第一話 夢で出会った女の子 その6
翌日から俺は愚策と理解しつつ、猛アタックを仕掛けることにした。
他人の命を救うために、己の心を捨てるしかない。なんて素晴らしい考え方だろう。
朝は挨拶をしに、授業の合間にはお喋りをしに、昼休みには昼食を誘いにいった。
「朝から気分が悪くなりました挨拶しても友達にはなりませんよ」
「何しに来たんですか私は話したくないですし同じ空気を吸いたくないので帰ってください」
「嫌ですあなたと食べるぐらいなら便器と一緒に食べた方がマシです」
清々しいくらいに罵詈雑言の前に袋叩きにされた。
病みそうになるが連日そんなことをしていると、実行委員長や喜田さんが「へこたれるな」と肩を叩いてくれた。持つべき者は友である。
それを文化祭前日まで繰り返す頃になると、A組の人が俺を見るなり、からかうようにインちゃんさんを呼んでくれるようになった。彼女は顔を真っ赤にして
「本当にもう来ないでください」と俺のことを教室から押し出した。
恒例になりつつあるインちゃんさんとのコントを終えて教室に戻ると、発泡スチロールに色を塗りながら夕黄と白幡が女子トークをしているようだった。
「お、噂をすれば影ですね」白幡がニヤニヤしながら俺のことを見てきた。
「何々、何話してたの」
「最近、私たちより知らない馬の骨ばかりと絡んでるみたいじゃないですか」
「そんなにあの夢の子が気になるの?」夕黄は少し不満げのようだった。
「うーん、どうだろう。普通に傷つくこと言われるし、腹立つし、嫌なことの方が多いけど」
「けど、何ですか?」
「ガキ大将でも可哀想なシーンをみたら同情しちゃうでしょ。そんな感じ」
「夢の自殺がそんなに引っかかるの?」
「うん。そうかも」自殺が確定していて、時間が巻き戻っているなんていったところで信じてくれるはずがない。それこそ夢だと馬鹿にされてしまう。
俺がインちゃんさんを構う理由は二つだ。一つは純粋に助けてあげたいという俺の勝手な正義感の押しつけ、そしてもう一つは一週間が巻き戻ることの原因究明だ。あの子が原因の鍵を担っているのは明白だからだ。
下校してもよい時刻になると、朝から文化祭準備をしていたため俺のクラスは全ての準備作業を終え、することがなくなっていた。前回と全く同じ時刻だった。
先生からも撤収するように言われ、俺はスクールバッグを肩に担いだ。作業を終えておらず、まだまだ居残るクラスもあるらしい。
「帰るでしょ?」夕黄が訊いてきたので「もちろん」と一緒に駐輪場まで向かった。
「では私はここで。また明日、お会いしましょう」と白幡とは昇降口で別れた。
校門前のアーチに、受け付けの白いテント。校舎の壁に掛けられた南田祭の大きな垂れ幕に、受験生向けの案内ポスター。何もかもが前回と同じだった。
「帰りどこか寄ってく?」
夕黄の振ってくる話題も全く一緒だ。「そうだなー」と俺も敷かれたレールに従うように全く同じ返答をする。
そんな中、見たことのある景色の中で妙なことに気がついた。それに気付けたのは、この一週間で違う行動したから他ならなかった。
A組の生徒がチラホラと下校中の生徒の中に混じっていたのだ。
不思議な光景ではないのだが、おかしな光景であることは間違いなかった。
明日自殺する日なのに俺がこんなのんびりと何もせず帰っているのは、A組の生徒は放課後も遅くまで演劇の練習に励み、俺が関与する余地がないからだ。
明日は一日中インちゃんさんのあとにくっついていようぐらいしか案が浮かばないので、今日は大人しく帰っていたのだが、何故A組の生徒が練習もせずに目の前を歩いているのだろう。前回の文化祭の日、A組に誰もいなかったのが関係あるのかもしれない。
「ちょっと持ってて」
俺は押していた自転車を夕黄に押しつけると、目の前を歩いていた喜田さんに話しかけた。
「あ、ゾッコンくんどうしたの?」
「そのあだ名やめてよ…… そんなことより、演劇の練習はどうしたの?」
そう言うと、喜田さんは「あぁ、そのこと……」と嫌な話題から逃げるように目を逸らした。話を聞かない限り、どく気のないことを察したのか、渋々と喜田さんは言った。
「A組、文化祭に参加しないことになったの」
「え、何で!?」
「昨日の夜九時頃にね、学校に爆弾を仕掛けたってネットに書き込みがあったの」
思いも寄らなかった事に変な声が出た。
「それって文化祭中止とかになるんじゃ? ニュースでそういうのたまに聞くし」
「それがすぐに犯人が判明してね。今じゃ先生がネットも巡回してるから。で、学校側も大きな問題にしたくないから内々で片付けようってなってたみたいで、A組だけ不参加って形になったの」
「何でA組が? それって犯人がA組の生徒だったってこと?」
喜田さんは答えなかった。ただその沈黙は明らかに正解であり、同時にその犯人が誰かを俺に教えようしない意図が見えていた。だから犯人が誰かなんてすぐに分かった。
学校に引き返そうとした俺を喜田さんが呼び止めた。
「待って。生徒指導室に連れて行かれたから、行っても無駄だよ」
頭は沸騰しそうになっていたが、冷静な部分もしっかり残っていた。喜田さんの言う通り、俺が行ったところでどうしようもならない。
端から話を聞いていたであろう夕黄が「かえろ」と俺の手を取った。
歩く調子で手を振れば、振りほどけそうな程の力。握られたのではなく、包まれた手。
この手を払いのけることは、約束を破った時に感じる罪悪感と同じだろうなと、俺は抵抗出来ずに帰路に就くことになった。
家に着くと、すぐにベッドにダイブした。何の気力も沸かなかった。窓の外は夕日の色を少し残し、夜の帳が下り始めている。
彼女はきっと明日も自殺する。それを知っているのに俺また何も出来ない。毎日のあの絡みも徒労に終わって、一週間が戻ろうが戻らまいが、寂れて朽ちてなかったことになるのだ。
胸を炙り続ける焦燥に、悶えて呻いて何度も寝返りを打つ。ジッとしていられないが、どうしようもない。しばらくそんなことを続けて、限界が来た。
飛び起きると、俺は再び学校へと向かった。
時刻は十九時手前。本来ならもう生徒は完全下校している時間だった。だが、文化祭前日のせいか、チラホラと電気が付いてるクラスもあった。特別に許可されているのだろう。
校舎に入ると、昼間と肌触りの違う異質な空気がそこにはあった。
暗闇に沈んだ廊下で消火栓の赤ランプが不気味に光り、微かに聞こえてくる生徒たちの声はこちらをつけ狙う幽霊たちの密談にも思えた。いやに歩く音が響く。
空中廊下に差し掛かると僅かに聞こえていたものも届かなくなり、自分の足音だけになる。明かりさえも見えなくなり、闇だけが特別棟に残っていた。
きっと誰もいないだろう。
そう思いながらも、もしかしたら、という思いでA組の小窓から中を覗いた。
……いた。
女生徒であろう小柄なシルエットが、月明かりに照らされた教室に影を落としていた。
ノックして、驚かせないようにゆっくりとドアを開ける。振り向いた影が俺を見た。
案の定、彼女だった。何でどうしてあんたがここに? という顔をしていた。
「何してんの?」と訊くと「あなたには関係ありません」とそっぽを向いて、作業に戻っていく。動きからして、文化祭のために準備したものを片付けているようだった。
罪滅ぼしの意味で一人でやっているのだろう。
「そういうあなたこそ何しに来たんですか。もう下校時間はとっくに過ぎていますけど」
「インちゃんが心配でね。我慢出来ずに来ちゃった」
言葉の意味を咀嚼しているのか、少しの間をあけて「意味が分からないです」と呟いた。
「手伝うよ」
予想通りインちゃんは断ってきたけど、俺はそれを無視して、床に転がった段ボール片を拾い始めた。
「いいって言ってるじゃないですか」
どうしても突き放そうとしてくる彼女を無視して作業を続ける。やがて観念したのか、彼女は静かになった。
段ボールや発泡スチロール、折り紙にペンキなど。ゴミを仕分けしていく。黙々と作業していく中で、俺は好機だと思い、沈黙を破った。
「あのー…… さ、どうして文化祭を中止にしようとしたの? 爆弾仕掛けたとか言って」
十中八九、どうしてあなたに教えないといけないんですか? と言われるものだと思っていた。別に理由は聞けなくていい、そうやって気にしている姿勢を見せることが重要だと思ったから。だから彼女が素直に理由を語り出して、普通の状態じゃないことを実感した。
「……迷惑を掛けてやろうって、思ったんです」
「迷惑を?」彼女が頷く。
「私、上辺だけの他人同士が、気を遣って笑い合っているのが心底気持ち悪く感じるんです」
「それは」と言いかけて口をつぐんだ。
思春期特有の考え方なのかと思ったが、そう結論づけるのは早すぎる。根本的な彼女の歪みなのだとしたら、それはもう個性というものだ。否定する権利は俺にはない。
彼女は俺の方を見て、続きを口にしないことを察すると、一言「やっぱり優しいんですね」と言い、目線を虚空へと飛ばした。
それから彼女は病人が流動食を食べるように、ゆっくりと語り始める。
「……きっと、私は生きることに向いてないんです。
別に具体的な例になるような大きなエピソードはありません。日常に散らばってる細々としたものが積み重なって、私は生きているのが向いてないなって判断しました。世界には七十億人以上の人間がいるんです。私みたいな考えや価値観を持っている人がいてもおかしくないですよ。そういう考えを持ったのが偶然自分だったってだけで。
あなたは私に、もしかして自殺しようとしてる? って言いましたよね。正直に答えると、考えています。何年も前からです。特別嫌なことがあったってわけじゃありません。絶望してるわけでも、生きている意味がないと悲観しているわけでもありません。純粋に私がそういう価値観なんです。生きることに対して絶対的な価値を見出してないので、常に死という選択が手札の中にあるに過ぎないんです。
そうやって考えてから、自殺する人の考え方が少し分かったような気がしたんです。よく言うじゃないですか。嘆いている人は自殺しない。構ってほしいだけ、なんて。本当に自殺する人はちょっと散歩に行ってくるみたいなノリでフッといなくなってしまうって。
自殺には二種類あると私は思うんです。一つは【本当に嫌なことがあって、絶望の末に自殺を選ぶパターン】と、もう一つが【価値観がそもそも生きることを重要視してない人】の二パターンじゃないかって。私は後者なんです。
それで私はずっと考えているんです。どうして生きているんだろうって。
生きがいはありません。だからと言って、死を選ぶ程の絶望もありません。
あなたは自分がどうして生きているのかって考えたことがありますか?
こんな哲学的なことを考えても仕方がないと思う人もいるでしょう。でも私はそうは思いません。私は盲目的に死を否定している人たちより、よっぽど真剣に生きることに向き合っていると自負していますから。
それで私が【どうして生きているのか】という理由ですが。結局は見つかっていません。まだ十七年しか生きていない浅知恵ですが、それを見つけ出せる人はきっと【人は自分一人では生きていけないこと】をよく理解して、他人の中に自分の居場所を見つけることが出来た人なんだと思います。
あくまでこれは私の考えに過ぎません。人によって答えは違うでしょう。でも私が考えついたこれが、私にとっての生きる理由の答えなんです。その上で、私には絶対に【他人の中に自分の居場所を見つけることが出来ない】と思ったんです。
きっとこの先、どんな人が現れても私は変わらない自信があります。そうしたら私には生きている理由がありません。じゃあ死のうと思っても、流石の私でも死ぬのは怖いです。
そこで考え方を少し変えることにしました。
どうして生きているんだろう、ではなく、どうして死んではいけないのだろうって。
すぐに思い浮かぶのは、他人に迷惑を掛けてはいけないから、家族や友達が悲しむから、命を粗末にしてはいけないから、ぐらいでしょうか。
どの答えに対しても『じゃあそうじゃなければいいのか?』という返事をすることが可能です。まぁこれは屁理屈ですが、それを追求していくのが哲学です。
だから答えは単純になりました。自殺はしてもいいんです。他人に迷惑を掛けてもいい、家族や友達が悲しんでもいい、命を粗末にしてもいいと考えられるなら自殺はしてもいいんです。
それで思ったんです。だったら、私は最大限に多くの人に迷惑を掛けて死んでやろうって。
話は長くなりましたが、要するに私は私が出来る範囲で最大限に人に迷惑を掛けてから死んでやろうと思ったんです。その内の一つが、今回の爆弾予告なんです」
重く、密度のある内容だった。何て返事をすればいいのか分からなかった。ただ生きるだけのことに、そこまで考える必要があるのかと。俺はそこまで深く考えたことがなかった。
彼女を説得して自殺を止めるのは、不可能なことに思えた。それこそ、彼女を根本から変えなければいけない。彼女の語りには自分の価値観、考え方に確固たる芯があるようにも感じた。
「俺は君みたいに頭が良くないから、生きるとか死ぬとか、そんな深く考えたことなかったよ」
今まで深く考えてこなかった俺が即席で思いついた反論を述べても、彼女が語った言葉の重みとは間違いなく釣り合いは取れない。俺の価値観を押しつけるのはおこがましい行為だ。
床を見つめるのをやめて、窓に目を向けると、雲に隠れた月が丁度顔を出した所だった。
相応の言葉は見つからない。少なくとも俺の中に釣り合う価値のものはない。
だから俺が差し出せるのは、まだ値打ちのない願望ぐらいしかなかった。
「……ただ単純に俺は、君に死んで欲しくないって、思ってるよ」
彼女の目が丸く、大きく見開かれた。
「……それは、予想外、でした」
彼女の台詞を待つと、やがて自分の中で結論が出たのか、一つ頷いた。
「死んでほしくないと言われるのは、存外良いものですね……」
死生観を語っていた時とは全く違う。朗らかな顔をしていた。
片付けを一通り終えた頃、A組の担任教師がやってきて、追い出されるように俺らは学校を後にした。途中まで帰り道が同じようだったので、歩幅を合わせ並んで帰ることにする。
カラカラと自転車の車輪が鳴り、夜のどこかから虫の囁きが聞こえてくる。
「その、今日はありがとうございました」
彼女が突然お礼を言い出した。言わんとすることは何となく分かるが、自意識高いと思われたくなくて「え? 何が?」と分からないふりをした。
「教室でのことです。片付けを手伝ってくれたのもそうですが、他人に死んでほしくないと言われるのは自分の見識が広がったようにも思えます」
「うん、それは良かった。じゃあ貸し一な」
おどけて言うと「そうですね」と彼女は少し笑った。そんな表情を見るのは初めてだった。それだけでも貸しを精算した上にお釣りが出るほどの価値があるのだが、彼女はそんな俺の心情など知る余地もなく「それでどんなお返しがほしいですか?」と俺を見た。澄んだ目だった。
「そうだなぁ…… あ、じゃあ名前教え合おうよ」
彼女はフッと吹き出した。
「確かに、まだお互いの名前知りませんでしたね」
「俺は翠伸葉」
「私は蒼色音子です」
改めて名乗り合ったのが何だかおかしくて、どちらからともなく破顔した。
しんとした闇の中で薄ぼんやりと街灯が笑い声を照らし出す。世界にはまるで二人しかいないみたいで、この穏やかな時間がいつまでも続くような気がした。
そして翌日、蒼色音子は自殺した。