第一話 夢で出会った女の子
第一話 夢で出会った女の子
飛び起きたそこは自室のベッドの上だった。肩が酸素を求めて大きく動く。
……夢、だったのか?
枕元に置いてあるデジタル時計は九月二十四日、朝の六時半を表示していた。
文化祭から一週間前。まさか無意識に時間を戻したのか? と思い、指の感触を確かめるように開閉を繰り返す。特に異常も違和感もなかった。
軽く計算してみる。一週間つまり7日×24時間を秒にするのに更に×60×60をして、と計算式を立てた所で暗算の許容範囲を越えたのでやめた。何にしろ指を折っても時間は10秒しか戻らないのだから、連続で一週間分の指を折ったら正気でいられるはずがない。
というか、夢の内容があまりに現実から離れすぎている。
居間に降りるといつも通り早起きのお爺ちゃんとお婆ちゃんが既にテレビの音をラジオ代わりに、庭の水やりと朝食を作っていた。
早く起きたことを珍しがられながら、テーブルに着いて健康的な薄味の朝食をいただく。
歯を磨いて、顔を洗って、制服に着替えて、と学校に行く支度を済ませてしまう。
余らせた時間を優雅に使うべく、ソファに腰つけ、テレビを眺めた。
「では次のニュースです」襟の整ったアナウンサーが映っていた。
「穂希町で多発している突発性記憶障害の発症件数が――」
欠伸をしているとインターホンが鳴った。お婆ちゃんがパタパタと駆けていく。
「しんちゃん、夕黄ちゃん来たわよ」耳に馴染んだ幼馴染みの名前だった。
玄関を開けると、前髪の調子を整えていた夕黄がいた。こちらに気付くとビクッとして、背筋を伸ばし「おはよ」とぎこちなく片手を上げてくる。
丁寧に手入れがされているであろう綺麗な黒い長髪が、朝陽で薄らと茶色く光っていた。
「どうした? こんな朝早くから」
「久しぶりに一緒に登校しようと思って、迎えに来ちゃった」
にへへ、と明らかな作り笑いだった。何か相談ごとでもあるのか?
「おっけー。荷物持ってくるからちょっと待ってて」
二人に聞こえるように大きめな声で「行ってくるからー」と言うと、二人はタイミングを合わせたように「いってらしゃい」と長年の呼吸を見せつけてきた。
「お待たー」と外に出る。やっぱり夕黄は前髪を気にしていた。
「いつも通りだよ」と一声掛けて、家の横に置いた自転車を取りに行く。
文化祭が近いことか、家族のことか、色恋沙汰の話か、色々な可能性を頭に浮かべる。
自転車には巨大な蜘蛛の巣が張られていた。昨日も使ったばかりだ。こんな短時間でよくもまぁこんな立派な新築を建てられるものだ。手近な木の棒で新築を破壊すると、家主が戻ってくる前に自転車置き場を後にする。
夕黄の目の前で自転車に乗り、互いに見合う。謎の沈黙があった。
「……え? 何してんの? 早く乗りなよ」
夕黄は今夢から覚めたようにハッとして荷台に乗ってきた。
ホームセンターで買った激安の自転車は二人分の重さに悲鳴を上げながら前進し始める。
今日はやけに変だ。昨日会った時はいつも通りだったのに。
「なぁ、何かあったのか?」聞こえるように少し大きめの声で訊いた。
「ん? 何が?」
「お前今日様子が変だし、何か相談があって一緒に登校しようと思ったんじゃないのか?」
「え? そんなつもりないよ?」
「はぁ!?」
「あれ? もしかして私のこと心配した?」
「心配って……」
「ねぇねぇ、どうなの?」無駄に上機嫌な声が耳元で騒ぐ。
ムカっとして、態と小刻みに蛇行したり、坂道の途中で急ブレーキを掛けてやったりした。
自分もダメージを受けるが、相手にダメージを与えられるなら全然構わない。
夕黄の「やめてよ」「きゃっ」が引き出せたので満足だった。
落ち葉に青い銀杏。夏ほど眩しくなれない陽光が秋の哀愁に濾されて、淡く景色を色付ける。
小学生の群れが朝早くから鬼ごっこをしているようだった。
「そういやさ、また変な夢見たんだよ」と俺はふと思い出したことを切り出した。
「おっ久々にきたね」
昔から変な夢を見ることがある。まぁ夢というのは大抵変なものばかりなのだが、夕黄はそういった変な夢の話を聞くのが好きだっだ。
理系の俺はロマンもクソもなく、夢は脳が記憶を整理している最中に見るものだと考えているのだが、夕黄は夢を摩訶不思議な存在として信じている節があった。夢にロマンを感じる気持ちが分からなくもないため、話題のネタの意味合いを込めて話している。
そして当然今日は【不登校の僕が文化祭の日に学校の屋上で知らない女生徒が自殺する現場に居合わせた】という一行でまとめると設定盛り沢山な夢の話をした。
俺は鼻で笑いながら語ったが、夕黄はやけに真剣にその話を聞いていた。やがて「うん」と頷き、神妙に口を開いた。
「結論が出ました」
「結論?」
「伸葉くんは深層心理で、今の自分ではない人になりたがっていて、知らない人との関わりを極端に恐れているんだけど、女性との繋がりを求めて――」
「あぁーーーいい、いい、そういうのはいい」
「えー、夢占い面白くない?」
「そういうのは全部バーナム効果なんだよ」
それから学校に着くまで山も谷もない会話をした。もう一度だけ本当に相談とかないのか尋ねたが、本当に何もないようだった。
個性がバラバラの外壁を横目に、中流層の住宅地の奥へと進んでいく。
近道の公園を抜け、等間隔に並ぶ街路樹をくぐれば、俺たちが通う南田高校はすぐそこだ。
生まれてから何の縁か高二のクラスまでずっと一緒の俺たちは、並んで教室へと向かう。
教室に入ると「おやおや今日も仲良く登校ですか。私が入る隙間も作ってくださいよ」と後ろの席の白幡が片手を上げてきた。
ワカメのようにウェーブ掛かった黒髪に黒縁眼鏡に黒い隈。白幡キョーコという女性を表現する時、そこに【普通】という言葉を用いるのは不正確だ。少し丸まった背や陰気なオーラは並の生徒を近づけず、一部からはマッドやら魔女と呼ばれている。中学時代に偶然席が隣になり、そこから変に気に入られて以来、俺と白幡はそれなりに仲が良くなってしまった。
「なにそれ」白幡の手元には理科室で見かけるシャーレが置かれていた。
「ジョンとジェーンです。ほれ、挨拶をおし、お前ら」と何も入ってないシャーレをつつく。
目をこらしてみると、ゴマより小さいな白い点が二つ動いていた。
机に荷物を置いた夕黄もやってきて、シャーレの中を覗いた。
「キョーコちゃん今度は何を捕まえたの? ミジンコ?」
「いえ、これ、アメーバですよ」
「さも当然のように言われても『なーんだ、アメーバか』とはならないからな?」
「ナハァ」と白幡は癖のある笑い声を上げた。
「先日朝美山湖に生息してる魚に餌をあげてたんですよ。その時たまたま肉眼で捉えられるサイズのアメーバを見つけましてね。ラッキーと思って運良く持ってたスポイトで捕まえたんですよ。伸葉さんも夕黄さんも、目に焼き付けといた方がいいですよ。生涯でアメーバを見る人はほとんどいないって言いますからね。とっても珍しい体験ですよ」
「うん、珍しい体験かもしれないけど、ちょっと待ってごめん。たまたまアメーバを見つけて、スポイトを運良く持ってたから捕まえたってありえなくない? 変人過ぎない? アメーバみつけた件に関してはきっとマサイ族もびっくりだぜ?」
「うーん…… そうは言われましても現にここにジョンとジェーンがいますし、こんなどうでもいい所で嘘をつく必要はないですからねぇ。あ、取ったときの写真見ます? 嬉しくてつい自撮りしたんですよ。ほら」
湖を背景に、スポイト片手ににっこり笑った白幡の写真を見せられた。マジかよ。
白幡は携帯を置くと、俺をよそにシャーレへと熱い視線を向けた。
その姿を見ていると、まぁ白幡らしいと言えば白幡らしいのかもしれない、と思えてきしまう。出会った時から理科が得意であり、特に生物学に著しい興味を持っているようだった。
「あ、ちなみにジョンは身元不明の男性の遺体。ジェーンは女性に付けられる仮称ですよ」
「物騒な名前をアメーバに付けるんじゃありません」
いつもの朝の光景だった。周りでも似たような生徒の喧騒がして、学校が少しずつ活気づいていく。窓から見える木々が一緒に笑って葉を鳴らして、ぼやけた影が教室で踊った。
談笑をしばらく続けていると、誰かが先生が来ないことに気が付いた。それが伝染して、俺たちまで伝わってくる。ホームルームの時間はとっくに過ぎていた。
クラス中が気付いた頃を見計らったように校内放送で職員会議が延びている生徒はしばらく自習しているようにと連絡が入った。教室がざわつく。初めてのことだった。
それからしばらくして丁度一時限目が始まる頃、担任の鳩月先生がやってきた。
「ごめん、遅れた」と悪ぶるつもりもなさそうに入ってきた鳩月先生に、よく茶々を入れる生徒が「鳩ちゃん何があったの?」と調子良く尋ねた。
「それがね…… A組の里田徹くんが突発性記憶障害になっ――」
その台詞にクラスでどよめきが起きた。
「何? 突発性記憶障害って」俺は椅子を傾けて、背中越しに白幡に訊いた。
「え、知らないんですか? あの翠伸葉さんが? まっさかぁご冗談を。テレビや新聞でも連日取り上げられているのに?」
「やめて。煽るのやめて。負けを認めるからこれ以上はやめて」
「ナハァ」と白幡は喉を鳴らすと、件の突発性記憶障害について教えてくれた。
とは言っても名前通りの症状で、ある日突然記憶喪失になるという至ってシンプルなものだった。記憶喪失なんて普段は耳にしない症状だが、昔から有名なものだ。それが何故、クラスをざわつかせ、ましてや最近テレビなどで報道されているのか、白幡はそこを重点的に説明してくれた。
一人目の症例が出たときは報道も何もなかった。それも当然だ。一般人の一人が記憶喪失になっても余程取り上げる記事がない限りはスルーされるに決まっている。だが、それが数ヶ月の間に十人、二十人となれば話は変わってくる。記憶喪失が起こるパターンは極度のストレスか、頭を強打した時などだが、今回の人達はいずれもそのパターンにはまることがなかったのだ。外傷がなければトラブルなどもなし。いずれも原因は不明で、性別も年齢層もバラバラ、関連性が見当たらないのだ。そう、全員がここ穂希町に住んでいることを除けば。
「噂では宇宙人による電波攻撃だとか、未来人からの終末警告だとかって言われてるんですよ。すっごく素敵な話だと思いません?」
「思いません。頭にアルミでも巻いてろ」
白幡は天才だが、それ故に馬鹿と紙一重な所がある。本人曰く『ま、頭が良いと常人には理解出来ないことってありますからね。あ、チョウチョ』と説得力ゼロなこと言っていた。
「伸葉さん、あとで一緒にA組行きません? 私の野次馬根性が騒ぎます」
「行かない。野次馬なら馬小屋で大人しくしてろ。興味がそそられるのは分かるけど、この件で傷ついてる奴が少なからずいるだろ。そいつらに失礼だ」
「一理あるかもです」と後ろの奴がしょんぼりしたのが分かった。
午前の授業を終え、ろくに頭も使っていないのに気持ちよく伸びをする昼休み。
白幡が「では参りますか」と席を立った。言わずもがな分かる。食堂だ。
俺も席を立ち、教室から出ようとした所で夕黄がついて来ていないことに足を止めた。
「どうした?」と声を掛けると、キョトンとしたまま、顔で「何が?」と言われた気がした。「食堂。行かないの?」
「え、あぁ、うん、行く行く」
白旗が小声で言ってきた。
「もしかしたら悩みがあるのかもしれませんよ。これは好感度を上げるチャンスでは?」
「やっぱ変だと思うよな」
白幡にデコピンをすると、駆け寄ってきた夕黄を連れて三人で食堂へ向かった。
「あのすみません。なぜ私は暴力を振るわれたのでしょうか? あの聞いてますか?」
廊下は文化祭の飾り付けも合いまり、既に祭りのように賑わっていた。
「何か人多くないです? 私人多いと死ぬ持病もってるんですけど」
白幡のボケにツッコミを入れるのももう面倒になり、俺は特に言及しなかった。夕黄は元からツッコむ気がないのか「A組が移動したからでしょ」と当たり前のように会話を続けた。
「A組が移動?」
「先生の話聞いてないからー」と夕黄がジッと見てきた。
「突発性記憶障害って原因が分からないでしょ? もしかしたら感染症の類いかもしれないからって、A組の教室が特別棟に移動になったんだって」
だからF組から食堂に行くまでの道のりで普段見慣れない生徒が多いのか。
雑踏に紛れるように人波の中を進んでいく。ドアの前で女子が恋バナらしきことを語らい、窓際では男子が外にいる人に向かって何かを叫んでいた。
空中廊下に差し当たる。夏よりも淡く、秋空に抜けるような日の光が廊下を照らしていた。
沢山の生徒とすれ違う中、それに気付いたのは偶然かはたまた奇跡か運命か。
俺はすれ違った女生徒の一人に心を奪われ、ハッとした。
水の中のように「どうしたの?」と声を掛けてくる夕黄の声がぼやけて聞こえる。
振り返った視線の先、黒い髪に白い首筋。
「あの子だ……」
夕黄と白幡が顔を合わせ、首を傾げる。
「夢の中で会った子だよ!」
突然駆け出した俺に、周りの視線が集まってくる。そんなのお構いなしに床を蹴り、人混みを分け入っていく。呼吸が止まっていた。高鳴る心臓が足を無我夢中に動かし、脳裏に今朝の夢を思い出させる。
無機質で無感情で虚ろな瞳。飛沫のようにこびりついた落ちた音。その時に感じた衝動。
「ねぇ君」女生徒の肩に手を掛けた。小さな肩がビクリと跳ねる。
驚き、見開かれた目とかち合う。間違いなく、夢で見た子だった。
高鳴る鼓動に後押しされるように、無意識に口が動く。
「俺と夢の中で会ったよね?」
時が止まったようだった。人集りの中心で、台風の目のような静寂。
長い沈黙が隅からゆっくり溶け始め、女生徒の目の色が嫌悪のものに変わり始めた。
しばらくしてようやく俺は自分がしでかした馬鹿な行動に気が付いた。
無言の果て、女生徒は刺すような目つきで沈黙を切り裂く。
「は?」
踵を返すと、捨て台詞に「キモ」と言い残し、俺の前から姿を消した。