第35話 女魔術師、全てをさらけ出す
吸血鬼を倒して王都へと帰還したその翌日に、ラルフは婚姻を結んだ。
相手はもちろん、彼に帰る場所を与えてくれた女性――ソードギルドの同僚である槍使いの戦士ヘレンだ。
元々、今回の仕事が済んだら結婚について話し合おうと彼女とは約束していた。ただ、これほど早急に事が進んだのには、もちろん理由がある。
きっかけは、セーラから預かった言伝だ。
『愛されることまでは望みません。ただ、愛することを許してください』
この言伝を聞かされたヘレンは、それはもう大層ご立腹であった。
自分のいないところでお前は一体何をしていたのだと、こってり絞られた。
それからラルフは、吸血鬼と戦いの後でセーラとの間に何があったのかをヘレンに説明し、どうにか怒りを鎮めてもらうことはできたのだが、今度は一刻も早く婚姻を結んでしまおうと言って聞かなかった。
とにかく焦ってしまったのだろう。
普段は冷静なヘレンが、あれほど余裕を無くして詰め寄ってきたことは、ラルフにとっても衝撃だった。まだ次の段階へと進む準備は何もしていなかったのだが、彼女の気持ちを汲んで、翌朝には僧院を訪れてそのまま婚姻の誓いを立てた。
僧院の関係者以外には参加者が一人もいない式で、いまいち実感はわかなかったが、その日をもってラルフとヘレンは夫婦となった。
そういう経緯もあって、この事はまだほとんどの知り合いに打ち明けていない。冒険者仲間ではただ一人、セーラだけにはすべてを伝えたくらいだ。
一方、ミアは突然の衝撃からようやく立ち直り、先ほどの言葉の意味をどうにか理解しようと頭をフル稼働させていた。
もう結婚している。
聞き間違いなどではない。目の前のこの男は確かにそう言った。
「……」
「……」
あの発言の後、二人の間では沈黙が続いていた。
沈黙の間、ミアはずっとラルフの表情を見ていた。
いつもの寒い冗談だと、ラルフが急に笑い出すのを期待して待っていたというのもある――もし本当にそう言ったら殴ってやるつもりだったが。
しかし、今回のは冗談ではないとすぐに分かった。自分を見つめ返してくるラルフの目が、とても穏やかだったから。
気まずい沈黙が続いた後、ようやくミアのほうから口を開いた。
「……おじさんってさぁ」
「うん?」
ラルフは、先ほどからずっと優しい目でミアを見つめていた。
そんな余裕ある態度が、この時ばかりは癇に障った。この男に言ってやりたいことが、いくつも頭に思い浮かんできていた。
だが、ミアはそのどれも言う気にはなれなかった。
何を言ったところで、結局それは自分の逆恨みでしかない。
そんなことで、ラルフとの今の関係まで壊したくはなかった。
「……いや、いいよいいよ。考えてみればさー、おじさんみたいないい歳の大人に相手がいないほうがおかしな話だからねー」
ミアはそう言いながら、テーブルに頬杖をついた。面白く無さそうに眉根を寄せ、むすっとして表情で口をへの字に曲げる。
いかにも機嫌が悪そうな態度の反面、気持ちのほうは意外に落ち着いていた。ずっと聞きたかったことを聞けて、むしろすっきりしたくらいだった。結婚までしているというのは予想外だったが、それを除けばある程度想定していた答えだ。だから、聞かされた事実をすんなりと受け入れることができた。
ただ、気分は晴れない。どうしても、もやもやとしてしまう。
「ごめんな、ミア」
「……なんでおじさんが謝るのよ。そういうのって一番ムカつくんですけどー」
ミアは不貞腐れたようにそう言うと、プイッとそっぽを向いてしまった。
そして頬杖をついている手で、顔をラルフに見られないように隠す。
(気を遣わせているのは俺も同じだな……)
ミアは本当に頭の良い娘だ。
その賢明さを当てにするあまり、彼女には酷な負担を強いてきてしまった。
これまで自分があまり本気にしてこなかったことも原因の一つだろうと、さすがにラルフも反省していた。セーラに対する認識を改めたこともあり、ミアを子ども扱いするのはもうやめようと決めた。
だからきちんと向き合った。向き合いはしたが、その結果としてどうしてもこうなってしまうのは避けられなかった。
「他に願いがあるなら、聞かせてくれ――」
「飲みたい」
食い気味に、ミアは答えた。
「お酒飲みたい。おじさんの奢りでとことん飲む」
隠していた顔を上げた時、ミアの目は据わっていた。目だけが鋭いまま、その表情には満面の笑みが浮かんでいるように見える。
ミアはおもむろに椅子から立ち上がり、ラルフのそばに近づくと彼の右腕を両手でがっしりと掴む。その一連の動作の間も、彼女は相変わらず笑ったような表情のままで、瞬き一つしない。
ラルフは顔を引きつらせながらも、神妙に頷いた。
※ ※ ※
その後、近くの酒場へと河岸を変えて、ラルフとミアはサシで飲み合った。
もうすっかり日が落ち、時刻は宵の口ほどになっていた。酒場が一番繁盛している時間帯だ。その時点でミアは明らかに飲みすぎだった。
ミアがそれほど酒に強くないことは、新人たちとの二度の酒宴を通じてラルフも知っていた。それを承知の上で、今日は彼女のしたいようにさせた。
「……幻滅したでしょ」
結果、ミアはきっちりアルコールの報いを受けることになった。
酒場の脇にある路地裏で、今飲んできたものを一通り吐き終えた後、彼女は虚ろな目で力なく笑った。
我ながら最低だと思う。
こんな情けない姿を、ラルフにだけは見られたくなかった。
決してやけ酒のつもりはなかったのだが、上手くいかなかった。お酒が入れば、このもやもやとした気も晴れるかと思っただけなのだが、むしろ逆効果だった。
自分の中でずれてしまったものを無理やり戻そうとして、余計にそのずれを大きくしてしまった。そのせいで、さっきは言わずに我慢できていたこと――言わなくてもいい八つ当たりまで、結局ラルフに言ってしまった。
心がぐしゃぐしゃになったみたいだった。いっそ嫌われてしまえばいいのだと、半ば自暴自棄に陥っている自分がますます嫌だった。
「見くびってもらっては困るな。俺は酔っ払いに関しては造詣が深いぞ」
一方のラルフはというと、いつもと変わらない様子だった。酒宴を終えた直後に相応しい、楽しげな笑みさえ浮かべている。
ラルフは終始平静だった。ミアの胃がそろそろ限界だと思った頃には、さっさと勘定を済ませて彼女を店外へと誘導した。その後も背中をさするなどして、悪酔いの苦しみから少しでも解放されるようにと、ずっとそばで支えていた。
「酒を飲むというのはそういうことだ。酔うからこそ楽しい」
「……女の子が苦しんでるのに、それを見て楽しむとか趣味悪くない?」
「おかげでミアの弱みを一つ握れたからな。良好な人間関係を築くには、それも大事なことだと思わないか?」
ようやくミアが落ちついてきた頃を見計らって、ラルフは彼女に背を向けてその場にしゃがみ込んだ。
背中に乗れと言っているのだ。
ミアの目に生気が戻る。それと同時に涙がこぼれた。
今日は泣くのは我慢しようと決めていたのに。
今までの関係が崩れてしまうのを恐れ、勝手に取り繕おうとして、勝手に失敗して、勝手に落ち込んでいた自分が馬鹿みたいだった。この人はすでに、明日の自分にまで目を向けてくれているというのに……。
「おじさんって、思ってたよりも悪い人だったんだねー」
涙交じりの声だったが、ミアはいつものように笑うことができた。笑いながら、ラルフに対して皮肉も飛ばせた。
まだ酒は抜けきれておらず、足元が少しふらつく。
言うことをきかない足を苦労して動かしながら、ミアはラルフの背中に倒れ込むように抱きついた。
「それはどうも、今の今まで隠し通せていたのなら、俺も大した役者だな」
ミアの皮肉にひとしきり笑い返すと、ラルフはすっと立ち上がった。
背中に背負っているミアの重さなど全く感じていないような力強さだった。
しっかりとした足取りで、彼女の宿に向かって歩を進めていく。
「――私ね、結構大きな農家の次女だったの。何も期待されない自由な立場だったから、あまり叱られもしなかったけど、構ってもらえないのは寂しかったかな。けど、兄も姉も母も父もみんな善い人だったわ」
宿への帰路、ミアは何を思ったのか己の身の上話をポツポツと語り始めた。
「私が十歳のときに父が病気で亡くなったの。そしたら、嫌いな親戚がよく家に来るようになって……私はそれが嫌で、そういう時は一人で書斎にこもって、父が道楽で集めていた本を読んで過ごしてた。いよいよ読む本が無くなったら、村はずれに住んでた魔法使いのお爺さん――師匠の家まで本を借りに行くようになったわ。そのおかげで、自分に魔術の才能があるって知ることができたの」
そこで一度言葉が途切れ、ミアはほんのわずかな間だけ押し黙った。
そして再び言葉を継いだ。
「……でも、私がそんなことをしているうちに、私の家は親戚の悪い人に乗っ取られてた」
兄たちは働き手に取られ、母と姉ともバラバラになってしまった。
世の中には悪い人がいて、善い人はその食い物にされても、何もできない。
善い人だから。ただ耐えることしかできないという現実を、ミアは生まれて初めて目の当たりにした――自分の家族が犠牲になるのを、ただ見ていることしかできないという無力感に打ちひしがれながら。
もう見ているだけは嫌だった。ミアは、そうした世の中の理不尽を少しでも取り除きたかった。善い人が不幸にならないための助けになりたかった。その決心をオズワルドに伝えたところ、彼はミアと共に故郷の村を出て、王都で魔術を教えることを承諾してくれた。
ミアの長い独白を、ラルフは最後まで何も言わずに黙って聞いていた。
「……ねぇ、おじさん。今日はもうひとつだけ、お願いしてもいい?」
「なんだ?」
ラルフの背中に顔を埋めたまま、ミアは小さな声で呟いた。
「私、もっと強くなるね。強くなったら……また一緒に冒険してくれる?」
「もちろんだ」
ラルフの返事は淀みなかった。
ミアの好きな優しく力強い声で、はっきりとそう答えてくれた。
その言葉を聞けた途端、ミアはその大きな背中で安心したように眠りについた。




