第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について その3
そんな生活が一年続いた。
家族や家が恋しくて泣くのは何度もあった。その度にユリカさんに慰められた。落ち着いて、また泣いて、慰められて、また泣いて。
二度目の冬が来た。
中庭から天窓を見上げると、職員の人達が雪かきしている光景が見えた。下から見るものだから新鮮で思わず口を開けて見入っていた。
「イっ……!」
途端、私を膝に乗せていたユリカさんが苦痛に顔を歪めて、頭を抱えだした。
数ヶ月前からこういうのが増えてきていた。これも私たちが持っている病気のせいらしい。
「大丈夫?」
「……うん、平気。いつもみたいに薬を飲めば落ち着くと思うから」
ポケットから赤いカプセルの薬を取り出し、脇のテーブルに置かれた水差しを一気に仰ぐ。
いつものならこれで少し経てば落ち着くはずだった。そう、そのはずだったのだ。
次第に息は荒くなり、しまいにはユリカさんは椅子から転げ落ちてしまった。
大丈夫じゃないことなんて訊かなくても分かる。尋常じゃない量の冷や汗が吹き出ている。
どうすることも出来ず、私は監視カメラに向かって「誰か助けて!」と夢中で叫んでいた。
ドアが開いた。
数人の職員が駆け寄って来て、ユリカさんにしがみついていた私を引き剥がした。
「症状が酷い」「薬を飲んだ痕跡があります」「レベル3になってから数日は経過してるな」「耐えた方ですね」「担架の用意。それともしもの場合がある、休眠室も稼働させておけ」「はい」
矢継ぎ早に交わされる会話。意味も分からず、呆然と立ち尽くした。
注射。痣。縫合痕。
患者服を脱がされたユリカさん肌には清廉さとはかけ離れた痛々しいものが随所に見られた。その衝撃が私を暗い所へと引きずり込む。
声を出すことも出来ないまま、ユリカさんが運ばれていく光景をただ眺めていた。
嵐のように騒々しかった中庭が気付けば無音と私だけが取り残されていた。
上を見ると雪は払い除けられたのに、重苦しい色が空から落ちている。
それがユリカさんを見た最後だった。
正直に言えば、私は自分が可哀想だと思っていた。
自分が姉なんていなければいいのに、と願ったのが発端であるのに『私は家を失った』『私は家族を失った』と被害者精神が心のどこかにあったのだ。
幸せは失った時に初めて気付く。ユリカさんが言っていた。何かの歌の歌詞らしい。
それを聞いて私は、家族で過ごしていたことが幸せだったと初めて気付いた。
もう幸せであることを見逃さないと決心していた矢先に、私はユリカさんと一緒に過ごしていた時間が幸せだったことに気付いたのだ。
なんて馬鹿なんだろう。
耳が痛くなるほどの無音の施設。叫んでも返事は自分の反響だけ。中庭には足を運ばなくなっていた。
食事を運んでくる顔も分からない職員に引っ付いたり、構ってほしくて態と料理を溢したり、カメラの前でお腹が痛いふりをしたり。
結局誰も私を相手にしてくれなくて、私はいつも布団の中にこもるのだ。
ユリカさんを見なくなってから一ヶ月以上過ぎた。
ユリカさんが帰ってきたら何をしようとか、また綾取りの子に会えたらどうしようとか、一日中考えてることしかやることがなかった。
物音が聞こえる度、部屋を飛び出して廊下を見渡してユリカさんの部屋へ駆けていく。
そうしてまた、重い足取りで自室に戻る。一日に三回はそれを繰り返した。
退屈で、意味もなく生かされていた。
ある日、私は職員の人に「ユリカおねえちゃんは?」と尋ねた。
「ユリカちゃんはね、病気が治ったからもう退院したんだよ」
また一つ希望がなくなった瞬間だった。
ユリカさんがいなくなってから数ヶ月が経っただろうか。
時間の感覚も季節の肌触りも分からなくなったある日、前触れもなく唐突にそれは訪れた。
自室のドアが開かれ、三人の職員がやってきた。
「随分待たせてしまったね。君の診察の準備が出来たから始めようか」
それが地獄の始まり。ユリカさんが私に何も言わなかったのは当然だった。
手術を連想させる診察室に入ると、真ん中にあるベッドに横たわるよう指示された。
銀色に刃先を光らせるメスが行儀良く並び、鼓動しているように音を鳴らす機械がせめぎ合っている。
「夕黄ちゃん、いいかい? 少し痛いかもしれないけど我慢するんだよ。ユリカちゃんもいつも我慢してたからね。お姉ちゃんに出来たんだから夕黄ちゃんもできるよね」
そうして私はまず、麻酔も使わずにお腹を開かれた。
――診察という名のただの人体実験だった。
私には二つの病気があった。一つは他人の記憶を操作できてしまう病気。もう一つは痛みの度合いに応じて時間を戻ってしまう病気だ。
職員の人たちは特にこの時間を戻ってしまう病気の方に関心を持っているようで、ありとあらゆる手段を用いて『時間が戻らない痛みの範囲』や『痛みレベルで戻る時間の振れ幅』など、丹念に丁寧に繰り返し行い、慎重に調べ上げていっていた。『体温上昇によるタンパク質が変性した場合』や『麻酔で感覚が鈍っている場合』『痛みを共はない死の危険の場合』『脳に直接毒を入れた場合』『窒息の場合』『気を失っている場合』など。
生き地獄だった。
薬が頭から抜けずフラフラする日もあれば、長期的な痛みを抱える日もあった。
血反吐を吐くことはなかったが、痛みでその日食べたものを吐いてしまうことは一週間の内に何度もあった。
診察が終わっても気を紛らわすものなんて何もなく、自分の臓器が潰される瞬間が何度もフラッシュバックする。
いつしか物音が聞こえる度、布団に籠もりシーツにしがみつくようになっていた。
皆は病気というが、私自身はこの病気で悪い経験をしたことがない。だったらもう治療なんてしなくていい。こんなに辛い治療が続くのならいっそのこと殺してほしい。
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
悲鳴の上げ過ぎで声が出なくなっていた。
そんな生活が半年は続いただろうか。変わり映えのしない日々の繰り返しに加え、何度も時間が戻っているので、正確性は皆無なのだが、それぐらい経っていてもおかしくはなかった。
確か、蝉の声が微かに聞こえていた気がした。
朝、八時半。朝食のために食堂へと行くと、二人分の料理が並んでいた。
何でだろう?
辺りを見渡しても誰もいない。普段の光景。
まぁいいか、といつもの席に座り、ご飯を食べていると、廊下からパタパタと駆けてくる元気な足音が聞こえてきた。聞き慣れない音に入口を見ていると、慌てた様子で人が入ってきた。
「間に合ったー…… 初日から遅刻するかと思ったー……」
箸を落としてしまった。
疑問とか驚きとか、そういうのは全部すっ飛ばして、頭が真っ白になってしまう。
同じ白い患者服で私とそっくりな背格好。その子は私を見るとニッと頬を釣り上げた。
「あ、久しぶり」
綾取りの彼だった。
名前を緑織伸葉と言うそうだった。私と同い年で、病気が見つかったとかでここに連れてこられたらしく、話を聞く限り私と似たような境遇だった。
自室に招き、彼がここに至るまでの経緯を持て余す時間を存分に使い、私は聞いた。
質問を交えつつ、事細かに、詳細に。
私と彼はあの雪の日に一度しか会ったことがない。それなのに、私と彼は再会したその日から気の知れた友達のように笑い合うことが出来た。
波長というか、テンポというか、とにかく気が合ったのだ。
「そしたら急に知らない男の人が僕のこと囲んできてさ『君は病気だから』って――」
待っているつもりはなかったのだが、この瞬間を私ずっと待ち焦がれたのだろう。
私は机に凭れて、ベッドに腰掛ける彼の話を聞いていた。
「へぇー、それで?」
頭から離れることのなかった残酷な診察の映像が、その時だけは綺麗さっぱりと忘れていた。
「でさ、そしたらお母さんが来て言うんだよ」
久々に心落ち着ける時間。伸葉くんの話は特別面白いものではなかったが、単純に声が好きだったのだろう。私は彼の邪魔をすることなく、彼の声を引き出すことだけに注意を払い、態と時間を掛けて話を聞いた。
彼が話し終えると、次は私の番だった。
自分の話をするのは得意ではなかったのだが、きっと聞き手が上手だったのだろう。私は萎えることなく話すことが出来た。
その日、診察がなかったのは運が良かったのか、気遣いだったのかは分からないが、溜まっていたものを発散するように私は一日中べったりで、話し終わった後は「案内してあげる」と施設の中を歩き回った。
緑織くんから、伸葉くんと呼び方が変わるまでにそう時間は掛からなかった。
私の時とは違い、伸葉くんの診察は入院の翌日から始まった。私の場合は単純に年齢的に出来なかったらしい。それに伴って私はいつの間にか誕生日を過ぎていたことを知った。
誕生日は祝ってもらう。そんな固定概念があってのせいか、無性に悲しくなった。私はもう生まれてきたことをどうも思われていないのだと。どうでもいい人間なのだと。
六歳児は大人が思っているよりも意外と考えているのだ。
同じ六歳児の伸葉くんも物を考える頭をちゃんと持っているようで、私がブルーになっていると黙って隣に座って綾取りをしてくれた。
隣にいて同じ経験をしてくれているだけで、私は救われていた。たぶん彼がいなかったら私はもうとっくに壊れていただろう。
体をバラバラにされても薬漬けにされても汚物まみれになっても、彼という存在が同じ空間にいるだけで私は強くいられた。
伸葉くんが診察されている時に時間が戻る経験をすると、あとで優しくしようと思えたし、立場が逆だと診察が終わった後、伸葉くんの優しさに私は頬を綻ばせることがよくあった。
数日とか大きめの規模の時間が戻った時はすぐに集まって何された? と話し合った。たぶん共依存していたんだと思う。でもそれがないと立っていられないこともまた事実だった。
「退院したら何したい?」
ユリカさんとよく一緒に過ごしていた中庭は、伸葉くんと過ごす場所になっていた。
伸葉くんの問いかけはいつも唐突で、だからといってそれが気になるわけではなかった。
「んーそうだなぁー」なんて私はいつも同じ調子で答えて、毎日くだらないことをじっくりと語り合った。
お花見に行きたい。海に行きたい。紅葉狩りに行きたい。家族皆で一緒にいきたい。
「退院したら一緒に行こうよ!」
全部の指を使っても足りないぐらい、約束をした。
他にも一緒に【もし幼馴染みがいたら】という妄想もした。
物心ついた頃から一緒で、同い年で、家も隣で。両親が共働きだからという理由で私はよく伸葉くんの家に預けられて、朝から晩まで一緒に過ごすのだ。
晴れの日はどこの砂を使えば泥団子が綺麗になるか公園を巡り、雨の日はソファで肩を寄せて綾取りをし、寝る前は天井の木目を指を差して物語を作る。
伸葉くんがあははと笑うと、私も釣られて笑った。一頻り笑うと、彼は更に話を続けた。
私は両手で頬杖をつき、身の丈に合わない椅子の上で両足を犬の尻尾のように揺らした。
彼の声に耳を澄ませながら、綾取りに見惚れながら、幸せを自覚していた。
天窓から差し込む温かい日差し。世界には私たち二人だけだった。
天窓の上に桜の花びらが乗っていた。
届くかな? と届くはずないと分かっていながらジャンプして手を伸ばした。そうこうしている内に花びらは風にさらわれ姿を消す。
どうやら一年経って、春になっていたようだった。時間の感覚がもうない。
本来なら私たちは小学校に入るらしいのだがどうなるのだろう。そんなことを思っていると、
ドアが開いた。良い思い出の一切ない職員の登場。しかし、今回はいつもと違った。
職員と共に入ってきたのは見たことのない女の子だった。
最初こそ私たちと同じ病気持ちなのかと思ったが、よく見なくとも患者服は着ておらず、職員と似た服装をしていた。しかしマスクとゴーグルはしておらず、私たち側に近いとも思えた。
その女の子はニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。
「初めまして。今日からお二人の世話係になる者です」
「目の隈すごい。パンダさんみたい」
私が言うと、女の子はニヤリと口元を歪めた。
「是非パンダと呼んでください」
私と伸葉くんが顔を見合わせると、彼女は「ナハァ」と癖のある笑い声を上げた。