第55話 おじ戦士、仲間を労う
時刻はすでに宵の口を迎えたが、プリマスの街はまだまだ明るい。
大通りに面した酒場は、その日の仕事を終えた住民たちや、航海を終えて陸に上がった海の男たちによって埋め尽くされるのが、この街における日常的な光景だ。
反面、昼間は賑わいを見せていた港は、夜は静けさに包まれる。
街の中心部にある大通りと比べると、港周辺は酒場を始めとした施設自体の数が多くない。さらにプリマスでは保安上の観点から夜間における船の出航、寄港は制限されているため、日が暮れてから港に訪れる人は稀だ。
そんな閑散とした港沿いに宿を取ったラルフたちであったが、地下での戦いを終えた彼らは、すでにその拠点へと引き上げていた。
「二人とも、今日はご苦労だったな」
宿の客室に落ち着くと、ラルフはヘレンとドニーに労いの言葉をかけた。
開け放たれた窓からは、心地良い夜風が入ってくる。
一階の酒場から客室まで料理も運び込んでもらったため、これから三人で祝杯を上げようというところだった。
祝杯に使う酒は、ガズリーに奢らせた上等な葡萄酒だ。
中身が丸々残っているボトルの蓋を開けると、酒場から借りてきた陶器の酒杯に、それぞれ深紅の液体を注いでいく。
「無事に帰還できたことだし、まずは乾杯といこうか」
「うん、かんぱーい!」
「乾杯」
ドニーは嬉しそうに、ヘレンはいつもより少しだけ不機嫌そうな表情で、それぞれ乾杯の音頭を返した。
「何やら不満そうだな、ヘレン。思うところがあるなら聞くぞ?」
「……別に、敢えて言うほどのことではありません。自分への戒めですよ」
ヘレンは酒杯を傾けて中身を口に含むと、ぷいっと視線を逸らして窓から見える景色を眺めた。
プリマス港では、埠頭に建てられた灯台が夜間は絶えず篝火を焚いてくれている。その篝火の淡い光に照らし出された夜の港の光景は、どこか非日常で幻想的な雰囲気を醸し出していた。
ラルフたちは知らなかったが、渦巻き海流亭はその景色が客室から直に見られる立地ということもあって、実は知る人ぞ知る人気の宿だった。
しかし、そんな景色を見ても今のヘレンの心にはいまいち響いてこなかった。
「それでも聞かせてくれ。どうした、この葡萄酒の味はそんなにいまいちか? 確かに渋みが強すぎて、俺はこういうの苦手だが――」
「ふざけないで、本当は分かっているくせに」
「まあな、お前のそういうところを俺は気に入っている」
そう言われて、ヘレンは思わず表情が緩んだ。
そのことを悟られないように、窓のほうに顔を向け続ける。
自分でも面倒な性格だとは思うが、ここで素直に慰めや励ましを請うような女であれば、彼が自分を選んでくれることは無かっただろう。
「今回の敵はそれなりに手強かった。その上で、お前の戦いぶりは十分に評価している――怪我を隠そうとしたのだけは、苦言を呈させてもらうがな」
「それについては謝ります。意味もなく意地を張ってしまいました」
ようやくラルフのほうを向き直ると、ヘレンは静かに頭を下げた。
左腕に受けた傷は、宿への帰りがけに僧院で癒してもらったため、すでに完治している。
「お前も戦士だ。戦い方に意見をするつもりはないが、無茶だけはしないでくれ」
「その言葉をそっくりそのまま返します。あなたのほうこそ、あまり無茶をしないでください。いつもそうして自分の負担だけ隠すので、どれだけ傷付いているか周りには分からないんですよ」
ヘレンは真剣な表情で訴えた。
先刻、僧院に立ち寄った際に、ついでだからと魔族との戦いによって消耗したラルフの気力も一緒に回復してもらったのだが、そこで一つトラブルが起きた。
精神治癒の呪文を担当した僧侶が、治癒の途中で負担に耐えきれず昏倒しかけ、急遽二人目の僧侶が呼ばれる事態となった。
ラルフが精神に負っていた傷は、それほど深かったということだ。
「あれは別に、隠していたわけではないが……」
「ダメです。約束してください、無茶はしないと」
「無茶はしない。無謀な戦いもな。だが、ある程度の負担は受け入れないと何もできないからな。悪いが、そこはこれまで通り目を瞑ってくれ」
「いやー、いいお酒だね。ボクはこういう酸味がある味も結構好きだな」
ラルフとヘレンが真面目な話をしている横で、ドニーは葡萄酒のボトルを独り占めしていた。
自分の酒杯になみなみと葡萄酒を注ぎ、次々に飲み干していく。
いつの間にか、葡萄酒の残りはほとんど無くなっていた。
「お前……葡萄酒をそんなペースで飲み続けてると、ぶっ倒れるぞ」
「平気だよ。故郷ではお酒というともっと強い蒸留酒しかなくて、いつもそればかり飲んでいたからね」
「……もはや中身を隠す気もないようで、すっかり化けの皮が剥がれましたね」
最初に見た目で騙されたことをまだ引きずっているのか、ヘレンはジト目でドニーに睨む。その冷たい視線を受けても、ドニーは特に気にした様子もなくカラカラと笑っただけだった。
「まあ、今夜は深酒しても別に構わないぞ。明日はどうせ待ちの姿勢だ。あれだけお膳立てはしてやったんだから、後は盗賊ギルドの頑張りに期待するとしよう」
「どうかなー? ボクの見立てだと、結局ヒュドラ家の情報は得られないまま、盗賊ギルドがラルフに借りを作る結果になる気がしてるけど」
「……ほう、その見立てについて詳しく聞かせてくれるか?」
「まず、盗賊ギルドの隠れ家に案内された時、カウンターに給仕みたいな人がいたじゃん?」
ラルフは記憶を呼び起こす。
あの地下酒場に案内された時、ガズリーが最初に――そして唯一声をかけたギルド関係者がその給仕だったはずだ。
「ああ、いたな」
「立ち振る舞いからして、あの人が盗賊ギルドで一番の実力者だろうね。ラルフは気づいてなかったようだけど、最初から最後までずっと見られてたよ」
「……ほほう」
ドニーからの思いがけない言葉に、ラルフは狼狽えて短い相槌を打った。
つまり、あの給仕の男が盗賊ギルドの長だったということだろうか。
「それで、彼が盗賊ギルドの長だとして、それが話とどう関わってくるんだ?」
「あの人がラルフのことを見る目、初めて会った人のそれじゃなかった。明らかによく知ってる相手を見る目だったよ」
「なに? いや、俺はあの男に会った覚えなど無いのだが……」
「あれ自体が変装かもしれないし、向こうが一方的に覚えてるだけって可能性もあるけど、とにかくあの人はラルフのことを知っていたんだよ。当然、ラルフの実力も分かった上で、ギルドが困っている魔族の退治は可能だと踏んだんだろうね」
「ふむ……続けてくれ、それで?」
「一方的にしろラルフのことを知ってるなら、もっと早くに助けを求めることもできたはずでしょ? それをしなかったってことは、もう諦めが付いてたってことだよ。極端な言い方をすると、魔族を倒したところでヒュドラ家との争いに勝つことはできないと、裏ではとっくに損切りまでしてるんじゃないかな」
ラルフは、ドニーの顔をもう一度よく見てみた。
ドニーは話しながらもどんどん酒杯を空けているが、その口調は最初から変わらず、はっきりとしたままだ。
酔った勢いで適当なことを言っているようには見えない。
狐につままれたような気分だった。
「ガズリーは、偶然を味方に付けたみたいに手を叩いて喜んでたけど、いくらラルフの力を借りたところで根本的な解決にはならないんだよ。魔族を倒したくらいじゃ、連中をやり込められるわけないもん」
「さっきから聞いてると、随分とヒュドラ家に偏った意見じゃないか? 一体どうしてそこまで――」
「実際に両者を比べてみた上でのボクの見立てだよ。ヒュドラ家は盗賊ギルドなんかとは格が違う、迂闊に手を出してはいけない連中ってことさ」
ドニーの語尾に重なるように、扉の叩かれる音が室内に響いた。
扉に一番近い位置に座っていたラルフは椅子から立ち上がると、二人には座ったままで良いと言うように片手で制す。それから部屋の出口まで行き、扉を開けた。
そこにいたのは、この宿の従業員だった。昼食の時、テーブルに注文を取りにきた娘だったので顔を覚えていた。
「申し訳ありません、お客様。伝言をお伝えにきました」
「伝言?」
「はい、下の酒場でお待ちの方がいらっしゃいます。男女二人組の戦士に会いたいと言っていたので、お客様たちのことで間違いないと思うのですが……」
「分かった、すぐに行くと伝えておいてくれ」
従業員の娘は頭を下げた後、部屋の扉を閉めた。
ラルフは扉に向かって小さく溜め息をつくと、室内の二人を振り返った。
「悪いが、今日中にまだやることが残っていたようだ。すぐ片づけて戻るから、そのまま食事を続けていてくれ」
「分かりました」
「うんー、気をつけてね」
それぞれの言葉で返してきたが、二人ともラルフに任せると言っている。
ヘレンもドニーも、今日はもうやることを終えて休む気になっていたところなので、完全に武装を解いてしまっている。今から同行してもらうのも酷だし、その必要もないだろう。
ラルフもすでに鎧は脱いでしまっているため、長剣だけ腰に帯びることにした。
再び扉を開けると、部屋から出ていった。