鯨包丁の夜【第一回幻想と怪奇SS・コンテスト 応募作品】
1
裸の女が、ゆらゆらと波に揺られている。冷たい冬の海をゆらゆらと。仰向けになって、真っ青な朝の空を見上げて、どうして自分はここにいるのだろうと考えている。
両耳が海中に浸かっている。コロコロ、コロロロ、と水音がする。
コロコロ、コロロロロ……。
女は誰かに呼ばれているような気がする。
「おい、エンジン止めろ! 人だ!」
男の声と大きな波音が聞こえてくる。左側を見ると、一艘の漁船が近づいていた。漁船はゆっくり速度を落とすと、女のそばに停まる。
「イサム、タモ持ってこい。早く!」
漁業用の派手な合羽を着た中年男性が、声を荒げていた。イサムと呼ばれた青年はどこからか大きなタモ網を取ってくる。
「はい!」
手渡されると、中年男性はそれを海中に差し入れた。
「くそっ、水死体だ! こういうのはすぐに引き上げねえと」
「親父、ちょっと待って。この人……」
青年が中年男性を制する。
女は、二人の顔をじっと見比べていた。シジミのような色黒の顔が二つ。漁師たちは顔がよく似ていた。きっと血のつながった親子なのだろう。息子の方だけ、髪が明るい茶色に染まっている。
「生きてる、生きてるよ親父!」
「なんてこった!」
女はタモ網の先の部分を強く掴んだ。
「ちょっと、待ってろ。今助けてやるからな!」
中年男性はタモ網を息子に渡すと、足元にあった太いロープを輪にして海に投げ入れた。女はその輪を器用に頭から被り、両の脇の下にうまく引っかける。
「よし、それでいい! イサム、二人で引き上げるぞ。せーの!」
青年はタモ網を放り出し、父親と一緒にロープを引きはじめた。
やがて、女が漁船の上に引き上げられた。
何も身に着けていない素っ裸の体には、胸の下に縄の痕が赤くついてしまっている。女はそれを指でなぞりながら、漁師二人の露骨な視線をじっと受け止めていた。
「お、親父、俺毛布取ってくる」
「ああ……」
急に我に返ったのか、青年がそう言って立ちあがった。しばらくして、女は毛布を体にぐるぐると巻きつけられた。港に運ばれるまでの間、それから一言も女は言葉を発さなかった。
2
「じゃあ、先生。後はよろしくお願いします」
「はい。ご苦労様でした」
地元の港に戻ると、イサムは海で拾った女を近くの診療所に連れていった。父親の昭夫は、警察への連絡をしたり、獲れたイカの水揚げ作業をしに戻っていった。
医者の水野は事情を聞くと、看護師に保温処置や輸液の指示を出した。
女はすぐに入院着を着させられ、ベッドの上で湯たんぽまみれにされたり、点滴につながれたりした。
それらを見届けると、イサムは急いで漁港に戻った。漁港ではすでに魚市場職員たちや漁業仲間によって、定置網船から水揚げされた魚の選別が行われていた。イサムも種類やサイズごとにプラスチックのかごに分けていく。それらはすぐ隣の市場のセリ場に移され、セリが始まるまで重量や番号の札をつけられたり、氷を入れられてたりした。
「おーい、イサム。そろそろ飯にしようや」
警察からの事情聴取と船の清掃を終えた父親が、イサムに声をかけてくる。二人はいったん朝食を食べに自宅へと戻った。
「なあ、イサム。あの女の人は助かったかよ?」
「ああ、なんとか。大丈夫そうだよ」
イサムは洗濯機のスイッチを押しながら、台所にいる父親に返事をした。父親の作る味噌汁の香りをかぎながら、助けた女の裸を思い出す。父親も、同じ場所で同じものを見ていた。それがまだなんとなく気まずい。
「そうか。そりゃあ良かった。さっき警察から連絡があったんだがな、あの女の人は所持品を何も持ってなかったんで、どこの誰だかはまだわからないんだとよ。俺たちが助けた時も何もしゃべらなかったし、治療を受けて回復しなきゃ色々わからんだろうなあ」
「別に、どこの誰だとか興味ない」
「そうかあ?」
できた朝食を食卓に並べながら、父親がどこか茶化したように話しかけてくる。イサムはうんざりして席に着いた。
「さっさと食べるぞ。いただきます」
「いただきます」
父親が居間のテレビをつけながら白米をかきこむ。
アジの開きと焼きのり、それとアサリの味噌汁。朝食はだいたいこのメニューと決まっていた。
母親は、イサムが高校二年の時に亡くなった。以来、イサムは父親と二人暮らしだ。父親の昭夫は趣味らしい趣味もなく、たまにお酒を飲むだけで真面目にイサムを育ててきた。
「そういや、えらく美人だったなあ。あの女の人」
ニュース番組の女性アナウンサーを見ながら、父親がそんなことを言う。
「何言ってんだよ」
「お前もそう思ったろ?」
「親父が好きなのは、根元アナだろ」
「テレビの話じゃなくてよ」
アジの開きを箸の先で解体しながら、父親が味噌汁をすする。
「お前だってもう二十六だろ? ハタチの頃には、俺ぁもう美津子と結婚してたんだ。お前もああいう子とお付き合いして――」
「はいはい。別にそういうつもりで助けたわけじゃないから。さっさと食えよ」
「ちぇっ。俺はお前の父親としてだな……」
ぶつくさ言いながら、ものの十分ほどで食事を終える。
さらに三十分ほど休憩してから、イサムと父親はまた自分たちの船まで戻った。第五清進丸と書かれた漁船が波止場の中央に停まっている。次の出航のためにもう一度隅から隅まで清掃し、漁具の点検・補修などを行う。
一通り終わると、もう昼近くなっていた。
これから早朝の出航まで各々自由時間となる。
「じゃ、俺は昼飯はいつものところで食ってくるから」
「はいよ」
父親の言う「いつものところ」とは、漁港近くにある定食屋「あかね」だ。あそこのおかみさんとは、母親が生きていた頃からの家族ぐるみの付き合いだ。ただ、イサムは彼女から「ちゃんと食べてるの」だととか「彼女はできた?」など、いろいろと言われるのが嫌で自然と避けるようになっていた。
父親の昭夫と別れ、イサムはひとり自宅に帰る。
途中、診療所が目に入った。女はあれからどうしただろうかと思っていると、グレーの入院着で出歩いている人がいた。それは例の女だった。ふらふらと坂を上って、山の方へ行こうとしている。
「お、おい!」
勝手に抜け出してきたのだろう。看護師たちが外に出て探していないところを見ると、まだ脱走には気付かれていないらしい。女は何を考えているのか。イサムは舌打ちをして女の後を追った。
「ちょっと待て!」
女の右腕を掴んで振り返らせる。すると、漆黒の瞳がイサムの目に飛び込んできた。女は無表情だった。相変わらず何もしゃべらない。だがその目の奥からは深い知性を感じさせる何かが放たれていた。
「どこに、行くんだ。長時間漂流していたのに。こんな格好で出歩くなんて、おかしいんじゃないのか」
イサムはイライラしながらも自分の着ていたダウンジャケットを脱いで貸した。着せてやっても、女はお礼の一つも言わない。よく見ると足元は裸足だった。コンクリートの上は、冬の気温でかじかむぐらい冷たくなっている。
「お前……。すぐ診療所に戻るぞ」
抱き上げて連れて行こうとすると、女はひらりとイサムを躱した。そしてそのまま小走りで行ってしまう。
「おい、待て!」
イサムは女を追いかけた。何を考えているのか、やはりさっぱりわからない。イサムは必死でついていった。途中、井坂酒店の軒先に黒いサンダルがあるのを見つけて、失敬する。
「すいません。あとで返しにきます」
イサムは女に追いつくと、それを履かせてやった。
「おい、せめてこれを履いて行け。足を怪我するだろう」
女は素直にそれを履き、また歩き出した。
「まったく、どこへ行こうとしてるんだ」
しばらく行くと、見晴らしのいい坂の上に到着した。そこには大きな石碑が立っていた。女はそれをじっと眺める。
「それは……鯨墓だな。それがどうかしたか?」
女は答えない。鯨墓。この集落が大昔から行ってきた捕鯨の歴史の象徴だった。
「この集落では捕鯨って言って、浦に迷い込んできた流れ鯨を獲っていたんだ。これは、それを供養したものだな。一匹の鯨に七浦潤う。そういう言葉がある。鯨は肉や油や骨、いろんな恵みをもたらしてくれたんだよ。だが、今はもう――」
そんな漁をする者は誰もいない。
くじら祭りという催し物は毎年あるが、それもかつてそういう歴史があったと振り返るものでしかなくなっていた。
「これが気になるのか?」
尋ねてもやはり女は答えない。ただじっと眺めているだけだ。
「鯨が好きなら、ふもとに鯨博物館があるぞ。この津路浦半島に唯一ある観光スポットだ」
イサムは女を鯨博物館へ連れて行った。浜のすぐ目の前にあるこの建物は、屋根の上にユーモラスな鯨のモニュメントが乗っている。料金を払って中に入ると、捕鯨船の模型や、鯨の骨格標本、鯨の種類、当時の白黒写真などの展示があった。女は急に興味を示したらしく、自ら歩みを進めていく。
「はは、気に入ったようで良かったよ」
ここに入ったのは、中学の時に同じクラスのサキとデートで来た時以来だった。イサムは、女を見た。妙に胸がドキドキしている。そのことに自分自身、とても驚いていた。
「いや、まさか、そんなんじゃ……」
誰に言うともなくそうつぶやくと、ある展示棚の前で女が足を止めていた。そこには捕鯨に使われた道具が並べられていた。銛や、どてら、解体に使われた鯨かぎなどが飾られている。女はその中でも薙刀のような刃物、鯨包丁を熱心に見つめていた。
鯨包丁は、長い柄の先に長い刃物がついている効率よく鯨を解体するための包丁だ。女は、相変わらず何を考えているのかよくわからなかった。
3
午前二時。
イサムは目覚めると、父親と共に支度をして家を出た。
これから定置網漁に出るのだ。
漁業用合羽の上にダウンジャケットを着こんでいるが、陽も昇らない深夜では寒風に負けてしまいそうになる。イサムはこの上着を貸した女のことを思い出していた。漆黒の瞳が印象的な、ミステリアスな女性。恋愛対象になるかというとまったく「無い」わけではなかったが、とにかく得体のしれない不気味さも併せ持つ女だった。
あれからイサムは博物館を後にすると、女を丁重に診療所へ送り届けた。
別れ際、女に名前だけ教えて欲しいとダメ元で言ってみると、意外にも答えてくれた。
「ヨリ」
と、たった一言。その声はその場にいた医者や看護師をも驚かせた。すぐに警察に連絡がいき、身元の特定につながりそうだと周囲は喜んだ。
ヨリ。不思議な女。彼女は今は眠っているだろうか。
出港準備を始めている漁業仲間たちとすれ違いながら、イサムと父親の昭夫は第五清新丸を係留している波止場に到着した。乗り込もうとするが、なにか様子がおかしい。
「イサム、イサム!」
声を震わせた父親の呼びかけに顔を上げると、そこらじゅうに妙な人影がたたずんでいた。
「な、なんだ、こいつらは……」
それは身の丈二メートルはある、巨大で真っ黒な二足歩行の生き物だった。人ではない。なぜなら頭が鯨の顔をしていたからだ。真横を向き、大きな黒い瞳を潤ませて、こちらを見つめている。
「ば、化け物!」
父親はイサムの腕を引っぱって市場の方へと駆けだした。しかし、どこにでもその人のような鯨のような奇妙な生き物が突っ立っていた。
「うわあっ!」
「逃げろ!」
様々な場所で男たちの悲鳴が上がる。
「どうなっているんだ……」
鯨人間とでも言えばいいだろうか。その化け物は特に人間に襲いかかるわけでもなく、ただ黙って立ち尽くしていた。イサムたち、もどうしたらいいのかと迷っていると、昼間立ち寄った鯨博物館の入り口から、あの女が出てきた。
「ヨリ……」
ヨリは入院着のまま、あの鯨包丁を手にしていた。そしてそれを薙刀のようにぶんぶん振ると、演舞のように姿勢を変えて構える。一瞬の後に駆けだすと、一番身近にいた鯨人間を両断した。鯨人間は人魚姫の最期のように泡となって消える。
「なにが起こっているんだ……」
ヨリは鯨人間を次々と手にかけていった。一匹、二匹、三匹、四匹……十匹……ニ十匹……。イサムはそれ以上数を数えるのをやめた。その鮮やかな手並みだけをずっと見ていた。
やがてヨリは、イサムたち親子のところにもやってきたが、脇目もふらず目の前の鯨人間だけを始末していった。それが最後の鯨人間だった。泡となって消えたところで、ヨリはイサムを一度だけ振り返った。持っていた鯨包丁を、イサムに手渡す。
「ヨリ……」
漆黒の瞳は、市場のライトに照らされてぬらぬらと光っていた。まるであの鯨人間の目玉のように。ヨリは小さくうなづくと、突然波止場の方角へ走りだした。イサムはあわててその後を追う。
「イサム!?」
父親の呼び止める声が聞こえたが、イサムは無視した。このままだと、ヨリがどこか遠くへ行ってしまいそうだ。迷っている時間は無い。ヨリはイサムたちの漁船、第五清進丸の前まで来るとそこにひらりと飛び乗った。
なにもしなくても、係留していたロープが外れ、船が沖へと進みはじめる。
「な、なんでだ!」
イサムはあわてて岸から船に飛び乗った。船は軽やかに暗い海を滑り、星々の輝く沖へと走っていく。
「ヨリ……」
ヨリは入院着を脱いで、海へと投げ捨てていた。真っ白な裸体が闇に浮かび上がる。
「お前は、お前はいったい、何者なんだ」
無表情だったヨリの目が細められ、口が三日月の形につり上がる。船は速度をあげ、ヨリの肩までの髪をばさばさと舞い上がらせた。イサムは凍えているであろうヨリを抱きしめたいと思った。しかし、足が甲板に縫い付けられたように動かない。
やがて、船は急激に速度を落として、陸と半島に挟まれた湾の中ほどで止まった。そこは今朝イサムたちがヨリを見つけた場所だった。
「まさか……」
イサムが声をかけるより前に、ヨリが海中に身を投げた。イサムの足はその時になってようやく動くようになった。あわててヨリが飛び込んだ場所を見下ろす。
「ヨリ、ヨリ!」
何度呼びかけてもヨリは再び浮上することはなかった。
イサムの手には年代物の鯨包丁だけが残された。イサムはその柄を強く握りしめると、遠い海原めがけて高く投擲した。
完