第一話 夢で出会った女の子 その3
いつからスタンバっていたのだろう。全校生徒が体育館に集まり、開会式を待っていると、実行委員長とおぼしき人が突然講演台の裏から飛び出した。
「やぁ、遂にこの日が来ましたね」と得意げに喉を鳴らす。
「お祭りは準備するまでが楽しいと言いますが、本番のお祭りも楽しいからお祭りと言うのですよ」よく見ればいつぞやの陽気な男子生徒だった。
男子生徒は抑揚のある口調で、実は今度の生徒会選挙に出馬するから顔を覚えて欲しいがために実行委員長になったという自虐ネタを披露し、普段の厳正な空気にさせる全校集会を払拭するようなテンションと明るさで文化祭の開催を宣言した。
「皆さんは今日のために準備をしてきたのです。それでは目一杯楽しみましょう!」
陽気な男子生徒、元い実行委員長が手を振り上げると、多くの生徒が歓声を上げた。
「さて、じゃあどこからまわる?」
体育館からの帰り道、夕黄が事もなげにパンフレットを広げて訊いてきた。
ウチのクラスの上映は合計四回あるが、上映の手伝いをするのは夏休みの撮影に参加しなかった人達だ。俺と夕黄と白幡は撮影に参加したチームのため文化祭当日はフリーで動ける。
「他の女子と行かないの?」
「それがアカリもムツミもどっちも彼氏とまわるらしくてさー」なるほど。
だったら、と俺は前を歩いていた白幡を小突いて振り向かせた。
「お前も一緒にまわろうぜ。どうせ一人なんだろ?」
夕黄も「キョーコちゃんもいこいこ」と乗り気の反応だ。
「いやはや、お二人のお誘いは全て二つ返事で承諾したいのですが、野暮用がありまして」
「野暮用?」
「野暮用が何かなんて聞くのは野暮ですよ? すみませんが夕黄さん、私の分まで伸葉さんのお世話をお願いします」
「お前の世話になった覚えは一度もない」
「何を言いますか。覚えてないだけで貸しは山のようにありますよ」
「はいはい、イツモアリガトー」俺は流すと、白幡を追い越した。
クラスに戻り、改めて担任から諸注意を受けると本格的に文化祭は始まった。
「どこか行きたい場所決めた?」
「んいや、まぁ適当にブラついて目についた所入ればいいんじゃない?」
「おっけい」と夕黄は俺の隣にピタリとついた。
廊下を歩くと、普段よりも賑やかな声が所狭しと聞こえてくる。ゾンビや魔法少女、戦隊ヒーローや人間サイズの光の巨人が廊下を闊歩する。
「あっちのお化け屋敷楽しそうじゃない? あ、あそこのクラスのタピオカ飲んでみたいかも。あ、でもあのクラスの行列も気になるかも。ね、待って、見てあの看板。変なの書いてあるよ」
夕黄は楽しそうに目移りしていた。ナンパ通りの客引きに負けず劣らずのビラをひらりひらりと躱していると、急に静かになる場所があった。
そこは元A組の教室前だった。ドアは閉め切られ、小窓から見える教室の中はそこだけ時間が切り取られたように、寒々とした空虚だけが残っていた。
「あーA組は今空中廊下の向こうの特別棟か」
女生徒のことがあっただけにA組の動向が気になって、パンフレットを開いた。今のA組の教室を見ると、そこには【演劇:赤雪姫】と書かれていた。
試しに現A組の教室へと向かうことにした。空中廊下まで行くと人の気配はまばらになり、特別棟まで来ると人の気配は全くなかった。特別棟では基本催し物は行われてはいない。だが、A組がある分少しは人気があってもいいものではないか?
不審に思い夕黄を見ると彼女も同じことを思っているようだった。そして現A組の教室まで来ると、そこにあったのは元A組と同じ無人の教室だった。小窓から中を覗くと、使う予定であっただろう小道具達が隅にかたまって、息を潜めているようだった。
「どゆこと?」両手を広げて首を傾げて見せると「さすがにサッパリ」と夕黄は両手を広げてお手上げのポーズを取った。
A組の生徒は文化祭に参加していない? そんなことがあるのか?
携帯で時間を確認すると、時刻は十一時半を過ぎた頃だった。
「まぁ考えてもしょうがないし、どっか行こうよ」そう夕黄が言った直後だった。
渡り廊下の向こうの本館に、あのA組女子が歩いているのが目に入った。死神に手招きされたような足取り。夢で見たあの光景が胸を締め付けた。
引っ張られるように足を踏み出した瞬間、袖が掴まれた。
「どうしたの?」
「あ、え、あ、今、今向こうにさ、A組のあの人が歩いててさ。少し嫌な予感がして」
「まだ気にしてたの? 自殺したって夢のことなんでしょ? 私が気にするならまだしも、伸葉くんいくら何でも気にしすぎだよ」
……それは分かっている。でもあの時感じた陽の熱も、屋上の風の冷たさも、後味の悪さも、全てが「たかが夢」の一言で片付けられない傷になっているのだ。
力任せに振りほどくことはせず、俺は向き合ってから夕黄の指にゆっくり手を乗せた。
「確かに気にしすぎかもしれない。でもごめん、ほっとけないんだ」
拒絶にならないように慎重に夕黄の指を解いていく。完全に手を離すと、俺は「ごめん」ともう一度謝って、夕黄に背を向けた。
空中廊下を走り抜けて、本館の人混みの中に分け入っていく。姿はもう見えない。でも場所は分かっている。必死な顔をして前に進もうとする俺に、雑踏を作る生徒たちが困惑の表情を向けてくる。思うように進めないもどかしさに焦燥感がどんどん募っていく。
人混みを抜け、ぶつかりかけた壁に手をつく。階段を駆け上がる。
四階まで上がるともう人気はなかった。無人になった階段を更に上っていく。鋼鉄のドアを押し開けると、来るな、と日差しの閃光が目を刺した。風で重くなったドアをこじ開けて、外へ飛び出す。ドアが大きな音を立て閉まると、柵の向こうの彼女がこちらに振り向いた。
既視感の強い光景。気にしすぎだったら良かったのにと思っていたこの光景。
彼女はやはり自殺しようとしていた。
女生徒はこちらの顔を認識すると大きく目を見開いた。
「待って!」
「来ないでください」一歩前へ出ると女生徒が半歩遠ざかった。
呼吸することさえ躊躇われた。ひりつく空気が指を動かすことさえ許さない。
「どうして来たの?」女生徒が声を震わせる。
これから先は言葉を慎重に選ばなければいけない。じゃないと、取り返しのつかないことになる。もしもに備えて右手で左手の人差し指を握った。
「……嫌な予感がしたんだ」
「嫌な予感?」と女生徒がその意味の深淵を覗き込む。
「初めて会った時、夢で会ったって言ったろ? その夢ってのが君が自殺する夢だったんだよ」
「たったそれだけで、ですか?」頷いて肯定する。
「私たち、あの空中廊下で会うより以前に喋ったことありましたか?」
「……ない。と、思う」
「そうですよね。私もあなたに呼び止められるまであなたの顔さえ知りませんでした。じゃあ改めて訊きます。どうしてあなたは今ここに来たんですか?」
「君の…… 自殺を止めるために」
「何で自殺を止めるんですか?」
「何でって、そりゃ止めるだろ!」
「ですから、どうしてですか? 自殺は駄目なことなのですか?」
「駄目に決まってる!」
「ナンパさん、私はあなたの感情論を聞きたいんじゃないんです。自殺をしてはいけない理屈を聞きたいんです」
言葉に詰まった。恐らく彼女自身も自殺が駄目なことは理解している。だけどそれは漠然的に駄目だと、叩き込まれて知っているだけなのだ。俺もそうであるように。
だから彼女は自殺することと本気で向き合った時、真に駄目な理由がないことに戸惑い、死の魅力に引きつけられているのかもしれない。
中学生の時、社会の先生が似たようなことを言っていた。
『どうして殺人は駄目なのでしょうか?』
その質問に背の高い眼鏡が真っ直ぐ手を上げた。
『法律違反だからです』
『では法律違反ではなければ殺人はしてもいい、ということですか?』
先生の返答に眼鏡はばつの悪そうな顔をした。端的に言えば、法律がなければ殺人はしてもいい。だけど、法律がなくてもそれは駄目だと直感的に分かるからだ。
『溝内くんの言うことは間違ってはいません。ですがそれは百点の答えではありません』
先生はクラスを見渡し、興味なさげに窓の外を眺めていた生徒を指名した。名前は覚えていない。いつも一人でいて、害はないが、眼中にもない奴だった。
『どうして殺人は駄目なのでしょうか?』
『すみません。先生にとっての百点の答えがどういうものか見当がつきません』
その答えに当時の俺はハッとした。どうして人を殺してはいけないのか、それは――
――遺族が悲しむから、暴力はいけないから、法律だから、後悔するから、人ではなくなるから、道徳的にいけないから――
どの答えも正解ではあるが、人によって、百点の答えが違うのだ。
だから今、俺が答えるべきは彼女が望む百点の自殺してはいけない理由。彼女が欲しい言葉。それが即ち、彼女を自殺から救う唯一の方法。
どうして彼女は自殺に至った? 普段の彼女の言動を思い返すが、それに思い当たる節はどこにもない。答えを導き出すにはあまりにも俺と彼女は他人過ぎた。
苦し紛れに会話の流れをぶった切り「君に生きててほしい」と自分の願望をぶつけてみる。
当然彼女は首を横に振った。答えが知りたくて、逆に俺は質問した。
「どうして、そんなに死にたいの?」
逡巡の間。そして女生徒が口を開いた。
「それは――」が、既に時間切れのようだった。
夢と同じ。突風が吹き、女生徒の胸を押した。体がゆっくりと倒れ、視界から消えていく。
「くっそ……!」
握っていた人差し指を本来曲がらない方向へと無理矢理倒す。間接が悲鳴を上げ、脳に骨折の痛みがフラッシュバックする。散々味わったあの痛み。たった10秒遡っても世界は変えられない。骨折の痛みと引き換えにしてでも手に入れる貴重な10秒なんて存在しないと思い知り、中学生以来やめていたこの力。
でも、命一つ救えるなら俺の骨折の痛みなんて安い物。骨折する前に戻るのだから、痛みが長引くわけでもない。躊躇する時間はない。
俺は目を瞑り、覚悟を一気に決めると、人差し指をへし折った。
全身に貫くような激痛が走る。頭の中を滅茶苦茶に掻き回され、目の前がチカチカする。痛みの前に全ての思考が遮断され、我慢しきれない声が漏れ出た。
刹那、痛みが嘘のように消え去り、10秒前との僅かな姿勢のギャップに体が驚く。目の前にはまだ風に押される前の女生徒が立っていた。時間が戻ったのだ。
俺から女生徒までの距離は目算で約10メートル。10秒もあれば十分な距離。
もうくだらない哲学の問答はどうでもいい。風が吹くよりも前に、彼女をこちらへ引きずり込む必要がある。その救出方法が例え彼女が望まない方法だとしても、もう気を遣っている余裕はない。
床を蹴った。大股で足を出し、一刻でも早くと気が逸り、手を伸ばす。
それに驚いた彼女は何もない後方へと後ずさる。シュッ、と靴裏が滑る音を鳴らし、再び彼女は姿を消した。
下唇を噛むと、再び左手の人差し指をへし折った。バキッと空気ではなく、骨を伝う骨折の音。一瞬に燃え盛る神経。
気付けば三度、女生徒は俺の目の前に立っていた。
駆け出したくなる衝動を堪え、俺はにじり寄ることにする。おびえさせないように、心の距離を縮めるようにゆっくりと一歩ずつ近づいていく。
「こ、来ないでください!」取り乱し始める女生徒。しかし、時間は10秒しかない。
彼女の気持ちを推し量るにも、彼女との距離を縮めるにもあまりに10秒は短すぎる。
そして俺が辿り着くより前に、彼女はまた俺の前から姿を消した。
時間切れなのか、彼女が自分から落ちたのかは分からない。体に当たる風を感じる余裕さえ、俺には残っていなかった。
もう一度、と思い左手の人差し指を握ったが、それ以上右手は動かなかった。
10秒戻した所で、きっと俺はまた似たようなことをするだけ。彼女の落ち方が変わるだけ。考える時間も、取れる手段もほとんどない。詰んでいる。
それに何よりあの強烈な痛みをもう一度味わうと思うと、怖くしょうがなかった。痛みに慣れるはずがない。短いスパンで二回やっただけでもう震えが止まらない。
熟れたリンゴの潰れる音が耳に届いた。立っていることも出来ず、膝から崩れ落ちる。
自殺すると分かっていたはずだ。それも一週間も前から。もっと何か出来たはずだ。時間を戻す力も持っているのに何もしてやることが出来なかった。後悔の念が、ただただ膨れ上がり、風に乗って聞こえてくる悲鳴に自分の無力さを思い知らされる。
目の前のアスファルトがぽつり、ぽつりと濡れ始める。体が小刻みに、震えていた。