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第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について その6

 まだ家族と暮らしていた時、まな板を叩く音で目を覚ますことがあった。鼻をくすぐる美味しそうな匂い。釣られて台所に行くと「あら、もう起きたの?」と頭を撫でられるのだ。

 だから私は目を覚ました時、これが現実なのか、まだ夢を見ているのか判断が付かなかった。

 まな板の音。味噌汁の匂い。私は柔らかい羽毛布団の中にいた。

「なぁ、お前、起きたぞ」

 私の顔を覗いた初老の男性が声を投げる。パタパタと走ってきたこれまた初老の女性が柔らかな口調で「おはよう」と言ってきた。

 何が起きたのか分からなかった。キョロキョロと目を動かす。民家のようだった。

「ごめんねぇ、知らない場所にいたからビックリしたでしょ? あなたたちが道の途中で気絶してたから私たちもビックリして……」

「朝美山の研究所から来たんだろ。ポケットに入ってたカードにそう書いてあったからな。あそこは昔から良くねぇ噂を聞く。国ぐるみだってな。だから警察も頼らんで保護した。何があったかは知らんが、ここは安全だ。それだけは言える」

 ドスの効いた厚みのある声に、安心感が湧いてくる。

 不意に涙が出てきた。

 最初は何ともなかったのに、溢れてくるものは次第に勢いを増して、気付けば、私は声を出して泣いてしまっていた。痛いことや悲しいこと以外で泣くのは初めてだった。

 それからご飯を頂いた後、私たちが何者で、今までどんな経験をして、どうして道の途中で眠っていたのか。伸葉くんが目覚めない間、私は数時間掛けて説明をした。

 二人は翠ミサキ、翠テツヤというらしく、ミサキさんの親身になって聞いてくれる姿勢、テツヤさんの圧を感じるが根の優しさが垣間見えるところに私の心はみるみる氷解していった。

 私の話を聞き終えた後、眉間にずっと皺を寄せていたテツヤさんが言った。

「俺ら夫婦もずっと子供が出来ず諦めていた所だ。いつまでも居ても構わねぇからな」

 笑った顔が意外と可愛い人だった。

 そうして私たちはしばらく居候させてもらうことになった。

 夕方にようやく目を覚ました伸葉くんに事情を説明し、挨拶を済ませ、掃除を手伝い、物置を寝室として貸してもらった。

 新しい生活が始まる。期待と不安があった。自由を手に入れて、これから何をしようかという期待。そして連れ戻されるのと、いずれレベル3になって死んでしまうという不安。

 真夜中、隣の布団で眠る伸葉くんも寝れないようで、何度も寝返りを打っていた。

「ねぇ、起きてる?」夜の神秘さを壊さないように小声で掛けた。

「うん、起きてるよ」

「寝れないの?」

「昼間たくさん寝たからね。夕黄は?」

「少し怖くてね。あの扉が急に開いて、あの職員の人たちが入ってこないかって」

 布団の中に伸葉くんの手が侵入してきた。指先が触れて、躊躇って、指を絡めて、手を繋ぐ。

 肌が触れ合う背徳感。目に見えない布団越しに行われるそれに、どちらとも言及することはせず、眠りについた。

 ぬくもりを与えてくれる人が隣に居てくれる。これが習慣化するのは当たり前だった。

 

 外に飛び出し、運良く住処も手に入れた。私たちを縛るものはもう何もない。そう安堵したのも、一日と持つことはなかった。

 昼間、畑仕事を手伝った。働かざる者食うべからずというやつだ。慣れない肉体労働に疲れ果て、夜、私たちはあっという間に眠りについた。

 私の眠りを妨げたのはやはり痛みだった。手が強く握られていたのだ。

 伸葉くんを見ると、脂汗を額に滲ませ、苦悶の表情で息を切らしていた。

 ただ事ではないと咄嗟に声を掛けた。

 目を覚ますと、荒げていた呼吸をやめ、状況を確かめるように辺りを見渡した。

 ふぅと息を吐き「お腹を開かれた時の夢見てたよ」ただの夢。現実じゃない。気にすることじゃない。と嘲笑するように言った。

 その翌日も、そのまた翌日も、そのまたまた翌日も、伸葉くんは悪夢にうなされていた。

 酷い時は声を上げて飛び起きて、またある時は飛び起きるとトイレに顔を突っ込んで戻している時もあった。

 私が「大丈夫?」と訊いても「平気だよ。余裕余裕」とおちゃらけて答えた。目の下に隈をぶら下げながら。

 彼を追い詰めているのは私なのかもしれない。

 伸葉くんは優しい。どんな時でも私のことを庇うように行動してくれる。それは日頃の畑仕事に限らない。施設にいた時だって、自分だって痛いのに私の心配をしてきたり、脱走する時も伸葉くんが率先して時間を戻してくれたり、今回の悪夢の件だってそうだ、私に心配させないように振る舞っているのは見えみえだ。きっと脱走を提案してくれたのだって、自分の身のためではなく、私のためなんだろう。

 私のために身も心も犠牲にしてくれている彼に、私は何がしてあげられているだろう。彼の心は未だに、あの施設に囚われているのだ。それを救いたい、助けてあげたい。

 不意に一つの案が思い浮かんだが、すぐに頭から振り払った。

住み始めてから十日が経った頃、ミサキさんが写真を撮ろうと言った。テツヤさんも嫌々言いながら身支度を整える。

「もう家族みたいなものだから」

 高そうな一眼レフカメラを三脚に乗せ、玄関前に整列した。タイマーをセットし、テツヤさんが走って戻ってくる。急かす電子音。皆がカメラに注視する中、私は隣の伸葉くんを盗み見た。横顔を見る度、胸が締め付けられた。

 シャッターが切られる。

 ……決断するのに、一ヶ月を要した。

 風が暖かくなってきていた。桜の開花予想が発表され、畑近くの小学校からは卒業式の練習のためか連日【旅立ちの日に】が聞こえてきていた。

 伸葉くんを救う手段。それは、とても簡単だ。

 光が強まれば影が濃く闇が深まるように、楽しい日々が輝いてるからこそ実験の日々が辛く感じるのだ。ならば、いっそ、全部。

 その日も手が強く握られた。夜、寝ないように仮眠していた私はそれを合図に布団から起き出す。起こさないように、ゆっくりと。

 カーテンのない物置内を月明かりがふんわりと照らす。神聖な儀式を執り行うように私は伸葉くんの横に正座した。

 簡単だ。念じればいいだけだ。全部忘れろって。

 初めて会った時の綾取りも、車から身を乗り出してキスをしたことも、再開に喜んだ日のことも、こっそり一緒の布団で眠った日のことも、したいことを語り合った日々のことも、勉強を教え合った日のことも、一つの本を並んで読んだことも、綾取りに乗じて指を絡め合った日のことも、二人だけで誕生日を祝い合った時のことも、脱走の前日に初めて抱きしめてくれた時のことも―― 全部、忘れろ、って。

 伸葉くんの頬に雫が落ちた。ポトポトと落ちるものを私は拭う。震えて、声が出そうになるのを必至に堪える。

 いつだか、白濱さんが言っていたことを思い出した。

『好きになったっていうか、好きだったんだなって気付いちゃった感じ。しかも最後の日にね』

 記憶を消したら当然私のことも伸葉くんは忘れてしまう。

 記憶喪失になった彼の傍に私はいてはいけない。万が一、彼が私の正体を探り始め、真実に辿り着いてしまったら何のために記憶を消したのだと、本末転倒になりかねない。

 だから私は辻褄合わせのために彼の前から立ち去らなければいけない。

 一頻り肩を震わせると私は念じた。全部、忘れろ、と。

 しばらくして強く握られていた手から力が抜けた。苦しそうだった表情からも憑き物が落ちたように、穏やかな寝息へと変化する。

 ……もう行こう。

 手を離す際、私は名残惜しんで、指先が離れる最後の一瞬まで彼の熱に意識を澄ませた。

〝短い間ですがお世話になりました。伸葉くんはたぶん、記憶喪失になっていると思うので、真実は伝えず、お二人の子供として面倒を見てくれたら嬉しいです。 夕黄”

 そうして私は翠家を後にした。

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