第57話 おじ戦士、スカウトされる
話はもう終わったものと油断していたラルフは、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
疲れ切った頭をどうにかもう一度働かせて、目の前の男が発した言葉の意味について考える。
「……俺に海を渡れと言っているのか?」
「そうだ」
「南国への船賃は、結構高いらしいじゃないか」
「その点は心配いらぬ。我々の船に同乗してもらえばお代は一切頂かない」
「俺は暑いのも苦手なんだが」
「首都ウインドホールなら一年を通してあまり気温は上がらない。なかなか過ごしやすい土地だぞ」
「それはつまり、単なる渡航ではなく南国に移り住めと言うことか?」
どうやら冗談で言っているわけでは無さそうなので、これ以上とぼけたやり取りを続けるのは止めることにした。
「左様。我がヒュドラの一員となり、その力を貸してほしい。幸いと言うべきか、君が魔族を一掃してくれたおかげで、一体ずつ時間をかけて送還する手間が省けた。目的だった遺跡の調査もすでに終わっているため、我々は今夜中にでも本国に帰還する――できれば、君もそれに同行してもらいたい」
真剣な表情でハボリムは言った。
困惑の色を見せるラルフに構うことなく、さらに言葉を続ける。
「異国の地に一人だけで来いなどとは言わぬ。君の家族、恋人、友人、親しい者たちも連れて来てくれて構わない。君が望むなら、後日それらの人々もすべて受け入れ、何不自由のない暮らしが送れることを約束しよう」
「それはそれは……至れり尽くせりだな。今さっき会ったばかりの俺に、どうしてそこまで言うんだ。お前とはまだ友人でも何でもないぞ?」
「理由は至極簡単だ。君にはそれだけの値打ちがある」
実に単純明快な評価を受けても、ラルフは無言のまま何も答えなかった。
その様子に、ハボリムは薄く微笑むと再び口を開く。
「力がある者は、その力の価値が分かる者のもとに集うべきだ。我らヒュドラ家ならば、君の力を正当に評価できる――それに引き換え、この国が君に対して与えている待遇はどうだ。決して十分な評価とは言えないだろう。それはソードギルドなどという傭兵集団に属している時点で、容易に察せられることだ」
「勝手に察するな。俺は好きで今の立場でいるんだ」
「本当にそうだろうか? 上位魔族を倒すほどの戦士に対する評価が、今のままで本当に適切だと言えるのか? 己の能力が不当に搾取されている現状に対し、憤りを感じることがあるのではないか?」
「無いな」
畳みかけるようなハボリムの問いかけに対して、ラルフは一言で返した。
「俺は、自分の役割に疑問を抱いたことは一度も無い」
そう、はっきりと言い切った。
ラルフの本心を読み取ろうとするかのように、ハボリムはじっと視線を向けてきたが、その視線を受けてもラルフの表情が揺らぐことはない。
しばらくの間、両者は向き合ったまま言葉を交わすこともなく、ただ時間だけが過ぎていった。
「……なるほど、どうやら説得の言葉を間違えたようだな」
長い沈黙の後で、ハボリムのほうがポツリと呟いた。
何かを悟ったかのような残念そうな表情を浮かべていた。
「ここで首を縦に振ってくれなかったのは残念だが、この国の時勢を鑑みても今回は仕方あるまい。またの機会にかけるとしよう」
「またの機会ね……平時であれば、互いの人生に接点など無い者同士だ。またの機会など、そうそうあるとは思えないが――」
「あるとも」
ハボリムは力強い口調で、さらに言葉を被せた。
「君はいずれ、我らの国を訪れることになる」
まるで予言のようにそう宣言すると、静かに椅子から立ち上がる。
「私の誘いを即座に断らなかった理由は、君自身が一番よく分かっているはずだ。今は互いの道が交わらずとも、必ずその時はくる」
最後に、黒衣の男は敬意を示すように一礼すると、外の夜闇に紛れ込むように酒場を後にした。
※ ※ ※
ラルフが部屋に戻ると、ドニーだけがテーブルで食事を続けていた。
ヘレンのほうは、何故か自分の寝台に横たわっている。
「おかえり」
ドニーは声を抑えて、静かにラルフを出迎えた。
「ヘレン姉さん、ラルフが戻ってくるまで少しだけ横になって休むって言ったんだけど、そのままぐっすり寝ちゃったみたいなんだよね」
辛うじて聞こえる程度の小さな声で、ドニーはそう説明した。
寝ているヘレンを起こさないようにと、気を遣ってくれたのだろう。
「今日はあちこち連れ回して無理をさせたからな。疲れが溜まってたんだろ」
しばらくそのまま寝かせてやってくれと言い、ラルフはドニーの隣の椅子に腰を下ろした。
「下に来てたの、ヒュドラ家の人だったでしょ?」
「ああ、お前の言っていた意味が分かった。結果として懸念が解消されたのは収穫だが、あくまでそれは結果論だな。今回はいささか勇み足が過ぎたかもしれない」
ラルフとしては今回の件は反省しきりだった。
相手の手が及んでいる範囲は、想像していた以上に広かった。
決して南国の人間を侮っていたわけではないのだが……。
盗賊ギルドがやろうとしていることや活動目的などはラルフでも理解できる。理解できるからこそ、協力関係を築くことも、いざと言うときには裏をかいて出し抜くことも可能だったのだ。
それに対して、先ほど会ったヒュドラ家の男は違った。
根っこからして理解が及ばない。
理解できない相手に対し、適切な対応を図ることは難しい。
「話はしたが、掴みどころのない男だったな。目的を洗いざらい聞かされた上で、俺にヒュドラ家の一員にならないかと、唐突に勧誘までされたよ」
「へぇ、そういう話を持ってきたんだ……」
ドニーは興味津々といった様子でラルフを見てきた。
「ヒュドラ家は排他主義で、他の大家の人間ですら見下してるって有名なのに、勧誘までしてくるなんて……よっぽどラルフのことを買ってるんだろうね」
「さあな、やつらの手駒を手にかけてしまった俺が、何故そこまで気に入られるのか理由が分からないが」
「上位魔族を倒せるような戦士は、ボクらの国にはいないからね。それだけでも欲しがる理由としては十分なんじゃないかな?」
「そうなのか?」
ドニーが語る南国の戦士事情に興味が湧いたため、ラルフは思わず食いついた。
「噂によると、南国の獣人族には勇猛果敢で優れた戦士が多いと聞くぞ」
「そりゃまあ沢山いるけど、重用されてるって話はあんまり聞かないかなぁ……獣人の戦士って皆それなりに強いけど、魔族以上かと言うとそうでもないし」
ドニーの話を聞く限り、獣人族の戦士は全体としての水準は高いが、天井はそれほどでもない感じなのだろうか。
自軍の兵力として運用するなら、そちらのほうが扱いやすそうな気もするが。
「でも結局、その誘いは断ったんでしょ?」
「ああ、今の状況で南国に行く理由がないからな」
ラルフはそう言うと、横で寝ているヘレンに視線を移した。
彼女の眠りは思ったよりも深いようで、まだ起きる気配はない。安心しきった顔ですやすやと寝息を立てている。
「出会ったばかりのボクが隣にいるのに、無防備だよね」
「これでも警戒心は強いほうなんだけどな。今日一日で、それだけお前に馴染んだということだろう」
人間の子供のような見た目のせいで警戒心が薄れているのもあるだろうが、大部分はドニーの人柄からきているはずだ。短期間でそれだけこの砂漠の潜伏者のことを気に入り、心を許せる存在になったということだ。
ラルフとしても、それは同じ気持ちだった。
「ドニー、お前はこれからどうするつもりだ?」
「それはラルフ次第でしょ。やること無くなったら報酬を貰える約束だし」
「報酬はもう全額支払ってもいい。頼みたかった件はあらかた片付いてしまったからな。その上で、お前がどうするのかを聞きたい。やはり国へ帰るのか?」
「うーん、実はどうしようか悩んでるんだよね。その気になれば、いつでも船に乗って帰れるだけのお金が手元にあるってなったら、何だか気が抜けちゃった」
「それこそ、お前にその気があればの話になるが……本当に王都で冒険者として活動する気はないか? できれば、これからも力を貸してほしい」
「それも含めて、しばらくのんびり考えてみるよ。正直言うと、今日は一緒に付いて回るのも最初は嫌だったけど……」
途中から悪くない気分になっていたと、ドニーは照れくさそうに笑った。
ラルフは頷くと、約束の報酬額に色を付けた枚数の金貨を袋に入れて、テーブルの上に置いた。
ドニーはその袋を掴むと、軽やかに椅子から降りた。
「とりあえず、今日のところは別の宿を探すよ。お金も十分手に入ったことだしね――ボクが一緒だと、ラルフたちもこの後困るでしょ?」
ニヤニヤとした意味ありげな笑いを浮かべながら、ドニーは言った。
「余計なお世話だな。だが、それ以外のところでは色々と世話になったので、そちらのほうは礼を言っておく」
「うん、こちらこそ色々とありがとね」
ドニーもお礼の言葉を言うと、今度は愛嬌のある笑みで応えた。
音を立てないようにゆっくりと扉を開けると、小さな旅人は静かに去っていった。