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エピローグ

 エピローグ


 石でも踏んづけたのか、車内の振動で僕は目を覚ました。

 最初に目に入った車窓の外は、夏より淡く冬より鮮やかな春の色だった。

長い、長い夢を見ていたようだった。

 夢特有の曖昧さに何も思い出せないのに心を掠める切なさだけが尾を引いている。 

「あ、起きた。おはよ」

 隣に座っていた蒼色が僕の方をチラリと見て、視線をすぐに窓の外へと戻した。

「どれぐらい寝てた?」

「うーん、三十分ぐらい?」

 もっと長い間眠っていた気もするが、夢というのはそういうものか。

 僕は居住まいを正すと運転手に声を掛けた。

「すみません先生、道案内もせず寝てしまって」

「気にしてないわ。骨折の一件から引っ越しでバタバタしてて疲れてるだろうし」

 鳩月先生がバックミラー越しに僕に言う。

 助手席に座った白幡がこちらに身を乗り出して「そうですよ。バナナの皮を踏んで骨折した人は大人しく寝ていてください」とニヤニヤといつもの顔を浮かべた。

 ぐぬぬ…… 事実だから反論出来ない……

 苦虫を噛み潰していると、隣からプッと吹き出した声が聞こえて「ごめん。何回聞いても馬鹿だなって」と蒼色が笑いを堪えていた。

「え、伸葉くん、その腕の骨折ってババナの皮で転んだのが原因なの!?」

 初耳だったのか、鳩月先生がミラー越しに僕の腕を見た。

 利き腕に巻かれた大層なギプスと包帯。首から吊り下げられたそれにはマジックで〈バーカ〉〈マヌケ〉〈トリプルアクセル〉〈ギャグ漫画でも見ない〉〈滑らない話〉〈蒼色さんに手を出すな〉など、喜田や一宮や生徒会長が書いた沢山の温かいメッセージが寄せ書きされている。

「それってまだ痛いの?」

 蒼色の質問に「もう大丈夫だよ」と答えると、虫でもいたかのように躊躇いなく叩かれた。

「痛ッ! いや、叩かれたら普通に痛いよ!?」

「痛いんじゃん」

「嘘ついたこっちが悪いみたいな言い方やめてくれない!?」

 前から二人の笑い声が聞こえてくる。それに釣られて、蒼色が表情を崩し、僕も釣られた。

 雲は一つもなく、快晴だった。

 それから車に揺られて三十分。車は一軒の民家の前で停車した。

 表札の〈翠〉を確認してインターホンを鳴らす。

「こんにちはー、緑織伸葉です」名乗ると玄関から初老の夫婦が現れた。

「あらあら、いらっしゃい」とミサキさんが、「遅かったな」とテツヤさんが腕を組む。

「今日から四年ほどお世話になります。よろしくお願いします」

 お辞儀をすると「良い子そうで良かった」とミサキさんが、「何かしでかしたらすぐに大学に報告するからな」とテツヤさんが鼻息を鳴らした。

 家の中に通される。

 下宿先を決める際にネットで写真は見ていたが、いざ実際に見てみると、決めてとなった既視感をより強く感じた。

 見覚えなどないはずなのに、窓から見える庭、ソファとテレビの配置、洗面所の暗さが僕の中を掻きむしる。

「今日からここが伸葉の部屋だ。掃除はしたが元々物置だった部屋だ。多少汚いのは勘弁してくれ」

 テツヤさんに案内された部屋に入ると、続く三人が僕を追い越し部屋の奥へと進み、歓声を上げた。広いだの、天井が高いですだの、私が初めて一人暮らしした時はうんぬんと、思い思いに感想を述べる。

 車の後部座席に積まれた段ボール二箱分の荷物を部屋へと運んでもらい、引っ越し作業はあっという間に終わった。

「さて、早く帰って仕事に戻らなきゃ」

 そう言う鳩月先生に続き、白幡も車へと乗り込んだ。

「蒼色さんは本当に乗っていかなくていいの?」

「はい。折角こっちに来たんで私も下宿先の人に挨拶だけでもしていこうかと。帰りは電車で大丈夫です」

 僕と同じ大学に進んだ蒼色も後日、こっちに越してくる予定になっている。

「しばらくお二人に会えないと思うと、流石のキョーコちゃんも少しアンニュイです……」

「大丈夫だろ。今のご時世ネットがあるし」

「そうですね! その通りです! 杞憂でした!」

「そこまで見事に手のひら返されるともう少しアンニュイになっててほしかったなって……」

 ナハァと白幡はいつもの笑い声を上げた。

 車のエンジンが掛かる。白幡がまた思いついたようにパッと表情を変えた。

「伸葉さん、もし彼女が出来たら真っ先に私に紹介してくださいね。私が合否を判定するんで」

「お前は僕の何なんだよ……」

 癖のある笑い声。しばらくは頭から離れそうになさそうだ。

 それでは、じゃあまた、バイバイ、元気でね。

 各々の挨拶に片手を上げる。走り出した車が見えなくなるまで、僕と蒼色は見続けた。

「では、買い物に行きますかー」

 踵を返した蒼色の隣で、僕も歩幅を合わせて歩き出す。

 荷物は可能な限り少なくしたため、歯ブラシなどの細かいものはこっちで買い揃えると事前に蒼色と相談していたのだ。

「ついでに私も自分の分買うから」

「あいよ、了解」

 ミサキさんから貰った手書きの地図を頼りに住宅街を歩いていく。

 風に揺られて家々の庭先から葉擦れの音がくすぐってくる。

 足元をピンクの花弁たちが駆けていく。

 前方から四人家族が歩いてきた。父と母と姉妹の二人。

 仲睦まじそうに、表情をコロコロと変えながら話し込んでいる。

 何事もなくすれ違い、僕らは互いに自分の道を進んでいく。

 僕にとって、彼らにとって、人生で数え切れないぐらいのすれ違う一回に過ぎない。

 ただ一つ、僕は横目で妹とおぼしき人に目を引かれた。

 後ろ髪を引かれて立ち止まり、去っていくその背中に目を奪われる。

 僅かに見えた横顔が、僕の心を締め付ける。

「どうしたの? 知り合い?」

 蒼色が僕の目線を追って女性の姿を見た。

 止まっていた息を吸い込んで、振り返る。

「――ううん、知らない人」

 僕らは背中合わせに、それぞれの道を歩いていく。









 それを見つけたのは偶然だった。

 偶然と書いて何て読むかは分からない。

【ひつぜん】かもしれないし【うんめい】かもしれない。はたまた【やくそく】の可能性も捨てきれない。

 道の真ん中に、赤い糸が落ちていた。

 いつもなら通り過ぎる。のに。はずなのに。

 その時の僕は気まぐれに、その赤い糸を拾った。

 変哲もないただの赤い糸。元々輪っかだったのか、一端が切れて一本の糸になっていた。

 後ろで足音が聞こえた。

 振り向くと、角から先ほどの妹らしき女性が現れた。

 落ち着きがないように黒髪を触り、何かを探すように地面を見渡している。

「あの、探し物ですか?」

「え、あ、はい。赤い髪留めなんですけど……」

「それってこれですか?」

 見せると不安げだった女性の顔がパッと明るくなった。

「すみません、ありがとうございます!」

 近づいてきた女性に、僕は赤い糸を差し出す。

「昔、人から貰った大切なものなんです」

 慈しむように女性は言った。

「今度は、無くさないでくださいね」

「――はい」

 僕の指から女性は赤い糸を手に取った。

 それが僕らの馴れ初めだった。

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