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第五話 十光年より遠い君へ その2

 白幡が校門で待っていてほしいと言うので蒼色と待っていると、颯爽とスクーターで現れた。

「お待たせしました。では後ろに乗ってください」

「え、原付!?」驚く僕に白幡はピースをしてくる。

「こんなこともあろうかと随分前から免許は取ってあったんですよ」

「二人乗りっていいんですか?」

 蒼色の疑問に白幡は即答で「駄目に決まってるじゃないですか」と自分の発言に矛盾があることを理解していないのか当然に言い切った。

「悪い子代表である私と伸葉さんが行くので、良い子の蒼色さんは真似しちゃ駄目ですよ?」

 蒼色は態とらしく溜息を吐くと「ほら、ならさっさと行ってください」と僕の背中を押した。

「早く行かないと通報しますよ?」

 白幡の後ろに座り「持ってきましたよ」と自転車通学で使用する僕のヘルメットを渡される。

「なぁ、蒼色」

「はい?」

 神妙な僕の声色で察してくれたのか、白幡が前を向き、黙った。

「その…… 蒼色と友達になれて良かったよ」

 照れるでもなく、蒼色はやれやれと言いたげに肩を落とした。

「そんな最後みたいなセリフは嫌ですね。そこは格好付けて〝またな”ぐらいは言ってくださいよ」

 別に上手いことを言われたわけでもないのに、一本取られた気分になった。

 なので僕は例にならって言わせてもらう。

「またな」

「じゃあな、バーカ」

 悪戯に蒼色が笑うと、タイミングを見計らったように白幡は「では行きます」と白幡はアクセルを捻った。

 僕は頬の下に笑みを含ませると、小さくなる蒼色に手を振って、別れを告げた。

 

 薄らと雪化粧を纏った町並み。滅多に見ない姿に関心を寄せる。僕の家を通り過ぎると、見慣れない景色が一気に増え、土地勘があっという間になくなった。

「どれぐらい掛かりそう?」

「雪道ですからね。普段より慎重に行くので、一時間ぐらいは覚悟してください」

 道中、僕らの言葉数は少なかった。

 その中で幾つか今後の展開について、予測されることを白幡は語った。

 別棟にある休眠室には五階の連絡通路から行くのが最短ルートであること。その途中でカード式ロックが二カ所あること。自分が付き添っていけば難なくいけるはずだが、最悪の場合は白幡のカードを持って一人で行ってほしいこと。

 建物の姿が数を減らし、全くなくなるといよいよ山道に入ったことを実感した。落石防止ネットを横目に永遠と続きそうな真っ直ぐな道を進んでいく。

 白い闇の中を突き進み、途中の舗装されていない道に曲がると人気どころか人工物さえもなくなった。人目を避けた場所に作られたのだろう。

 雪が地面に着かないほど深い木々のトンネルを抜けると、視界が一気に開けた。

 雪が降っていることさえ分からない白い建物。

 清廉潔白を謳うにしても怪しさの陰が前面に出過ぎている。

「いいですか、この先、もし相手が不審な動きをしたらそれは100%黒です。こちらに悟られないように動いてるだけに過ぎないので、何かを察知したら躊躇わず私からカードを奪って走ってくださいね」

 検問所で一時停止すると、中から二人の警備員が出てきた。

 二人が何かを言い出す前に、白幡が身分証明のカードを提示する。

「あー、白幡さんでしたか、お疲れ様です。こんな雪の中をよくスクーターで。そちらの方は?」

 穏やか口調を装いながら鋭い視線が僕を刺した。

「後ろの人は支部の研究仲間です」

「なるほど、分かりました。ではゲストパスを」

「いえ、それが元々車で送迎してもらう予定だったのですが雪で足止めをされたみたいで、私が迎えに行ったんですよ。ゲストパスは車の中で渡す予定だったので今は持ち合わせていないです」

「そういった連絡は来ていませんが……」

「あれ、すみません。連絡したはずなんですが…… もしかして一時間ほど前に交代の時間だったのでは?」

 白幡は仮面の笑顔を作る。警備員の間で目配せがあった。

「……すみません。こちらの不手際があったようで。どうぞ、お通りください」

 遮断機が上がると、蒼色に会わせて僕もお辞儀をし、敷地内へと入った。

「よくもまぁスラスラとあれだけ嘘がつけたね」

 僕は緊張が抜けて、息抜きに軽口を言ったが、白幡の顔は強ばったままだった。

「急ぎましょう。検問所のやりとりが伝わる可能性もあります」

 駐車場を素通りして入り口前で停めると、僕らは足早に中に入った。

 薄く効いた暖房に耳がじんわりと熱を拾う。感覚を失っていた指先が冷たいことを自覚する。

 自動ドアを抜けて真っ先に僕らを捉えたのは改札前で陣取る警備員の一人だった。

 改札の向こうに、エレベーターが一基、そのすぐ横に階段が上へと続いている。

 視線を少し上げれば、逆立ちして目だけ出したような半球の監視カメラが、遠慮なく僕らを見ている気がした。

 気丈に振る舞い、警備員の元に向かう。言葉を交わす圏内に入る直前、警備員が肩の無線に何かを言った。了解、と口を動かした気がした。

 白幡がカードを出して改札を通ろうとすると、警備員が横に動いて立ちはだかった。

「すみません。白幡様。ここで止まってください」

「何でしょうか?」

「鳩月様からここで待つようにと、指示がありました」

「いえ、それには及びません。丁度今その鳩月の元に向かう所なので、通してください」

「待つようにと」一段階強い口調で警備員は言った。

「ですから、上司である鳩月の元へは私たちが自ら行くと」

「いいえ、ここで待つようにと」

 白幡が無理矢理通ろうとすると警備員は体をどけ、これまでの言動とは裏腹にすんなりと通した。困惑の表情をした白幡に、警備員が言う。

「正確には、緑織伸葉はここで待たせるように、と」

 唖然と思考を巡らす一瞬の間、僕は駆け出して改札を飛び越えた。ブザーが鳴る。

「待て!」叫び、手を伸ばしてきた警備員が僕のコートを掴んだ。

 すぐにボタンを引きちぎり、脱出する。伸びてきた二本目の腕が再び僕に迫る。

 刹那、白幡が間に割り入り、警備員の進行を阻止した。

「伸葉さん、行ってください!」

 投げられたカードを手に取ると、僕は床を蹴った。

「止まれぇ!」

 白幡と警備員の力の差は歴然。しかし体全部を使い、足にしがみつかれた警備員は転倒し、白幡を引き剥がすことを余儀なくされる。

 エレベーターのスイッチを押すと、一切の反応がなかった。ここまでするのかよ。

 振り返ると、改札のブザーに引き寄せられ、他の人がこちらに向かってきているのが見えた。

 すぐさま進路を変更し、階段を駆け上がる。

 下から制止を求める怒号が飛んできた。貸す耳など持たず、走る。

 前からやってきた警備員に捕まり、下を噛み、脇をすり抜け、全速力で駆ける。

 11年前、ここから逃げ出した時のことを思い出す。

 リノリウムの床に数多の足音が重なる。白い壁に黒い影が疾走する。

 あの時と同じだ。何度も捕まり、時間を戻し、進んでいく。三歩進んで二歩下がる。

 すんなりと辿り着けるなら十分と掛からずに、夕黄の元へと辿り着けるだろう。

 しかし、実際はそうは行かない。

 時間を戻す度、反動で体調を悪くさせ、捕まる頻度が増していく。

 首筋が悲鳴を上げ、唾液が止まらなくなり、吐き気が襲ってくる。平衡感覚が突如として途切れ、足をもつれさせる。壁に手をつき、前進する。跪き、床を張ってでも前へと進む。

 外からではなく、内から来る寒気に体が痙攣を始める。

 戻して、戻して、戻して、進む。

 警備員に捕まったことを自覚出来なかった時もあった。その時は舌を噛み、指を折って連続で時間を戻した。

 戻して戻して戻して進む。

 どうして僕はこんなことをしているんだろう。辛い目に遭ってまでして。

 視界が明滅し、呼吸の仕方までも忘れかける。

 ――馬鹿が。我を忘れるな。

 時間が戻らない範囲で自分を殴り、意識を取り戻す。

 思い出したのは酷い目に遭わされた日々だけじゃない。夕黄と育んだあの愛おしい日々もだ。

 口に出し、彼女の名前を声に出し、一つ一つ失われていく正常な感覚を彼女のことで埋めて補っていく。

 再会に喜んでくれたことも、出られないと知って怒ったことも、心配して哀しんでくれたことも、記憶を消す時に泣いてくれたことも。彼女の様々な表情を思い出す。

 僕なんかのために色んな感情を見せてくれたことに愛しさを抱いて。

 連絡通路を渡り、二個目のロックを解除する。別棟に入った。

 走り、階段を上がって、壁の案内板に従い、休眠室を目指した。その頃になると、警備員は僕を見失ったようで、(つんざ)くほど無音の廊下に僕の足音だけが反響した。

 突発的に襲ってくる吐き気と寒気に、胃液を吐き出す。痙攣。壁に手をつき、目指す。

 気持ちばかりが前に進み、体がついて来ない。足を引きずってでもとにかく進む。

 途端、体重を掛けていた左手が宙を掻いた。無様に転ぶ。そのまま立ち上がれなくなる。それでも立ち上がったのは最早、執念だった。

 室内なのに外以上の寒さ。部屋の名前を確認する。

【休眠室】

 僕は歩を進めた。

 並んだガラスケースには人が入っており、それを見る度背筋がゾワリとする。

 どこに夕黄がいるか、探すまでもなかった。

 部屋の最奥、絞首台に似た小さな階段の上に備えられたガラスケース。

 感覚で、そこに夕黄がいることは分かった。

 スリ歩く足を持ち上げ、一段一段踏み確かめるように上っていく。夕黄の顔が見えた。

 ああああああああああ! ――ドッ。

 衝撃。宙に浮く感覚。目まぐるしく視界が傾き、そのまま急接近した目が床にぶつかった。

 数秒、時間が戻った。

 ハッとした僕はすぐさま振り向いた。

「ああああああああああ!」

 目の前に迫ってきていたのは鳩月先生だった。

 伸ばしてきた手を掴み抵抗するが、衰弱しきった体では太刀打ち出来ず、僕はそのまま床に押し倒された。幸いにも今度は顎下げ、頭を打つのを回避した。

「させない! そんなことさせない!」

「こんのっ!」歯を食いしばり、力を出すが全く力が入らない。

「彼女は、彼女たちは貴重なサンプルなの! 愛だのなんだのってそんな非科学的なくだらないもので無くしてたまるもんですか!」

「うるさぃ。もうアンタらの都合に振り回されるのは勘弁なんだ!」

 押さえつけようとしてくる力を右に流し、左に流し、床を回る。

 眼前の鳩月先生が怒りで唾を散らす。

「分かっているの!? 鎖運回虫は世界の構造を大きく変える可能性を秘めているのよ。貴方自身も貴重な存在なの、それを分かっているの!?」

「どうでもいいね、そんなの。俺は誰かのために生きてるんじゃない。俺自身のために生きているんだ。だから!」

 足を使って、持てる全身全霊の力で鳩月先生を蹴り上げる。

 打ち上がった鳩月先生が台から下に落ち、呻き声を上げた。

 ケースに手を付き、体を持ち上げる。

「やめなさい」鳩月先生が尚も言う。

「鎖運回虫を自由に扱えるようになれば、時間を自由に操れる。私たちが技術の確立に成功すれば、貴方は私たちと一緒に世界のトップに立てるのよ!」

 装置に付いた開閉ボタンの開を押す。

 空気が駆け抜ける音が鳴り、ケースが持ち上がる。

「先生、もしかしてそれって魔王が勇者に世界の半分をやるから一緒に手を組もうってやつ?」くだらない「残念だけど、僕は勇者じゃなくて王子様なんだよね」

 馬鹿みたいにクサい台詞を吐いて、身を乗り出す。

 後ろから聞こえる鳩月先生の悲鳴を無視して、僕は夕黄の唇に顔を寄せた。

 それはさながら、眠れる姫に願いと祈りを込めるように――


『バイバイ』『ずっとずっと前から、伸葉くんのことが好きでした。きっとこれから先も――』

『翠くんは、今幸せ?』『おはよ。今日も元気だね』『一目惚れに時間は関係ないよ』『じゃあ好きな人とかっている?』『予定? あるよ。伸葉くんとの校内デート』『似たような境遇の人との方が気楽だから』『あとで一緒に学校を回ってみない?』『聞いたよ。記憶喪失になったとか、私と同じだね』『初めまして! 白濱ユリカです。よろしくお願いします』『あ、もしもし伸葉くん。もー急にどこ行ったのさー』『ずいぶん気合い入ってるね』『伸葉くん食べないの?』『私たちも仲良くなってもいいんじゃないって言ってるの』『あのさー、別に一人で仲良くなろうとしなくてもいいんじゃない?』『また考え事?』『確かに思ってたより怖かったね。撮影現場は廃墟じゃなくてクラスの人の家だったのに』『随分集まったね』『キョーコちゃん凄い、深い』『悲しむ人がいるからです!』『帰りどこか寄ってく?』『夢の自殺がそんなに引っかかるの?』『そんなにあの夢の子が気になるの?』『ねーなんでこんな色してるんだろうね』『ま、伸葉くんが誰を好きになるかなんて私には関係ないけどね』『そうかー、ああいう子がタイプなのか』『もしかして丁度登校してきたあの子?』『今日いつもより早くない?』『まだ気にしてたの? 自殺したって夢のことなんでしょ――』『どこか行きたい場所決めた?』『伸葉くんがナンパするようになった』『もし私が夢の、A組の女の子みたいに自殺しそうになったらどうする?』『そんなことないよ。伸葉くんは優しいから』『じゃあさ、もし夢で見たのと同じようにさ、あの子が自殺するとしたらどうする?』『あの子のこと、気になる?』『随分棘のある子だったね……』『水臭いこと言わないでよ。私伸葉くんの保護者なんだから、来るのは当たり前でしょ』『えー、夢占い面白くない?』『伸葉くんは深層心理で、今の自分ではない人になりたがっていて――』『ねぇねぇ、どうなの?』『あれ? もしかして私のこと心配した?』『久しぶりに一緒に登校しようと思って、迎えに来ちゃった』『待って』『少し怖くてね。あの扉が急に開いて、あの職員の人たちが入ってこないかって』『そうだよ。何回も千切られたこの耳で確かに聞いたもん!』『夢なのか現実なのか分からなくて』『それはここの公式を使ってね』『退院したら一緒に行こうよ!』『へぇー、それで?』『ありがと。また会えるかな?』『帰り道』『探してるの』

 

 雪の中で、女の子が泣いていた。

 真っ白な寒さの中で赤いリュックが目を引かせる。

 中毒を起こした鎖運回虫が死ぬ要因を回避するために遡った。言い換えるならば、それは恋愛ホルモンが分泌され始めた時、僕たちが出会った時に他ならない。11年前の今日この日この時、夕黄が家を飛び出して、道の真ん中で迷子になっていた時だ。

 僕は小さな歩幅で彼女に近づき、声を掛ける。

「夕黄」

 震えていた背がピタリと止まり、ゆっくりと振り向く。赤く腫らした目に、僕を映す。

「え…… なんで…… 私の名前……」

「友達がね、会いに行けってうるさくてね」

 夕黄が黒目を震わして一歩たじろいだ。

「思い、出したの……?」

「うん、ごめんね。白幡が駆虫薬をくれてね。思い出したよ、全部」

「キョーコちゃんの馬鹿…… これじゃあ私、何のために……」

 俯かれた顔を上げさせるために、一歩前に出て新雪を鳴らす。

 僕の接近に顔を上げた夕黄が近づかれた分だけ後ろに下がった。

「どうやってこの時間まで戻ったの?」

「白幡が教えてくれたんだ。鎖運回虫を中毒にさせれば、もしかしたらって」

 思い当たることがあるのか、夕黄の目が大きく開く。

「その方法って、まさか……」

「うん、その…… ね……」

 照れくさく目を逸らして言うと、視界の隅でも夕黄の顔が一気に火照るのが分かった。

「なっ!」夕黄が口元に手を当てる。

「ご、ごめん!」

 気まずい沈黙が僕たちの間に走る。破ったのは夕黄の方からだった。

「あ、だったらどうして戻った先が今なの? 伸葉くんのは私が移したからなんじゃ……」

「それは単純に、夕黄に移される前から感染してたってことでしょ」

 推理、いや、こじつけだが、きっと僕の感染元は僕の母だ。

 白幡は過去四十年の中で記憶操作ができたのは二人いたと言っていた。一人が夕黄。もう一人は生きているなら四十手前の人。そして白幡のもう一つの発言。鎖運回虫同士で中毒症状を起こしたのは過去に一度だけ確認されていること。つまりその人は冷凍睡眠していない可能性があるということ。もう一つ、鎖運回虫の別名は赤い糸であり、三十九の母は僕に赤い紐のあやとりをおまじないと言って教え込んだこと。

 これらから考えられるのは元々鎖運回虫に感染していた母は監視下であり、その息子である僕が『時間が十秒戻る』と発言したことで研究所送りにされたということだ。

 穴だらけの推理だ。だからこれは、こじつけだ。

 仮にこれが当たっていたとしても、だからなんだというのだ。今重要なのはご都合主義な展開を自然に見せる整合性のある話じゃない。

 今重要なのは、彼女を絆すための彼女への言葉なのだ。

「僕は元から感染していた。だから夕黄のせいじゃなかったんだよ」

 再び、夕黄が顔を俯ける。

「そっか、そうだったんだ……」胸元の服を掴み、目頭を更に赤く染める。

「私のせいじゃ、なかったんだ…… 良かった……」

 漏れ出た一滴の雫が夕黄の頬を伝う。

「ずっと、ずっと、全部、私のせいだと思ってた。私があの時、頬にキスしなければ、伸葉くんを巻き込まなかったのにって、ずっと後悔してて、なのに、伸葉くんは私にたくさん、優しくしてくれて、もうホント、心の中ぐちゃぐちゃで、こんなの間違ってるって、好きにならなければ良かったのにって…… ずっと、ずっと…… だから、本当に…… 良かった……」

 目から流れ出るものは雫ではなく清流のようになっていた。

 こんなにも奥底から僕のことを考えてくれる人がいて、その人と出会えて、本当に良かったと喜ぶのは僕の方だ。

 たくさん僕のために傷ついて、苦しんでくれた人のために、今度は僕が助ける番だ。

 夕黄に近づく。肩に手を置き、冷えた頬に手を添える。

 なにかを察した夕黄がバッと僕から距離を取った。

「待って。何をする気なの?」

「その…… そういう雰囲気だと思って、またキスを……」

「違う。嘘つかないで。茶化さないで。そもそも私たちのキスにはリスクがあったはずだよね。不確定要素が多すぎるってキョーコちゃんが言ってた。それなのにキスしたってことはさ、伸葉くん、鎖運回虫を中毒死させようとしたってことだよね?」

「……うん、そうだよ」

「分かってるの!? それは鎖運回虫だけが死んでハッピーエンドになる都合の良いことだけじゃないんだよ!? 海馬の代わりになってる彼らが死ぬってことは、全部忘れちゃうんだよ!?」

「うん」

「一緒に過ごした思い出が全部なくなっちゃうんだよ!?」

「うん。分かってるよ」

「そんな…… 伸葉くんはそれでいいと、思ってるの?」

「嫌だよ。忘れたくないよ。僕の一生の宝物だもん。なくしていた時期が長いからってどうでもいいものじゃないよ。でも、君を救うために記憶を消す必要があるっていうなら、僕は捧げられるよ」

「無理だよ、私には…… 忘れるぐらいだったら思い出と一緒に死んだ方がマシだよ!」

 目を瞑る。噛み締める。彼女の好意を、その想いを。

 例え話。もし僕が一人で先に死んだとしたら、彼女はきっと他の男に目もくれず一生僕のことを引きずりながら生きていくのだろう。僕と関わった人たちが僕のことを風化して忘れていく中で、彼女だけが世界に取り残されても、いつまでも、きっと。

 夕黄が思い出を大切にしてくれるのは、きっと僕と同じ理由だ。

 二人で過ごした時間が大切なんじゃない。僕にとっての夕黄が、夕黄にとって僕が、愛してくれていた想い出が大切なのだ。

 指を絡めたこと、抱きしめたこと、眠る時に手を繋いでいたこと。相手が自分を想っていると感じられたことが大切なのだ。

 だからもし、世界が自分だけにもなっても、それさえあれば生きていける。

 だから「大丈夫だよ」

 僕はポケットに手を入れ、夕黄に近づいた。

「何度記憶を無くして忘れても、僕はまた必ず君を好きになる。これは希望じゃないよ。これは実際の経験から基づく、事実なんだから」

 僕は赤い紐を取り出すと、それで夕黄の髪を結んだ。解けないように、しっかりと、おまじないを結ぶ。

「うん、似合ってる」

 体中の水分を全部出すじゃないかと心配になるぐらい彼女は流す。

 嗚咽しそうになる声を抑え、目を細め、不器用に夕黄は笑みを作る。震える声で言った。

「ズルいよ。そんなこと言われたら、断れないよ」

 自然と手を取り合っていた僕らは、目で通わせて気持ちを伝え合う。

 小さな体に身の丈以上に膨らんだ【願い】【祈り】【愛】【約束】を込めて。

 そして最後に僕らは、熱を通わせる。

 その想い出を忘れないように、刻むように。



 

 微かな光が大きくなっていく。次第に光量を増していく光が世界を覆い尽くす。いや光が僕らを包み込んでいるのかもしれない。

 中毒症状を起こした鎖運回虫が自身の死を回避しようと、光より早い粒子を過去に飛ばす。

 でも今の僕らより以前に原因は存在しない。そしてずっと戻った先にはきっと鎖運回虫自身すらも存在しない。

 意識が薄れて溶けていく錯覚に陥る。

 特異点を越えた先に、僕らを待つのは何なのだろう。

 白幡が賭けた未知数の世界。

 鳩月先生が欲した世界を変える可能性。

 これは時間の逆行などではない。

 時間を戻したという歴史が地続きで繋がっている新しい世界だ。

 僕らの全てがなかったことになるわけじゃない。

 僕らが経験し、巡り会わなければ辿り着けなかった世界だ。

 もし例え、その世界に僕がいなかったとしても、僕らが巡り合わなかったとしても、運命が存在しなかったとしても、約束が果たされなかったとしても、祈りが届かなかったとしても、

 

 木漏れ日の中で彼女が穏やかな日々を送れることを、ここに、切に願う。

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