第34話 女魔術師、勇気を出してみる
内心では、ミアは少し後悔していた。
正直、迂闊だったと思う。カルロッテと一緒にいる今このタイミングで、わざわざお礼の件で食い下がる必要などなかったのだ。期せずしてラルフに会えたことで嬉しくなり、ついテンションが上がってしまった結果だった。
本当ならもっと個人的な『お願い』を聞いてほしかったのだが、ああいう流れになってしまうと流石にそれは切り出しにくい。知り合いのカルロッテに変に勘繰られるのも嫌だったので、ついつい無難な意見を採用してしまった。
もっと精神鍛錬をしろと、師匠であるオズワルドからはいつも小言を言われるが、これではそれも当然だなと反省する。
とはいえ、巷で話題のスイーツという物が気になっていたのも事実だった。それを人の奢りで食べられるなら、悪くない話だなとは思う。
年頃の娘らしく、ミアは甘い物には目が無かった。
「えぇ、なにこれぇ! 温かいのに甘いなんて、なんか不思議な味―!」
「うんまいですわ! もとい、美味ですわー!」
運ばれてきたスイーツとやらは、これまで見たこともない珍しい食べ物だった。
薄く焼かれた小麦粉の生地に、溶かしたバターと砂糖をまぶされている。これだけでも十分美味しそうなのに、それが果実の甘露煮とともに皿に盛り付けられ、上からはとろっとしたオレンジ色のソースがかけられている。そのソースからは柑橘の香りに加え、芳醇なお酒の香りがする。菓子だというのに酒が使われているのだ。それが何だか大人っぽくて、ミアはすっかり気に入ってしまった。
わざわざナイフとフォークを使って菓子を食べるというのも驚きだった。そんな高価な食べ物は、一年のうちでお祝いの日くらいしか食べる機会がない。
女子二人はとにかく大喜びで、夢中になって皿に盛られた菓子を平らげていった。
「たしかに、変わった料理だな。色んな味がする」
ミアの向かいの席に座っているラルフはというと、彼女たちと比べ、やや反応が薄い。一枚目の生地を食べ終えた後、残りは手付かずのままだった。手に持ったナイフとフォークは宙を彷徨っている。
「おじさん、あんまり食べてないね……これ美味しくなかった?」
「いや、美味いぞ。ただ、俺には少し甘すぎるな。一枚食べただけでもう十分なくらいだ」
「なら、わたくしが残りを食べてあげますわ。ラルフ、お皿をよこしなさい!」
「あっ、ずるーい! 私ももっと食べたかったのに!」
ほとんど手付かずのまま残っているラルフの皿を奪おうと、カルロッテがテーブル越しに手を伸ばす。奪った皿からさらに菓子を強奪しようとするミアが加わり、皿の上では熾烈な攻防戦が繰り広げられていた。
その様子を見て、ラルフは苦笑いを浮かべる。
時折、周囲からの視線を感じる。この小洒落た雰囲気の店内で、こんなに喧しく騒いでいるのはこのテーブルだけだ。
周りの客はもっと淑やかな上流階級っぽい連中ばかりで、自分たちの存在はどう考えても浮いている。もうすぐ晩飯時ということもあり、客入り自体は少ないのがせめてもの救いだった。
それにしても、こんな時間からよくこれだけの菓子を腹に入れられるものだと思う。これを平らげた後で、普通に晩飯も食べるのだろうか?
若い娘に面と向かって言うのはご法度な考えを巡らしながら、ラルフはそんな若者の健啖ぶりを満足げに眺めていた。
「この国は豊かになったものだな……」
騒いでいる二人の声にかき消される程度の声量で、ポツリとつぶやいた。
一昔前なら、これほど多様な食材を使った料理は王侯貴族でなければ口にできなかったはずだ。
それが今や、王都で暮らす一般市民でもこうして食べられるようになった。もちろん対価として大量の金貨は必要だが、それさえ支払えば誰でも食べられるという点で、ラルフが若かった頃とはまるで状況が異なる。
それだけ今が平和な時代ということなのだろう。
王都に住むすべての住民に毎日パンを配っても、まだあり余るほどの小麦は常に蓄えられている。南国との貿易も盛んに行われているため、この国では育たない果物や砂糖も大量に入ってくる。
そうした豊かさのおかげで、自分の周囲の人たちがこうして笑顔になっている。
この平和は間違いなく守る価値があるものだ。彼女たちのおかげで、ラルフは改めてそれを実感することができた。
「おじさん、なんだか嬉しそうだね? 何か良いことでもあったの?」
「ん、そうか? まあ、若者にたらふく食べさせて勝手に喜ぶのが、おっさんって生き物だ」
「そうそう、うちのお爺様もそんな感じの人でしたわ。ラルフも立派な年寄りになったということですわね」
カルロッテは話を混ぜっ返してラルフを茶化しているが、ミアはラルフが時折見せるそうした静かな笑顔が好きだった。
最初に冒険者の酒場で声をかけられた時は、得体のしれない変なおじさんくらいにしか思っていなかった。普段は妙に気の抜けた態度をしている癖に、目つきだけがやたらと鋭いのも少し怖かった。
印象が変わったのは、最初の冒険を終えた辺りからだ。
この人は何の見返りも求めていない。ただ善意だけで自分たちを助けてくれている。そのことに気づいたのだ。
そんな人間が本当に存在するのだと知って、ミアは衝撃を受けた。
王都での生活を保証してくれているオズワルドにも感謝はしているが、彼はミアに魔術の才能が無ければ、見向きもしなかっただろう。あくまで師匠と弟子の関係であり、我が子のように無償の愛を注いでくれているわけではない。
しかし、ラルフは違う。
出会ったばかりの自分や仲間たちに、ひたすら親身になり接してくれた。
そして、悪人が残した世の中の理不尽を、善性によって取り除いて見せてくれた。それはミア自身がずっとなりたがっていた理想の姿そのものだった。
この人の力になりたい。一日も早く、自分もこの人のようになりたい。
目に見える目標ができたことで、ミアは以前にも増して魔術の修練に励み、彼に近づけるようにと冒険にも積極的に出るようになった。
「ミアのほうこそ、やけに嬉しそうだな。話題のスイーツとやらはそんなに美味かったか?」
「えっ!? あ、うん……おいしかった、よ?」
突然、思ってもみない返しをされて、ミアはひどく狼狽してしまった。
いつもこうだ。
会話の流れの中でなら何ともないのだが、ラルフのほうから急に話を切り出されると、何故だか分からないが緊張してしまう。さらに名前まで呼ばれると、彼にじっと見られているようで恥ずかしくて堪らない気持ちになる。
「あらまぁ?」
その様子を横から見ていたカルロッテだったが、何かを察したように目を細めた。
「――それじゃ、ラルフの奢りで話題のスイーツも頂けたことですし、わたくしはこれでお暇しますわね。ごきげんよう、お二人とも」
カルロッテは椅子から立ち上がると、二人に向かって優雅に一礼した。
そして、もう用事は済んだとばかりに、さっさと店から出ていこうとする。
「ああ、クリストファーにもよろしくな。近々また力を貸してもらうことになると思うから、そう伝えておいてくれ」
立ち去ろうとするカルロッテの背中に向かって、ラルフが声をかける。
カルロッテはそれには振り返らずに、後ろ手にヒラヒラと手を振って応えた。
「ミア」
カルロッテが立ち去るのを見届けた後、ラルフは向かいの席に残っているミアに再び語りかけた。
名前を呼ばれたミアは、驚いて肩をビクリと震わせる。
「お前は周りに気を遣いすぎだ。こいつはただの奢りってことでいいから、ちゃんと自分の望みを言ってくれ」
テーブルの上に残された皿たちを脇に寄せ、皿の端をトントンと指で叩きながら、ラルフは言った。
「あ、あのね。お願いの前に、教えて欲しいことがあるの……」
言うべきかどうか、ずっと迷っていたことだ。
しかし、ラルフはまさに千載一遇のチャンスを与えてくれた。
この機会を逃すと、もう二度と言う勇気は出ないかもしれない。
「おじさんってさぁ……今、付き合ってる人とかいるの?」
言った。
聞いてしまった。
こうなったら、あとは野となれ山となれ。
たとえ望まぬ答えが返ってきたとしても、ミアはそれを受け入れ、後悔しないつもりだった。
「付き合っているというか、もう結婚してる」
「う゛ぇ!?」
全く予想していなかった答えに、ミアは変な声を上げた。