第39話 おじ戦士、兄と話す
「すでに知ってるかもしれないが――昨今、西方面の領地はどこも情勢不安だ。西の最大勢力であるゲインマイル伯爵家でお家騒動があってからな」
「いや、知らないな。俺はこの国の政情には疎いし、政治にも興味がない」
「……まがりなりにもこの国の貴族なのだから、もう少し政情に目を向けよ。いつ何時、また騎士団に編入されるかも知れぬのだぞ」
「そうだな、今更だがそこは改めようと反省してる」
弟の口から意外な言葉が出たため、ミハエルは驚いてわずかに眉を上げた。
その態度に思うところがあったため、ミハエルは思わず別件を口にしかけたが、まだ肝心の話題について何一つ触れていないことを思い出し、言いかけた言葉を一旦飲み込んだ。
気を取り直して、まずは西方面の話題を続けることにする。
「伯爵には、正妻との間に三人のご子息がいた。伯爵家の跡継ぎは当然長男だったのだが、その長男は王家に婚約者がいるにもかかわらず、フーラ太守イスマイン公爵のご令嬢と不義密通に及んだ罪が発覚し投獄された。それが二年前の話だ」
「ああ、その事件はさすがに覚えている。当時は王都の市民の間でも、かなり話題になったからな」
「……まったく、そうした醜聞だけはどうして噂が広まるのやら――話を戻すぞ。その長男だが、国王陛下に第三王子が生まれたことで恩赦が出てすぐに釈放された。まあ、その辺りは予め織り込み済みで、形ばかりの処罰であったのだろうな。しかし、あれだけ世間を騒がす事件を起こしたのだ。当然、長男の家督継承権は剥奪された。さすがに伯爵もケジメを付けざるを得なかったのだろう」
その後、釈放された長男は伯爵領の僻地で隠遁生活を送っていたが、自暴自棄によって酒に溺れ、釈放から一年もしないうちに体を壊して亡くなった。
長男の死後すぐに、次男と三男による跡目争いが勃発した。
私生活では伯爵と一番仲が良かった三男は、父親が味方をしてくれることに期待して謀反に及んだとのことだ。しかし、伯爵は年功序列に従って次男を支持したため、三男は自らの居城に立てこもり、最終的に自害した。父を呪う遺書を残して。
その立て続けの事件を機に、伯爵の猜疑心は異常なまでに強くなってしまった。
結果、残された次男との仲も険悪となり、彼が自分を手にかけて今すぐにでも家督を奪おうとするのではないかと疑心暗鬼に陥っていた。
「結局、些細なことから次男も謀反の疑いをかけられ、処刑へと追い込まれた。もはやゲインマイル伯爵には、跡取りとなる実子が一人もいない。まるで絵に描いたような後継者問題に直面しているのだよ」
「……今日日珍しすぎるだろ。なんなんだ、その血みどろの共食い劇は」
ミハエルから長々と伯爵家の不祥事について聞かされていたラルフは、途中から頭が痛くなるのを感じた。やはり、自分は政治には向いていない。国政などに興味を持つべきではないように思えた。
「まあ聞け、この話にはまだ続きがある。伯爵家には跡継ぎがいなくなったわけだが、まだ他家に嫁いでいないご令嬢が一人いらっしゃる。そこで伯爵配下の貴族たちは、自分たちの息子を伯爵家の婿にして取り入ろうと躍起になって争っているのだ。最初のうちは互いの家に嫌がらせをする程度で済んでいたのだが、今では領地の境界付近で小競り合いが起きることさえ珍しくない」
「それが、最初に言ってた情勢不安に繋がるわけか」
「うむ、本来なら統率すべき伯爵ご本人の精神状態もさることながら、配下の貴族たちがそのように対立し合っているのだからな。伯爵領を中心とした西方面は、このところ急激に治安が悪化している。我がオブライト家の領地は、まださほど影響を受けてはおらぬが、このままでは巻き込まれるのも時間の問題だ」
オブライト家の領地がゲインマイル伯爵領の一部だということは、以前にヘレンから聞いたのでラルフも知っている。
自分とヘレンを結ぶきっかけとなった話題であるだけに、その時の思い出を今こんな形で結びつけられたのは、なんとも複雑な思いではあった。
「ますます分からないな。兄貴は俺に領地の治安維持でもしろと言うのか?」
「有り体に言えば、そうなる。オブライト家には仕える騎士も従者も少ない。お前のように経験豊富な騎士の助けが必要だ」
「俺は戦士だ。傭兵としてなら雇われてやってもいいが、高いぞ?」
「何を馬鹿なことを――つまらない冗談はよせ」
「冗談などではない。俺にも今の生活がある。身内に頼まれたからといって、ただ働きなどしない」
ミハエルは最初、弟が冗談を言っているのだと思い、ラルフが口にした傭兵のくだりを一笑に付した。しかし、冗談で言っているわけではないことは、弟の口から直接正されずともすぐに分かった。
理を示さなければ動かない。ラルフの目がそう言っていた。
「……いつまでも一介の騎士でいろとは言わん。ゆくゆくは私の代わりに領主となり、領地をすべて受け継いでくれても構わん」
「話にならないな。兄貴はただ俺に面倒ごとを押し付けたいだけじゃないか。それで俺に何の得があるというのだ?」
「六男のお前が、オブライト家の家督を継げるのだぞ?」
「俺があの家に愛着を抱いているとでも思うか?」
次第に冷たくなっていく弟の視線を受け、ミハエルは何も言い返すことができなくなった。ラルフがそこまで生家を拒絶する理由は、他ならぬミハエル自身が一番よく理解している。
しかし、あれからもう三十年経っているのだ。元凶である父親はもうとっくの昔に亡くなっている。それなのに、弟がこれほどまで頑ななままだったというのは予想外だった。
「……まあいい。無理強いをしたところで仕方があるまい。お前の気が変わるのを待つとしよう」
「気の長い話だな。それこそ、伯爵の話などしている場合ではないだろ。跡取りとなる息子は産まれたのか?」
「……息子がいれば、お前に領地を譲るなどとは言わん」
「それはごもっとも、親父の呪いだな」
ラルフは皮肉を込めてそう言った。
先代である父親には、ミハエルとラルフの他にも四人の子がいたが、その全員が男だった。男爵家に男子が六人もいるという、ひどい有様だった。
それに対して、現当主であるミハエルは正妻との間にすでに三人の子をもうけているが、そちらはこれまで産まれてきた全員が女だ。
何の因果か、オブライト家は二代に渡って、当主が求める子に恵まれない状態が続いていた。
「兄貴が枯れる前に、跡取りのことを考えておいたほうがいいぞ」
「さっきから好き勝手なことばかりぬかしおって……そのためにお前を呼び戻そうとしたのだぞ。お前のほうこそ、そろそろ身を固めるつもりはないのか? 何なら、ゲインマイル伯爵のご令嬢を狙っても構わんのだぞ。配下の貴族たちが宛がおうとしている鼻たれ小僧どもよりは彼女のお眼鏡に適うかもしれん」
「それならもう間に合ってる」
まさに、ゲインマイル伯爵のご令嬢をすでに射止めていると言ってやりたいところだったが、さすがにその話は口には出さなかった。
ヘレンの生い立ちについてここで兄に打ち明けても、話がややこしくなるだけな気がしたからだ。
「生憎と、俺はすでに結婚しているからな」
「なんだと!? 初耳だぞ!」
「そりゃそうだろ、報せてないんだから」
「ふざけるのも大概にしろ! この馬鹿者め……相手は誰だ?」
「ソードギルドの女戦士だ」
「よりによって何という……いや、側室なら別に誰でも構わんか。正室として然るべき相手を据えればまだ芽は――」
「いやちょっと待て、俺は側室とか持てる身分なのか?」
ヘレンのことは伏せたままで適当にあしらおうとしたところ、兄から意外な言葉が出たのでラルフは思わず食いついた。
「もちろん可能だ。身分の上では、お前は今でも貴族のままだからな。貴族特権はすべて認められるし、同時に貴族としての義務も発生する――なんだ、二人目の妻でも欲しくなったのか?」
「いや、そういうわけではないんだが……」
兄が変に勘繰ってきたため、ラルフは曖昧に言葉を濁した。これ以上、下手なことを言うと言質を取られかねないので口をつぐむことにした。
それにしても、意外であった。
長い間、平民に混じって暮らしていたからか、ラルフは自分が貴族だという感覚がすっかり欠如していた。自分が複数の女性を妻として迎えても許される立場だとは、思いもしなかった。
「何を悩んでいるのかは知らんが……お前にその気があるのなら、その女戦士とやらも連れて帰ってこい。少なくとも、一族の男子さえ産んでくれればそれでいい。もう相手が誰などという贅沢は言ってられん」
「不純だな。仮に子が生まれたとしても王都で平民として育てたほうが、よっぽど健やかに育ちそうだ」
「ここまで聞いてそう思うならもう何も言わん。お前の好きにすればよい」
そう言うと、ミハエルは席を立った。
話すべきことは話した。その上で、もはや諦めたという表情だった。
部屋から出ようと扉の取っ手を掴んだところで、ミハエルは思い出したように弟を振り返った。
「ラルフ、一度くらいは家に帰れ。両親の墓参りぐらいしろ」
最後にそれだけを言い残すと、ミハエルは扉を開けて部屋から出ていった。
ラルフは扉から視線を外し、先ほどまで兄が座っていた椅子に目を留めた。
「……もはや根に持っているのは俺だけか、これではただの私怨ではないか」
自分しかいない室内で、ラルフは吐き捨てるように呟いた。
しばらくの間、空っぽの椅子を睨むようにじっと見つめていた。