第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について その2
知らない男の人たちがやってきたのは、男の子と出会ってから一週間が経った頃だった。
聞き慣れない車の音が玄関前で止まり、窓から外を覗いた。
黒光りする高そうな車から畑には似合わないスーツの男性が三人。出迎えたお爺ちゃんとお婆ちゃんが何か話し、家へと招き入れた。
様子を窺おうと部屋から顔を出す。すると、お婆ちゃんに「大事な話があるから、ちょっと外に遊んできて」と私は五百円玉を渡されて家から放り出された。
嫌な予感がした。得体の知れぬ不安が胸を過る。
三人が帰った後のその日の晩ご飯は、私の好きな唐揚げとカレーライスだった。
それが余計に最後の晩ご飯を彷彿とさせて、純粋に味わうことが出来なかった。
お爺ちゃんとお婆ちゃんもどこかよそよそしく、夜中に薄目を開けると、お婆ちゃんが私の荷物をまとめていた。
「お姉ちゃん、明日学校行かないで」
隣で眠るお姉ちゃんはウンともスンとも言わなかった。
翌日。人を連れ去りそうなハイエースから宇宙飛行士のような防護服を着た人たちが現れた。私は訳も分からないまま、自分の赤いリュックを背負わされ、防護服の人たちに囲まれる。
怖かった。自分がこれからどうなるのか、想像も出来なかった。
お爺ちゃんが言った。
「夕黄。どうやら夕黄の中に悪い病気さんが住んでおったみたいだ。この人たちがその病気を治してくれるから、一緒についていきなさい。大丈夫だから」
車へと背中を押される。首を必死に曲げ、後ろを見るとお爺ちゃんとお婆ちゃんが手を振っていた。車の扉が閉まる瞬間、お婆ちゃんの声が聞こえた。
「え! そんなに貰えるの!?」
罰なんだと思った。
元はと言えば私がお姉ちゃんなんていなければいいんだと思ったからだ。
お姉ちゃんにさよならも言えないまま、それから十年以上が経つことになる。
今ではもう、どこにいるからも分からない。
私が連れて行かれたのは、病院とも似つかない白い建物だった。金網フェンスに囲まれ、出入口には遮断機。病気を治す場所と言うよりも、囚人を逃がさない監獄だった。
建物の中は白一色に染められ、清潔や清楚と言うよりも潔癖な印象。
蛍光灯だけの無機質な廊下は距離感を歪ませる。
私に話し掛けてくる人は皆、マスクにゴーグルで顔の判別もつかなかった。
それほどまでに自分は汚れた存在なのかもしれない。
「顔を上げて」
俯いて歩いてると、不意に声を掛けられた。
そこにはマスクもゴーグルも付けていない女の人が立っていた。
「初めまして。私は白濱ユリカ。よろしくね」
眼鏡が知的に見える綺麗な人だった。
朝美山国立病院。病院とは名ばかりで、人目を拒んだように山の上に作られたここは患者さんなんて来なかったし、それを受け付ける窓口なんて端から用意されていなかった。
朝は八時に起床。食事は八時半、十二時半、十九時に。夜は二十二時に消灯。
建物内は医療関連書籍ばかりの図書室、唯一緑を拝める天窓で蓋をされた中庭、そして鉄臭い診察室の三つだけ。人気は全くなく季節を語る虫の羽音一つしなかった。
正確に言えば部屋はもっとあったが、空き部屋や鍵付きばかりで私には関係がなかった。
「ここ何もないでしょ。もう本当死ぬほどつまらないんだから。まぁ死ねないんだけどね」
そう言ってユリカさんは自虐的に笑った。
もう十年ここで暮らしているらしい。
「おいで。色々教えてあげる」
ユリカさんは私の手を引くと、施設を回りここでのマナーやルールを教えてくれた。
ずっと妹が欲しかったの、と隙あらば私を抱きしめ、頭を撫でてくるような人だった。
別に寂しいとか感じたことはなかったのに、包まれた時に伝わる人肌に涙が出そうになるのは秘密だった。
――ここはとにかく暇だった。
自室として与えられた六畳間の部屋にはベッドが一つと机、それからタンスがあるだけ。決められた区画から出ない限りは何をしていても自由だったが、ユリカさんに遊んでもらう以外にすることがなかった。それはユリカさんも同じだったようで朝食の時に合流した後は、基本的にはずっと一緒にいた。
二人でやることと言えば専らお喋りか、中庭に咲く花を使った遊びだった。
シロツメクサを使った花冠を一緒に作っている時に私は訊いた。
「ねぇどうしてユリカおねえちゃん以外に誰もいないの?」
職員とすれ違うことはあったが、皆ゲームのキャラクターみたいに同じ事しか口にはせず、移動中の所をたまに見掛けるだけ。私やユリカさんと同じ暇を持て余した白い患者服を着た人は他にはいなかった。
「何年か前まではいたんだけどね。皆退院しちゃったんだ」
影のある笑い方だった。
「ごめんなさい。 ……寂しかったの?」
「んー…… 今はぁ寂しくないかな!」
私を抱き寄せ、脇腹をくすぐった。声を出して笑う私にユリカさんも楽しそうに笑う。
入院して七日目。久しぶりに笑った日だった。
私には本物のお姉ちゃんがいたけど、友達みたいな距離感だった実姉と違って、ユリカさんは何でも知っていて優しくて頼りがいのある、もう一人のお姉ちゃんみたいな存在だった。
当時のユリカさんが私のことをどう思っていたかは今ではもう知る由もないが、私は尊敬していたし、好きだった。
「白濱さん、そろそろ時間ですよ」
中庭の出入口を見ると、マスクとゴーグルの職員の人が立っていた。
「夕黄ちゃんごめんね、また後でね」
ユリカさんは一日に一回、診察の時間と称して姿を消した。余程過酷な診察なのか、戻ってきた時は必ず青ざめた顔をしていて、時には私と会わずに部屋に籠もってしまうこともあった。
ある日訊くと「苦いお薬を飲まなきゃいけないの」と困ったように笑った。私もいつか同じものを飲むのか、と心底嫌になった。辛いのは嫌いだから。
その日は雨が降っていた。中庭にも灰色の空気が浮かんでいて、心なしか施設全体がくすんでいるようだった。
「白濱さん、時間ですよ」
職員に呼ばれ、ユリカさんが診察でいなくなる。廊下の角に姿を消すのを見届けると、私は急いで図書室へと向かった。
小難しい医療の本を読んで、その知識で驚かしてやろう。そんなイタズラ心が芽生えていた。
でも私が思っていたよりも本の内容は難しく、ユリカさんに習った平仮名だけでは内容の一割も理解出来ず、気持ち悪い人間の断面図ばかりを眺めた。
「夕黄、何してるの?」
いつの間にかウトウトとしていた。掛けられた声に振り向くとユリカさんがいた。
私が座る円卓に近寄ってくると、手元を覗いてきた。
「あっ、これは夕黄にはまだ早いよ」
「何て書いてあるの?」
私は見出しとおぼしき漢字を指差した。
ユリカさんは耳まで赤く染めると「知りません」と無理やり本を閉じた。
「全くもう……」と隣の椅子に座ってくる。私はユリカさんの膝の上に席を移した。
「甘えん坊なんだから」
「ちーがーう! ここの方がテーブルの高さが丁度いいの!」
お尻の位置を調整して、太股の間に体を納める。
「夕黄は好きな人っている?」
「ん? 急に何でそんなこと訊くの?」
「この本がそういう人間の本だから、ついに」
改めて表紙を見る。やっぱりよく分からなかった。
「好きな人? んー、分かんない」
私は安心感をくれる背もたれに倒れ込む。
「ユリカおねちゃんは? 好きな人っているの?」
「いたよ。中学生の時にね」
「どんな人?」首を上げて顔を見る。
「幼馴染。恋愛対象として見てないはずだったんだけどね。私がこの施設に入ることになった日にそいつ大泣きして。結局見送られる最後まで毎日泣いて」
「それで好きになっちゃったの?」
「好きになったっていうか、好きだったんだなって気付いちゃった感じ。しかも最後の日にね」
そう言ってユリカさんは眉を曲げてヘンテコに笑った。
「へぇいいなぁ、私も幼馴染欲しい!」
「思ってるほど良いものじゃないよ?」
「それでもいいの!」
それは憧れみたいなもので、知らないからこそキラキラ輝く宝石みたいに感じるもの。
それから私たちは現実の幼馴染と理想の幼馴染を語り合った。
淡く聞こえてくる雨音のベールが世界を小さく包み込む。そこには私たちしかいなかった。