第56話 おじ戦士、大蛇と面会する
ラルフが一階の酒場へと降りると、目的の人物はすぐに見つかった。
賑やかな酒場内において、その男がいるテーブルだけが周囲の活気を拒絶していたからだ。まるでそこにあるのが、よく出来た絵画か何かではないかと錯覚するほどの異様な静けさだった。
「――俺に会いに来たというのは、あんただな?」
ラルフは男に近寄ると、テーブル越しに声をかけた。
男の年齢は、自分と同程度と言ったところだろうか。
金糸で装飾された黒衣を身にまとい、精緻な意匠を凝らした杖を手にしている。見るからに上等な品々だが、それら身に着けているものの価値が気にならないほど、本人から気品が感じられる。
かなり身分の高い人物と見て間違いない。
「ふむ」
男はラルフを見上げると、視界の邪魔になる長い癖っ毛を掻き上げた。
「夜分に申し訳ない。今日は午後からやけに慌ただしい出来事の連続だったのでな。不審に思って部下に問うたところ、日中に訪ねてきた者がいたとか」
男はそう言いながらも、席から立ち上がることなく座り続けた。
座ったままの姿勢で、値踏みするかのようにラルフを見続けている。
「お初にお目にかかる。私はハボリム・イルハーム・ヒュドラ。君がソードギルドの戦士、ラルフ・オブライトか」
「名前まで伝えた覚えはない。なぜ俺の名を知っている」
「わざわざ聞く必要があることだろうか? 形勢が悪くなると途端に敵に媚びを売り始める輩など、どこにでもいるということだよ。それを打算と呼ぶか、裏切りと呼ぶかは個々の自由だが、いずれにせよ答えは単純だ」
ラルフはつい顔をしかめた。
ハボリムと名乗る男は穏やかな口調で語っているが、その内容は辛辣だった。
彼の言い分からすると、ヒュドラ家に情報を流すどころか完全に取り込まれてしまっている内通者が、盗賊ギルド内部にいることを意味する。盗賊ギルドが押されていた原因は直接的な武力の差だと思っていたが、得意とする諜報戦でも出し抜かれているとは予想外だった。
あるいは、表面上は抗争を続けつつも、水面下では和解に向けた交渉を進めている段階なのだろうか。
先ほどのドニーとの会話が頭をよぎる。
この様子だと、目の前にいる男はすべてを知っているものと考えたほうがいい。
今日起きた出来事はもちろん、話した内容もすべて。
「まあ、とにかく掛けたまえ。私だけが座っていて、君が立ったままではお互い居心地が悪かろう?」
「お前がヒュドラ家の当主というわけか?」
「厳密には違うが、そう捉えてもらって差し支えない。この街においては、私が家臣たちの命を預かる身だ」
「盗賊ギルドの連中に一度殺されたと聞いたが……どんな手品を使って蘇った?」
勧められた通りにハボリムの正面の席に座りながらも、ラルフはどうにか会話の主導権を握ろうと、忙しく頭を働かせ続けていた。
しかし、その目論見に気づいているのかいないのか、ハボリムは敢えて質問の意図から逸れた返答をした。
「その質問に答える前に――ラルフ・オブライト、君はヒュドラという霊獣の存在を知っているか?」
「以前に一度倒したことがある。九つの首を持つ大蛇の化物だろ」
「ほう」
感心したように驚きの声を上げる。
「それはヒュドラの中でも下位種だが……そうか、ヒュドラを制すほどの戦士だったとはな。ならば、その強さにも納得というものだ」
「何が言いたい。何の話をしている?」
「いやいや、ただの賞賛だよ。人間の戦士にそれほどの力を持つ者がいるとは思いもしなかった。音に聞こえた巨人族の戦士、シャロン・ネージュというなら話は別だがね。男女の戦士二人組と聞いたので、もしやと思ったのだが」
「生憎だが、連れの女戦士はシャロンではない――それよりも、まだ俺の質問に答えてないぞ」
「そうだったな。では質問に答えよう」
男は姿勢を正すと、謳うような口調で言った。
「我らヒュドラの一族は、かの霊獣の加護により不滅の肉体を賜っている」
短い呪文の詠唱を終えたかのように言葉が途切れ、両者の間に沈黙が走る。
「……言っている意味がよく分からないが」
「そうか? 私としてはこれ以上なく分かりやすい説明をしたつもりなのだが」
「お前たちヒュドラ家の人間は、死なない身体を持っているというのか?」
「それは少し違う。死と滅びは決して同一ではない。原則としての定義が異なるからだ」
ラルフは頬を引きつらせた。
この流れはよく知っている。一般人には理解できない抽象的な表現を多用した魔術の講義が始まる前兆だ。
この手の話は掴みどころがなく要領を得ないため、ラルフは特に苦手だった。
第一、聞いたところで話の内容についていける気がしない。だから、少々強引にだが話題を変えることにした。
「いや、その手の知識の披露はいい。要するに、お前たちにはヒュドラのような強力な再生力が備わっていると、つまりはそういうことだろ?」
「その解釈も厳密には異なるのだが……まあ、さして関心がないのならそのくらいの認識で構わぬ」
「それで、その不滅のヒュドラ様とやらが、俺に何の用だ?」
「はて、おかしなことを言う。用があったのは君のほうではないのか? だから私はわざわざそれを聞きに来たのだが」
「最初はそのつもりだったが、にべもなく追い返されたからな。それならもう用件を伝える必要もない。こちらの好きにさせてもらう、そう断ったはずだ」
「それについては非礼を詫びよう。申し訳ないことをしてしまった」
そう言うと、ハボリムはあっさりと頭を下げた。
その慇懃な態度にラルフは違和感を覚えた。
先ほどから話していても、目の前の男から敵意のようなものは感じない。昼間にヒュドラ家の拠点を訪れた時とは、明らかに異なる対応だ。
一体何がこの差を生んだのかと、ラルフは訝しみながらも男をじっと見た。
「――ひとつ弁明させてもらうと、あの場の見張りを任せていた者たちは、我がヒュドラの家臣ではない。他の大家からの手引きで同行を余儀なくされた外部の人間だ」
頭を上げた際に、補足のように付け加える。
ラルフが怪訝そうな表情を浮かべていることに気づいたのだろう。
「全く、あの蛮族どもは使えない人材ばかり寄越してきて困りものだよ」
「そちらの人事事情など知ったことではないな。俺が伝えたかったのは、ただの忠告だ。この国で何か良からぬことを企んでいるのなら、さっさと諦めて自分の国に引き上げたほうが身のためだぞ」
「何も企んでなどおらぬよ。我々はただの旅行者だ。この国に害をなすような目的で動いてはいない」
「よく言う、この街の地下に魔族どもを解き放ったのは、お前たちだろ?」
ラルフは核心に踏み込んだ。
とぼけられるのを覚悟の上で、魔族の存在について問い詰めたらどのような反応を示すか確かめてみたかったのだ。
しかし、ハボリムからの返答は肯定とも否定とも取れない意外なものだった。
「少し誤解があるようだが、解き放ってなどいないぞ。あの魔族たちは適切に管理され、指定した場所以外に踏み入って人を襲わぬように指示されていた。この街を害するような用途に使ってはおらぬ」
「……それは詭弁だろう。盗賊ギルドの者といえど、この街の住民だ。民を脅かす危険な魔物の存在を見過ごすわけにはいかん。その魔族を使役しているお前らも――」
「ラルフ・オブライト」
ラルフの強い口調を、ハボリムは穏やかな声で制した。
それは、他者に命令するのに慣れた者だけが出せる独特の声色だった。
「重ねて言うが、それは誤解なのだ。我々がこの国に来た理由は、この街の地下にあるという海底遺跡の噂を聞きつけたからだ」
「海底遺跡だと?」
「そう、遺跡の調査が目的だった。元来、我らヒュドラは魔術の探究を生業とする一族なのだ。故にこの街自体に興味はないし、盗賊ギルドの連中など最初から相手にしていない。だが、いざ調査を進めようとしたところ、やつらはあの手この手で妨害を仕掛け……私など一度命を奪われたのだ。少々やり返したところで許されるとは思わんかね?」
そう言われると、何も言い返せなかった。
命の奪い合いを先に仕掛けたのは、確かに盗賊ギルドのほうだ。
それで相手方にやり返され、予想外に手痛いしっぺ返しを食らったからといって、仕掛けた側に同情の余地はない。
「では、調査を円滑に行うために、魔族に命じて盗賊ギルドの縄張りを制圧していただけというわけか?」
「概ねその通りだ。我々が調査したい場所と、やつらが主張する縄張りとが見事に被っていたからな。やつらが無法にこちらを傷付けてくる以上、こちらとしても強硬手段を取らざるを得なかった。調査が済めば、魔族たちはあの場所から引き上げさせるつもりだったよ」
ラルフはしばらく押し黙って考えた。
よくよく聞いてみると、この男の言い分も分かるような気がしてきた。勿論、すべて真実を語っているわけではないだろうが、少なくとも話の筋は通っている。
ガズリーも、盗賊ギルドにとって都合の悪い事実まで、逐一ラルフに伝えはしなかったはずだ。
両者の言い分を聞いた上で、あくまで自分はどうするかの決断を下さなければならない。
「一体、何を調査していたんだ?」
「ここで調査の詳細を語っても良いのだが、果たして理解してもらえるかどうか……」
「詳細はいい、要点だけ答えてくれ」
「あの遺跡はマナの無限供給機構だ」
ハボリムから返ってきたのは、ラルフの理解の範疇を越えた言葉だった。
「詳しいことは、この国の魔術師にでも聞けばよい。幸い、君が魔法陣を壊さずに残しておいてくれたからな。魔法陣を解析すれば、調査の成果を丸ごと得られるはずだ。後は好きに使ってくれて構わない――もっとも」
ハボリムはそこで一度言葉を切った。
「あのような重大な遺跡を今まで放置していたくらいだ。この国が抱える魔術師の実力次第だが、成果を活かせるかどうかは正直なところ疑問ではある」
この国における魔法技術の水準がここまで低いとは思いもしなかったと、頭を小さく振りながら嘆く。
「まあ、それは君に言ったところで仕方がないことではあったな。話が脱線してすまない――他に何か聞きたいことはあるか?」
「……この国で内乱が起きそうになっていることは知っているな?」
「噂程度には聞いている。が、さしたる関心事ではないな」
「関心がないだと?」
聞き捨てならない言葉に、思わず語気が強くなる。
「お前たち南国の人間が、反乱を企むフーラを支援していることは知っているぞ。すでに直接的な兵力を送り込んでいるとの話もある」
「そうなのか? まあ、そういった輩も中にはいるかもしれないな」
「まるで他人事のように言ってくれる。自分の国がやっていることで、お前は国家を運営する側の人間だろうが」
「そう言われても、我らヒュドラ家が携わるのは法の制定に関する職務だけだ。他国との交渉や戦争はもとより、例え自国が攻め入られるような事態になろうとも我々に出番などない」
本当に無関心そうにハボリムは答えた。
その口調は、話している内容に対してあまりにも軽い。
ラルフは言葉を詰まらせた。
南国が、多くの部族が集まって成り立っている連合国家だということは知っていたが、ここまで個人主義な連中だとは思わなかった。国の仕組みも考え方も違いすぎて、何を指摘すればよいのかすぐには思いつかない。
「加えて言うと、リナードにもライアンにも、この国に干渉しようとする動きは見られない。となると、どこかの氏族が単独で動いているだけだろう」
「単独で?」
「ああ、どこの氏族かは知らぬが、リナードの許可を得ずに他国との政治的な接触を持つことは許されていない。同様に、軍事的な支援にはライアンの許可が必要だ。それらの前提を満たしていない以上、何者であれ公にウルスガルドの国名を語ることは許さない」
「……つまり、フーラを支援する者たちは南国の民として認めないと?」
「うむ、それはたまたま南の方角からやってきた蛮族どもだ。どう始末してくれても、我が方としては一向に構わない」
「南国全体としては、この国の内情に干渉する意思はないということか?」
「そうだ」
はっきりとした肯定で返され、もはや言うべきことは無くなった。
ラルフは酒場の天井を見上げ、椅子の背もたれに身体を預ける。
頭の中にあった重しが急に消えたような気分だった。
「どうやら、君からの質問はこれで終わりのようだな。ならば、最後にこちらからもひとつ質問というか、提案をさせてもらいたい」
ラルフが脱力したのを見て、ハボリムは穏やかな口調で言葉を続けた。
「ラルフ・オブライト、我らの国に来てはくれないか?」