5.セイ・イット・ワンス・モア!
『長瀬さんにお話ししたいことがあるので、放課後、非常階段の一番上の踊り場に絶対きてください。いつまででも待ってます。二年二組 武元朔』
――いたずらか、見間違いかと目を疑った。
瞳子とけんかした次の日、目が覚めると高熱があった。一日お休みをし、今日は瞳子とべつべつで学校に来てロッカーを開けたら、折りたたまれたルーズリースが入っていた。
デジャブだ、と思ったけれど、違うところがいくつかある。
まず、外側に『長瀬音さんへ』と書かれてある。前の手紙には、たしかなにも書かれていなかったはずだ。だから、もしかしたら瞳子宛のものだったんじゃないかと疑った。
次に、ちゃんと私宛であり、差出人の身元もわかるように書いている。武元くんが、私に話したいこと――なんだろう、と首を傾げることしかできない。
それから、文面が前と少しだけ違う。『絶対』とか『いつまででも』なんて言葉は、前の手紙にはなかった。前はもっとさらっとしていて、こんな必死な様子はなかったように思う。
字は完全に武元くんのものだ。右上がりで、一文字一文字丁寧に書こう、という気持ちがこもっている。彼の書く自分の名前はなんだか自分のものではないみたいで、指先で撫でると勝手に笑みがこぼれた。
人生で何百回も書いたどんな「長瀬音」よりも、丁寧で力強い。
元のように折りたたんで、スカートのポケットに入れる。この手紙も、いつか思い出になるだろうか。
教室に入ると、すでに瞳子は席についていた。私が来たことを察知したのか、ごそごそと数学の教科書を取り出して読んでいる。普段はそんなことしないし、瞳子の読んでいる単元は一学期にやったところだ。現在の単元とは全然関係がない。
「瞳子」
「……なに」
「おととい、ひどいこと言ってごめんね。……あげる」
声をかけても振り向かない瞳子に不安になって、かばんの中からラッピングをしたお菓子をそろそろと取り出す。喧嘩をしたあとに渡すクッキーだ。昨日のお昼すぎには熱が下がったので、瞳子に渡すためにつくった。
小学生のころから、私たちはずっとこうやって仲直りをしてきた。
「……私も、音のことなんにも気遣わないで変なこと言ってごめん。音に春がきたと思って浮かれてた」
「まだ冬だよ?」
「そうだけど……そうじゃないけど……まあいいや。もらう。ありがとう。ごめんね」
瞳子は立ち上がってクッキーごと私の手を握ると、そのままハグをしてきた。ぎゅうぎゅうと締めつけられるが、それほど苦しくはない。
瞳子の気が済むまで抱きしめられて、自分たちの席に着いた。周りは何事かと気にしているけれど、私たち流の仲直りの儀式なので、気にしないでほしい。
「……武元にちゃんと返信した? 心配してたよ」
「ううん、返さなかった。もういいやと思って」
「もういいや?」
「うん。もうやめるの」
誰に聞かれているかわからないので小声で話す。私の「やめる」という発言に、瞳子は目を見開いた。
「やめる……やめるって、」
「だいじょうぶ。瞳子は気にしないで。私、図書室に返す本があるんだった。返してくるね」
レシピ本の返却日だったことを思い出して、席を立つ。幸い、朝のSHRまではまだ少し時間がある。
私が教室を出る直前、瞳子はまだぼんやりとしていた。そんなに衝撃的なことでもないのに、瞳子はいきなり殴られたみたいな顔をしているのが面白かった。
昨日、熱にうなされて起きて、もうやめようと思ったのだ。武元くんを好きでいるのを、もうやめる。武元くんと一緒に帰ったり、お菓子をあげたりするのを、もうやめる。
だって、この恋はつらいばかりだ。武元くんは瞳子のことが好きで、瞳子には彼女がいて、私は武元くんが好きで――誰も報われない。
瞳子には、一年のときから付き合っている彼女がいる。他校の子だけれど、私はその子と何度も会ったことがある。瞳子とその子はとてもラブラブで、誰の入る隙もない。
だから武元くんが報われないことは、私だけが知っていた。なのにそれを伝えず、ずるずるとそばにいた、最低な人間なのだ。武元くんの、瞳子への好意を利用した。それに気づいたとき、自己嫌悪で息が止まりそうになった。
前みたいに「ただのクラスメイト」に戻ってしまえば、武元くんへの気持ちも忘れられるだろうか。微妙なところだけど、今すぐは無理でも卒業するころには大丈夫になっているんじゃないかと思う。
図書室で返却の手続きをして、教室に戻る。図書室のある特別棟は、この時間だからかしんと静まり返っていた。
*
今日も料理部は休みだ。今から武元くんと会ってくると言うと、瞳子は微妙そうな顔をした。なぜかもじもじしている。私がマフラーを巻き終えるのを待って、瞳子はおずおずと口を開く。
「あの……私に彼女がいるって、武元には教えていいから」
「いいの?」
「うん。武元なら大丈夫。頑張ってね、いってらっしゃい」
「ありがとう。いってきます」
瞳子は、彼女がいることをあんまり人に言いたがらない。まだ同性同士で付き合っていることに対する偏見があることもそうだし、そもそも言わなければいけないタイミングがないのだ。聞かれたら答えるけれど、聞かれることがほとんどないと言っていた。
武元なら大丈夫、と瞳子は言っていた。どこでそんな信頼が生まれたのかはよくわからないけれど、瞳子がいいと言うならいいのだろう。武元くんにははっきり教えてあげないといけない。
瞳子とあなたが付き合えることはありません、そして私はあなたのことが好きです、ごめんなさい、と。
非常階段の踊り場へ向かうと、待ち人はすでにそこにいた。前と逆だなあ、と思いながら、階段を駆けあがる。
「こんにちは。待った?」
「いや、さっききたところ。ここ寒いから、べつの場所にする? 病み上がりだし」
「いいよ、だいじょうぶ。昨日のは知恵熱みたいなものだから」
しかもマフラーもちゃんとしてるし、と黒いもわもわのマフラーを見せつけると、武元くんは少しだけ笑った。その頬には、あきらかに「緊張」の二文字が浮かんでいる。
竹本くんに隠しごとをしていたことを、まず謝らなければいけない。ぐっと固くこぶしを握って、二人のあいだに流れる沈黙を断ち切った。
「あの……ごめんなさい! 私、武元くんに言わなきゃいけないことがあって」
「え、な、なに?」
「瞳子には付き合ってる人がいるの。だから、武元くんが瞳子に告白しても、万が一、億が一の可能性もないと思う。ごめんね、先に言えばよかったね。なのに言わないで……私と仲良くしてもらって……」
視線がだんだんと下を向く。あまりの申し訳なさに、武元くんの顔が見られなかった。気まずい。
だったらお前となんか仲良くしなければよかった、と階段から突き飛ばすような人ではないと思うけれど、中学のときは怒ってすれ違いざまに私の肩にぶつかってくる人もいたのだ。なんて言われるんだろう、と考えただけで恐ろしくなった。
武元くんに「長瀬さん」と呼ばれて、はっと顔を上げた。武元くんは――なぜか照れくさそうに笑っていた。
「俺の話も聞いてくれる?」
「う、うん。きくよ」
「俺、一年のときからずっと好きな子がいるんだ。いつもはちょっとどじで、ぽけっとしてるけど、料理とお菓子づくりが得意で、調理実習のときはいろんな班の世話して『先生』って呼ばれてて」
「……それ、」
「英語が得意で体育が苦手で、女バレに番犬みたいな親友がいて、料理部の活動があるときは髪をお団子に結んで、そうじゃないときは二つ結びしたり下ろしたりしてて、暇さえあればお菓子づくりの研究して、名前すらわかんなかった俺の頼みを断らないぐらいお人好しで」
これは、だれの話だ。だって、武元くんは瞳子が好きで、だから私は――
「自分に向けられた好意にぜんっぜん、一ミリも気づかないで、自分の友だちのことを好きなんだって勘違いしちゃうような、早とちりでかわいい長瀬さんのことが好きだ。ずっと長瀬さんが好きで、あの日も長瀬さんに告白しようと思って呼び出した」
まあ、すごい勘違いされたけど、と武元くんは笑う。
初めてちゃんと話をした日に、私がときめいたエピソードは私とのことだったらしい。そう気づくと、視界がぐにゃりと歪んで、その表情がわからなくなった。
武元くんは慌ててバッグからタオルを取り出すと、私に手渡してくれた。昼休みに汗拭いたからくさいかも、と言われて、すんと嗅ぐと、たしかに少しだけ汗のにおいがして笑ってしまう。
「長瀬さんのことが好きです。一ヶ月前まで名前も知らなかった俺のことを好きになってもらえるように、今からがんばります。今まで通り仲良くしてもらえたらうれしいです」
「わ……わたしも、すきです」
は、と武元くんから声が漏れる。顔どころか耳まで真っ赤になっている自信があったから、武元くんの汗くさいタオルで隠そうとしたのだけれど、涙が出ていないことがばれてすぐに没収された。
「長瀬さん、もういっかい」
「私も、武元くんのことが、好きです」
「……うそ」
「うそじゃないよ。武元くんは瞳子のことが好きだから、私が好きになっても振り向いてもらえるわけないし、諦めようと思って、でもその前に武元くんにちゃんと謝っておこうって思って、だからここにきたの」
「じゃあ俺は好きな子にふられようとしてたってこと? あっぶねえ〜……」
武元くんはその場にしゃがみ込んだ。彼も耳が赤い。隣で同じ体勢をとると、武元くんが「ほこりつくしパンツ見えるよ」とよけいなことを言ってきたので、彼の肩に軽く握りこぶしをぶつけておく。
おしりはついていないし、スカートの下にちゃんと短いペチパンツを履いているので逆立ちしてもパンツは見えない。
「じゃあ……私たちは恋人、ということになるんでしょうか」
「照れてんの? かわいー」
武元くんに笑われて、体温が上がった気がした。かわいい、と男の子に言われたのは初めてかもしれない。
彼は今から部活に行くというので、一緒に帰る約束を取りつけて踊り場で別れた。武元くんが階段を降りるときに、跳ねていたように見えたのはきっと気のせいだろう。