさすがに従わざるを得ないでしょう」
ヘレンは上機嫌で同意した。
そもそも今回のヒュドラ家との一件にしろ、本来街を統治すべき為政者側の目が届かない範囲にまで、盗賊ギルドの支配が及んでいることが問題なのだ。あれでは、すぐそばまで脅威が迫ったとしても誰もそのことに気づかない。
必要悪として飼い慣らすのであれば、いざと言う時に首輪を絞められるよう、常に目を光らせていなければならないはずである。
アカデミーの介入が根本的な是正に繋がるかどうかは分からないが、少なくともプリマスの現状に対して一石を投じることを、ヘレンは期待していた。
「あとは騎士団への情報共有と……この先も独自に動き回ろうとするなら、もっと協力者が必要だ。今回はたまたまドニーがいてくれたおかげでかなり助けられたが、今のままでは出来ることが限られる」
「それはそうでしょう。特に私たちは二人とも戦士です。魔法に関する対応を求められると、完全に後手に回ってしまいます」
「足かせになっているのは、まさにそこだな……」
首の後ろ辺りをトントンと叩きながら、ラルフは目を閉じて考える。
冒険者として活動する際は、こういう問題に直面することはあまり無い。冒険者の酒場で正規ルートの依頼を受けるだけならば、大抵は魔法が使える仲間と、即興でもパーティを組む機会があるからだ。
しかし、今回のように突発的な事態に即対応するとなると、そういう訳にもいかない。いつでもすぐ呼びかけに応え、行動を共にしてくれる仲間が必要だ。
つまり、固定のパーティを組む必要がある。
アテになりそうな冒険者の名前はすぐに何人か思い浮かんだが――今のラルフには、どうしても真っ先に期待を寄せてしまう者たちがいる。
あの時、自分の命を守りたいと言ってくれたあの僧侶の娘は、頼めばきっとすぐに付いてきてくれるだろう。
一緒に冒険がしたいと言ったあの魔術師の娘も、いつかは同じだけの想いに応えてくれるだろうか。今はまだ無理かもしれないが、いずれは彼女も共に歩んでくれる仲間となってほしい。
ふと視線を感じて横を振り向くと、ヘレンが愁いを帯びた目を向けてきていた。
「やはり、あなたは冒険者なのですね」
「なんだ突然……急にどうした?」
「別に急ではありませんよ。一緒になる前から、ずっと感じていたことです」
そう、ずっと気づいてはいた。
冒険者として生きてきたラルフと、そうではない自分とでは、見えている世界が少しだけ異なることに。
もちろん、同じ戦士だからこそ見える世界もある。
彼がずっと抱えてきた孤独は、おそらく同じ冒険者には気づかないことだろう。
この人のことを一番よく分かってあげられるのは自分だと、ヘレンは胸を張って言えるだけの自信があった――これまでならば。
「俺は、向けられる感情よりも覚悟に報いたい。お前を選んだのもそれが理由だ」
「……分かっています。だからこそ、不安にもなるのです」
あの日、僧院で婚姻の誓いを立てた際、セーラという僧侶の娘と直に会ったが、彼女がラルフに対して抱いている覚悟の強さは尋常なものではなかった。
まだ十代半ばの娘だというのに、己のすべてを捧ぐ者の目をしていた。
あるいは、ラルフの命を守ることと、信仰的な意味とを結び付けているだけではないかとも思う。僧侶ならざる自分には、彼女の心中を完全に察することは出来ないが、その覚悟の強さが同じ女として恐ろしくすらあった。
ラルフとの距離を感じるたびに、このままで良いのかと焦りを感じてしまう。
「なら、俺にはその不安を取り除く責任があるな」
ラルフは愛する妻の肩を抱くと、そっと唇を重ねた。
たったそれだけで、二人の間で必要なものは伝わった。
焦りも、不安も、互いの愛情も。
静かに目を閉じて、分かち合った。
再び目を開いたとき、妻の表情に先ほどまでの陰りはなかった。
「帰りましょう、ラルフ」
はにかんだような笑顔に促され、二人は来た道を戻りはじめた。
その途中、どこからか一陣の風が吹いてきた。
ラルフは思わず立ち止まって、風の行く先を目で追った。
瞳の先には、生まれ育った故郷と、そこから地平へと伸びる街道が映っていた。
遠く彼方を見つめながら……今この時に感謝した。
この地を発って以来、ずっと求めていたものがあった。自分は、それをもう一度手に入れることができているのだから。
途中、立ち止まらなければならない時期もあった。その間もずっと戦い続けてきたが、本当は前に進みたかった。
自分は、誰かと共にでなければ歩みを続けられない人間だ。
戦士として、その人の前に立って戦いたいのだ。
戦い続けながら、まだ繋がっている道を共に歩みたい。
その先にあるものを一緒に見届けたい。
「行こうか」
この地から再び、その歩みを始めるのも悪くない。
大地を踏みしめる手応えは、旅立った時よりもずっと力強い。
今は、あの時とは違う。
隣を歩んでくれる者がすでにいるのだから。