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第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について その5

 キョーコちゃんが来てから六年が経過した。学年に例えるなら小学六年生になるそうだった。

 小学校には行っていないが義務教育ということもあり、鳩月という職員が先生役となり勉強を教えてくれた。一つ上のキョーコちゃんは鳩月先生のサポート兼私たちの友達として、橋渡しの役割をしてくれた。

 キョーコちゃんも義務教育期間中なのだが、署長の娘とか何とかで色々特別扱いされているらしい。彼女はそれを誇らしくでも、疎ましくでもなく事実を淡々と述べて教えてくれた。

 たぶん自分を客観視出来ているのだろう。道化というものはヘラヘラしながら常に冷静な面を持ち合わせているものだ。それが正にピエロの顔のようで怖かったのだが、時折見せるあの人懐っこい笑い方をする時だけは本音から笑ってくれているようで私は好きだった。

「ねぇ夕黄、この問題分かる?」

「それはここの公式を使ってね」

「ちょっとちょっとぉ、お二人とも距離が近いですよー」

 ハッとして顔を上げると伸葉くんとの距離が近くて弾かれたように離れた。

 顔が熱い。キョーコちゃんの笑い声が中庭に響いた。

 毎日出される宿題をここで三人で片付けるのが恒例になっている。

 足が宙に浮いていた椅子も今では床に指先が当たる。明日が来るのが怖くて、眠れなかった頃とは違う。体の大きさも、寂しさも。以前として毎日のように診察は行われているが、以前程の恐怖はなかった。何なら最近では消灯後に一人になると早く明日にならないかな、と思うこともあるぐらいだ。

 楽しかった分だけ一人になった時、冬の冷気のように人恋しさが突き刺さった。

 果たしてこの感情が、三人でいるのが楽しいからなのかは分からない。

 少し前、伸葉くんが診察でいない間、キョーコちゃんと伸葉くんの話をしたことがあった。

「夕黄さんは分かりやすいですよね」

「ん? 何が?」

「伸葉さんのこと好きなんでしょ?」

 それを音として聞くまで、その発想は頭にはなかった。

「んー…… よく分かんない」

 人が恋愛をするとフェニルエチルアミンという恋愛ホルモンと呼ばれるものが分泌されるのは図書室の本を読んで知っていた。しかし裏を返せば、恋愛に関しての知識を私はそれだけしか知らなかった。伸葉くんを自然と見てしまう。触れてしまう。声が聞きたくて話し掛けてしまう。彼を求めてしまうこの感情を恋と呼ぶのか、経験のなかった当時の私には分からなかったのだ。

 だから私は寝る前、真っ暗の部屋の中でふと伸葉くんのことが浮かぶと、キョーコちゃんとの会話を思い出す癖が出来てしまっていた。

 分かんない。分かんない。分かんない。 

 それが恋だと認めるのが怖かったのかもしれない。恋だと認めた先にある、失うことの恐怖を直感的に分かっていたのだと思う。

 掛け布団を頭まで被り、煌々とする脳に、眠れ眠れ眠れ、と命令するのだ。

 そうしてまた翌日、伸葉くんに「昨日も夜更かししたのか?」と指摘され、私は「夢なのか現実なのか分からなくて」と、話し掛けられたことに笑みを浮かべるのだ。幸せだった。


 その日はいつもと趣向の違う実験が行われた。感電、水攻め、火あぶり、薬漬け、毒、切断、圧縮、殴打、そのどれとも違う。音波による診察が行われた。

 音波による診察内容はまぁ今回は関係ない。超音波で内臓がズタボロにされたぐらいで、結局は普段と同じだ。私が指して言いたいのは、いつもの診察室ではなく、別棟で行われたことだ。きっと防音設備の問題なのだろう。これまで行ったことのない場所だった。

 診察が終わり、胃袋の中身を全て吐き出し、振動によりフラフラになった頭を揺らしながら私は壁に手をついて本館へと戻っている途中だった。

 ろくに前を見ないまま歩いていると、体重を掛けていた右手が不意に宙を掻いた。そこには壁がなく、スライド式の自動ドアが勝手に反応して開いたのだろう。私は無様に倒れ込んだ。

 知らない部屋に無断で入れば怒られる。私はすぐに出ようと体を起こした。

 そこは冷凍庫のように冷たく、沢山のガラスケースが横たわっていた。部屋から顔を出し、部屋の名前を確認する。

【休眠室】

『担架の用意。それともしもの場合がある、休眠室も稼働させておけ』

 そこはユリカさんが運ばれる際、職員が口にしていた場所だった。

 氷漬けにするような寒さ、明らかに人が眠る場所ではない。私は自分の体を抱えると興味本位で部屋の奥へと足を進めた。

 パタ、パタとスリッパの音が奇妙に響く。冷気を発する機械が化け物ように喉を鳴らす。

一つのガラスケースに近づいた私は中を覗いた。息が止まった。

 中には私と同じ患者服を着た女性が死んだように眠っていたのだ。

 ケースに触れれば、神経を突き刺す鋭い冷たさが指に走った。

 一つ目、二つ目、三つ目、四つ目…… どのケースにも人間の女性が眠っていた。

「何これ……」

 そうして覗いた九つ目。そこで私は再び息を止めた。

 ユリカさんが眠っていたのだ。

 恐ろしくなった私は後ずさり別のガラスケースに足を取られた。

 手を付き、それを見る。喉から絞った悲鳴が出た。

 無人のガラスケースには【赤手夕黄】と名札が張られていた。

「コラコラ、勝手に入っちゃダメよ」入口を見る。鳩月先生だった。

「もうダメよ。ほら一緒に戻りましょう?」

 私は差し出された手を無視して質問をした。

「先生、ここは何ですか? ユリカお姉ちゃんは退院したって……」

 やれやれ、と言いたげに鳩月先生は溜息を吐いた。

「見られたからには隠すわけにはいかないか…… ここはね、レベル3になった末期患者を封印するために作られた休眠室なの。現在の医療技術では私たちはレベル2の鎖運回虫を取り除くことは出来ないの。だから、いずれ摘出出来る技術が確立するまで貴重なサンプルたちにはコールドスリープしてもらっているのよ」

「……何で、隠してたんですか」

「ショックが大きいからね。永久にここから出られないって知ったら」

 私は走った。フラつく体を気にも留めず、何度も何度もぶつかりながら。寧ろ体に掛かる負荷を増やすことで他のことを考えないようにした節もあった。一瞬でも考える余地があると、すぐに鳩月先生が浮かぶのだ。私に絶望を振りまいた瞬間、甘味に愉悦したあの唇が。

 敵だ。あれは間違いなく、私にとっての敵だ。

 授業を重ね、日々を重ね、心を許していた自分が情けない。

 死ぬことは出来ない。死のうとしても時間が巻き戻ってしまう。痛みや辛さに嘆き、全てがどうでもよくなって死にたいと願ったことは何度もあった。だが、死ねない事実を私は身を以て知ってしまっている。逃げ出すことも、この建物から出ることも出来ない。彼らはそもそも私たちを治療する気などなかったのだ。彼らが必要としているのは私を切り刻んで出てくるデータだけ。散々切り刻まれて、データを吸われて、私を待っているのは封印される未来だけ。

 本館に戻り、二人が待っているであろう中庭に行くと、難しい顔をして宿題に取り組んでいる伸葉くんとキョーコちゃんの姿があった。

 おかえりと言いかけた二人が私の表情を見て、腰を浮かせた。

「どうしたんですか? 今日は何をされたんですか?」

 心配そうに近寄ってきたキョーコちゃんを私は払いのけていた。困惑が二人の目に浮かぶ。

 私は勢い任せに伸葉くんにしがみいた。折れ掛けてしまう心の拠り所が欲しかった。

「お、おい、どうしたんだよ夕黄」

「キョーコちゃん、どうして騙してたの? 私は本当に友達だと思ってたんだよ」

 声が震えた。声を出すほど、涙が溢れそうになった。

「え、どういう、ことですか? 私には何が何だか…… さっぱり……」

「キョーコちゃんはそもそもこの施設側の人間。私たちが永遠にここから出られないって知ってたんでしょ!?」

「何ですかそれは…… 知らない。私はそんなこと聞いてないですよ」

「ねぇどういう気分だった? 私と伸葉くんが外に出られたら何がしたいかって話を聞いてた時は! 掌で踊っているとでも思った? 鳩月先生みたいに優越にでも浸ってたの!?」

「……鳩月先生が、それを言っていたんですか?」

 キョーコちゃんの表情は俯いて見えなかった。

「そうだよ。何回も千切られたこの耳で確かに聞いたもん!」

「……分かりました。すみません、私は用事があるので失礼します」

 キョーコちゃんは表情も声色も隠したまま、私たちの前から姿を消した。

 二人っきりになり緊張の糸が解けると、私は腰を抜かして伸葉くんを巻き添えに座り込んでしまった。

「どうしたの? 詳しく教えて」

 真実へのショック。そして大切な友人を怒ってしまったことに私は声を出して泣き喚いた。

 落ち着くまでにかなりの時間を有した。落ち着いたと思っても、また感情がぶり返しての繰り返し。その間、伸葉くんは私の話を黙って聞き続けてくれた。

 天窓から差していた光がいつの間にか月の明かりと入れ変わっていて、中庭は見慣れない様相へと変化していた。

 薄らとシルエットを作る植物の影。虫の音一つ聞こえない人工自然に囲まれながら、ようやく泣き終えた私に伸葉くんは一言いった。

「逃げよう」

「え」と聞き返すと、力強く伸葉くんはもう一度「逃げよう」と言い、私を抱きしめた。

 伸葉くんの心音と布越しのささやかな体温が、ケースの中に保存したような中庭の中で一際私を魅了した。生きている。安心する。

 私は抱き返し、胸の中に顔を埋めた。ずっとこうしてたい。そんなことさえ考えた。

 私たちはその日の内に脱走を計画して、翌日にはそれを決行した。

 朝食を食べ終えると、それを片付けに来た職員の脇をすり抜け、本来はいけない出入口へと向かったのだ。

 私たちが脱走するのは予想済みだったのか、それとも以前試みた者がいたのか。私たちが脱走したのはすぐにバレた。警報装置が鳴り、白い館内が赤いランプで汚染される。

 大人達が前に立ちはだかった。

 私たちに筋力はない。武器もない。抵抗する手段は何もない。しかし、私たちには時間を戻すことが出来た。指を折る程度など普段のと比べたら造作もない。先回りされれば、折り曲げ、捕まれば舌を噛んだ。無我夢中だった。

 何時間分を戻したかなんて分からない。気付けば私たちは出入口の前へと辿り着いていた。

 自動ドアの向こうに外が見えた。もうすぐだ。もうすぐだ。

 隣の伸葉くんを見ると青ざめた顔をしていた。恐怖から来るものじゃない。純粋に体調が悪くなっているのだ。思い返せば、彼は私に気を遣ってか、私の倍以上時間を戻していた。

 口の端から漏れた唾液を拭い「早く行こう」と彼は前へ進んだ。

 しかし自動ドアは開かなかった。ドアの横にある認証装置。原因は明らかにそれだった。

「くそっ」伸葉くんはドアを殴り、体当たりをした。しかし体力がもうほとんどないのだろう。

 ドアはビクともしなかった。後ろからは大人たちの駆けてくる足音が聞こえた。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 パタリ。と後ろで物音がした。見ると、すぐ目の前にカードが落ちていた。

「アーシマッター。ロックヲカイジョスルタメノカードヲオトシテシマイマシター」

 キョーコちゃんの声だった。上を見ると、二階の窓に見慣れた人影が引っ込む様子が見えた。

 私は心の中で感謝を述べるとカードを拾い、伸葉くんの腕を掴み、自動ドアをくぐり抜けた。

 朗らかな日差しに心地よい冷気。春になりかけているのだろう。

 だが、久しぶりの外に現を抜かす余裕はない。私は走り出した。

 走って、走って、走った。行き先など決めないまま、赴くままに走った。ただひたすら施設から離れることだけを考えて。

 どれほど走っただろう。気が遠くなるぐらい走った自覚はあった。

 途中、追跡者であろう人たちに何度か遭遇し、時間を戻した。

 一歩ごとに踵と膝が痛んだ。寄生虫を酷使し過ぎたのだろう。首筋がヒリヒリとして、お風呂で逆上せたようだった。口が緩くなっているのか、端からヨダレが垂れる。

「ごめん、ちょっと待って……」

 伸葉くんが足を止めたので振り向くと、また胃液を吐き出していた。もう出るものが何もないのに吐き気が止まらないらしい。目も虚ろになっていて、額に手を当てると火を噴くんじゃないかと思うぐらいに熱かった。

 日が随分と傾いていた。もうすぐ夜になる。寝場所を見つけなければ。

 しかし辺りは木ばかりで、ずっと歩いてきた道路には車が一台たりとも走って来ない。

 私たちは更に歩いた。ようやく出た外。ようやく手に入れた自由。私たちにはそれを満喫する権利があるはずだ。

 いつから思考が止まりボーッとしていたのだろう。ハッと我に返っては気を失ったまま歩くことを繰り返していた。

 気付けば私たちは路肩に座り込んでいた。経緯さえ思い出せなかった。

 肩に重みを感じた。見ると伸葉くんが眠って、いや気を失っていた。胸元を見ると、また吐いてしまった跡があった。伸葉くんだけじゃなく、私にもあった。いつ吐いたのだろう。思い出せない。足が痛い。お腹が減った。喉が乾いた。

 電池が切れたように立ち上がる気力はもうなかった。

 伸葉くんの匂いを嗅ごうと頭を寄せた所で私の意識は完全に途切れた。

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