第28話 おじ戦士、決意を固める
出発の日まで、あと二日。
この日、俺はソードギルドで訓練に励んでいた。
朝からひたすら、人間サイズの藁人形に向かって短剣の投擲練習をしている。
かなり腕が鈍っているのを認めざるを得ない。最近は剣だけですべての敵を倒してきたため、最後に短剣を使って戦闘をしたのが、一体いつだったのかも思い出せないほどだ。
「よっ、投擲術とは珍しい訓練をしているな!」
訓練の途中で、背後からよく知った陽気な声が聞こえてきた。
自分以外の者に声をかけられたと思って無視したいところだが、生憎とこの場で投擲の訓練をしているのは俺しかいない。
今日は訓練に集中したいのだが、俺が一人でいる日は決まって誰か彼かに声をかけられる気がするな。
「ヘクターか、何の用だ?」
俺は振り返ることなく返事をし、短剣の投擲を続けた。
三本同時に投げた短剣が、藁人形の右腕に横並びに命中した。人形の腕が半ばほど切断され、だらりと垂れ下がる。
ようやく少し勘を取り戻せてきたな。
「少しだけ、手を止めて聞いてくれないか――三人で話したいことがあるんだ」
ヘクターの声色が真剣なものへと変わったため、俺は短剣を投げる手を止めて振り返った。
ヘクターの後ろには、彼の妹であるヘレンの姿もあった。
「……どうやら込み入った話になりそうだな、場所を変えるか?」
「いや、ここで構わない。そういう改まったのは、俺も苦手だ」
そう言いながらも、ヘクターはなかなか話を切り出そうとしない。
恥ずかしげに頭を掻きながら笑っている。その表情は、にやついているというよりも、少しばかり困っているような感じだった。
その様子だけで、これから話すのがどんな話題なのか、ある程度想像がついた。
「お前たちのことは、ヘレンから聞いたよ。その、なんというか……俺たちが命がけでドラゴンと戦っている間に、そっちは随分と楽しくやってたんだな?」
ヘクターはそんな軽口を言いながら、俺の胸を拳で軽く突いてきた。
歴戦の戦士とは思えない、ごく普通の青年のような笑みだった。
普段は見せないヘクターのそんな姿を見て、俺も張り詰めていたものが切れたように力が抜け、自然と笑みがこぼれた。
「こういうときは、妹さんをください、とでも言えばいいのか?」
「こういうとき兄としては……妹をよろしく頼む、とでも言うべきなのかな?」
互いに相好を崩して、笑い合った。
一方のヘレンは、先ほどから腕組みをしたままむっつりとした表情で、ヘクターを睨んでいる。
「兄さん、馬鹿なことを言ってないで、早く本題に入って」
「あぁ、そうだな……ええっと、お前たちがそういう関係になったということもあって、俺は家を出ることにした」
なんだと?
「いやいや、待ってくれ。そんな、俺のせいでお前を追い出すようなことは……」
「ああ、違うんだ。実は、前々から誘いがあった騎士団への加入を検討していてな。丁度いい機会だから、叙勲を受けることにした」
話が急展開すぎて、頭が追いついていかない俺に対して、ヘクターはなおも言葉を続ける。
「騎士団に入ったら、一年のほとんどは宿舎暮らしだ。別段、家に帰る必要も無くなる。あの家はお前たちで好きに使ってくれ」
自分の人生の転機になるような重要な事を、ヘクターはひょうひょうとした態度で口にする。
その態度に妙な違和感を覚え、俺は自分が知っている可能性の中で考えを巡らせた。そして一つの仮説に至った。
「ゲインマイル伯爵に、何かあったのか?」
「……察しが良いな。けれど、それはここでは言えない」
俺の質問に苦笑いで返しながら、ヘクターは首を横に振った。
それ以上はどうか聞いてくれるなと、彼の目が訴えていた。
「すまない、出すぎた発言だったな」
「なに、お前とは身内になるかもしれないんだ。その件も、いつか腹を割って話そう」
ヘクターはそう言うと、もう一度俺を胸を突いてから、この場を離れていった。
一方のヘレンはというと、まだこの場に残って俺のほうを見つめている。
彼女の表情は先ほどまでのようなむっつりとしたものではなく、いつも通りの表情へと戻っていた。腕組みを解いてペコリと頭を下げてくる。
「そういうことと、相成りました」
言葉の意味を全部理解するよりも前に、俺も反射的にお辞儀を返していた。
「……なにやら妙な気分だな。考えてみれば当然のことなのだが、ヘクターと義兄弟とはな」
しかも形式上は、やつのほうが義理の兄ということになる。
俺のようなおっさんが義弟になるというのは、どんな気分なのだろうな。
まだ正式に婚姻を結ぶような段階ではないのだが、俺はもちろんのこと、ヘレンもそれなりの歳なので、このままだらだらとした関係を続けるわけにはいかない。
そう遠くないうちに、次の段階へと話を進める覚悟をしておかなければならないだろう。
「今夜は、家に来てくれますか?」
「……悪いが、しばらくは無理だ。近いうちに仕事で街を出ることになる」
「そんなことだろうと思ってました。また怖い目をしていますから」
ヘレンは俺の眉間に指で触れ、ぐりぐりと擦ってシワを伸ばそうとしてくる。
「私も一緒に行くことはできませんか?」
「それはできない、これは……俺が一人で果たさねばならない仕事だ」
「分かりました。では今夜は家に来てください、激励してあげます」
「いや、だからな――」
「明日、明後日に出発だとしても、今日一人でいなければならない理由にはなりません。今夜くらいは一緒にいてくれても良いでしょう?」
そう言うとヘレンは、人目もはばからずに俺の胸に抱きついてきた。空いている片手で、それをしっかりと抱きとめる。
俺は軽い溜息を吐くと、天を仰いだ。雲一つない、高い青空だけが目の前に広がった。
分からなくなってきた。
俺は、弱くなっているのだろうか?
それとも強くなっているのだろうか?
俺は戦士だ。
戦うために生きている。
俺が命を失うとすれば、それは戦いの最中だろう。
戦士として、そうあるべきだと思うし、そうありたいとも思う。
だが今の俺は――命を惜しむ気持ちが生まれてしまっている。遠い昔に失ったはずの、死にたくないという感情が。
その感情を、ただの邪念だと抑え込むことは簡単だ。これまでは特に意識することもなくそれができていた。しかし、もはやそういうわけにはいかない。
これからの俺にとって、その感情は抑え込むのではなく、向き合わなければならないものだ。
それが今、ようやく理解できた。
「今夜は、家に帰るよ」
「そうしてください。何としてでも生き残り、あの家に帰りたくなるような気持ちにしてあげます」
俺は片手に持っていた短剣を足元に落とすと、両手でヘレンを抱きしめた。
たとえこれが弱さであったとしても、この感情が俺の人生において不要なものだとは、どうしても思えなかった。思いたくなかった。
一つだけではなく、すべてと戦う決意を固めた。




