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第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について

 第四話 好きとかいうこの世で最もいらない感情について


 私の家はどこにでもあるごく普通の平和な家庭だった。

 朝にスーツを着て出勤するお父さんがいて、それをお見送りするお母さんがいて、毎日起こしてよと階段を駆ける六つ上のお姉ちゃんがいて。夜になれば全員が一つの食卓を囲み、クイズ番組を見ながら皆であーでもないこーでもないと笑い合うのだ。

 その日は私が五歳になる誕生日だった。

 おもちゃ屋に向かう車に家族全員が乗り込み、私は後部座席で今日買ってもらう魔法少女の変身道具について、あれこれと家族に言い聞かせた。

 赤信号に捕まる度、私はシートベルトの中で跳ね飛び、隣のお姉ちゃんに怒られた。

「全くもう、どんだけ楽しみにし――」

 体が潰れた。窓が割れ、ドアがひしゃげ、悲鳴と轟音が頭をいっぱいにさせた。

 ――ハッとすると、私は家にいた。

 目の前に朝食のトースターとサラダが置かれていた。

「あれ、今おもちゃ屋に向かってなかったっけ?」

「もー何言ってるの夕黄。あなたの誕生日は明日でしょ?」

 翌日、私はまたお母さんから同じ台詞を言われることになった。

 私の誕生日に事故が起きる。赤信号で停車中に横からトラックに突っ込まれるのだ。

 そのことをお姉ちゃんに言うと、姉はプハァっと吹き出し、一冊の漫画を取り出した。

「これ読んだんでしょ? 漫画は作り話なんだよ。でも夕黄凄いね、小学校入る前なのに文字読めたんだ。偉いねー」

 漫画は読んでない。文字も読めない。私は何度も否定したがお姉ちゃんが信じることは一切なかった。

 ムキになった私は地団駄を踏んで、お姉ちゃんを叩いた。でも五歳児の力なんて高が知れていて、お姉ちゃんは「はいはい、強いつよーい」と嘲ることしかしなかった。

「お姉ちゃんなんていなければいいんだ!」 

「あ! 夕黄! なんてこと言うの!」

 お姉ちゃんの怒鳴り声に私は泣いてしまった。

 正直に言えば、お姉ちゃんのことは好きだった。でもその時ばかりは私の感情は振り切れて、お姉ちゃんなんていなければよかったんだ、と本気でそんなことを考えた。

 その翌日、誕生日。

 お母さんが酷く困惑した顔で言った。

「あなた、家に知らない女の子がいる」

 お父さんは言った。

「夕黄、おウチに友達を連れてくる時は事前に言っておかないと駄目だぞ?」

「お父さん、お母さん。私だよ! (あさ)()だよ!」

 お姉ちゃんは必死に二人の子供であることを訴えたが、お父さんもお母さんも、冗談の色は見せず、知らない子供に「お父さん」「お母さん」と呼ばれる不気味さを苦虫を噛み潰したような表情で聞いていた。

 私は悟った。

 理屈も論理的思考も持ち合わせていないからこそ、すぐに直感的に分かったのだろう。

 私が願ったからお姉ちゃんはいなかったことになったのだろう、と。

 今思えば、これが崩壊の始まりだった。

 両親はまず警察を呼んだ。警察の調べで戸籍が確認され、実の娘であることが立証され、お母さんはヒステリーを起こした。

 こんな子は知らない。腹を痛めて産んだ覚えはない。ウチには夕黄だけ。

 だがしかし、家の中にはお姉ちゃんがいたことを物語るものが多過ぎだ。

 人数分の食器、服、写真……

 お爺ちゃんとお婆ちゃんまでもが家を訪れ「あんた自分の娘を忘れた言うんか!?」と二人は怒鳴り、お母さんは「ホントに知らないのよ!」と一日中大声を上げあっていた。

 お父さんは取り乱すことはなかったが、静かに頭を抱え、項垂れ、お姉ちゃんに一言「すまない」とだけ言い、まだ成長しきっていない体を拒絶した。

「夕黄は…… 夕黄は私のこと覚えてるよね?」

 涙目のお姉ちゃんを可哀想に思った私は、小さく頷き、お姉ちゃんの縋るような抱擁を甘んじて受け入れた。私のせいだとは言わずに。

 私が五歳になった一週間後。

 お父さんとお母さんは精神科に通院することになり、私とお姉ちゃんは母方の祖父母の家へと引き取られることになった。

 こうして、私の家は崩壊した。


 祖父母の家に来てから数日が経過した。

 よくあるドラマみたいに引き取られた家で壮絶な家庭内暴力が…… ということはなく、祖父母は優しくそれこそ私の家と同等かそれ以上に手厚く歓迎してくれた。

 手本のような、絵に描いたような、そんな枕言葉が自然と付いてしまうほどだ。

 だからこそだった。いっそのこと酷い生活環境になってくれれば、私は目の前の出来事だけに嘆き悲しんでいられることができ、自分がしでかしたことの重さに気付かないでいることが出来たのかもしれない。

 卵焼きが砂糖じゃなかった。肉じゃがの味が違った。お風呂が実家より熱かった。

 そんな生活の微妙な差のせいか、より一層に元の生活と比較してしまう。

夜中にトイレで目を覚ませば、隣でお姉ちゃんが声を殺して泣いているのをよく見かけた。

 自分が起きたことを知らせるように態と「トイレトイレ」と言って縁側に出ると、しばらく縁に座って外を眺めることをした。

 そうしていることで不意に誰かがやってきて、今の状況を変えてくれるじゃないかと期待をしていたのだ。でも当然、そんなドラマチックなことが起こることはなく、私はまた布団に潜り、同じ場所で目を覚ます。

 越してから数週間が経つと、お姉ちゃんは新しい小学校に通い始めた。

 今思えば、田舎特有の理由だったのだろうか。お姉ちゃんは絶対に家では学校の話をしなかったし、週に一回は具合が悪いと言って、休む日があった。

 まるで別人だった。昔はご飯時には必ず学校での話が添えられ、寝る前には明日は誰々と何をするの、と私の入学意欲をそそっていたのに。冬が来る頃には元気なお姉ちゃんは見る影もなくなり、日向を避け、暗い所を好んで歩くような岩の下にいる虫みたいになっていた。

 ある日の夜、私はお姉ちゃんと並んで同じ布団に潜ってお喋りをしていた。中身なんてない不毛でたわいもない話だ。祖父母の家の料理は薄いだとか、トイレが薄暗くて怖いだとか。

 そんな話の中でお姉ちゃんがポツリと溢した。

「……おウチに、帰りたいな」

 その言葉は、魂に響いた。大袈裟とかではなく。

 ここでの生活が始まってからずっと感じていたズレ、違和感を一言で表現した言葉だった。

「私も帰りたい」口にしてはいけない台詞だった。

 それ以来、私は寝ても覚めても家のことばかりを考えるようになってしまった。簡単に言えばホームシックだ。日に日にその想いは積もるばかりで、一番近いお姉ちゃんと共有するそれは手を繋いで加速度的に増えていった。

 そして雪が降った日、限界を向けた。

 私は実家に帰ることにした。お爺ちゃんとお婆ちゃんに言えば止められるに決まっている。お姉ちゃんもきっと止めるだろう。お姉ちゃんはいつも帰りたいとは言うが、帰ることが駄目なことだと分かっていて、それに縛られているのだ。

 だから私一人で帰らなければいけない。

 荷物を赤いリュックに詰め込み、お姉ちゃんが学校に行き、お爺ちゃんとお婆ちゃんが畑に向かったのを見計らって、私は家を飛び出した。

 降り続ける雪。空も、屋根も、車も、地蔵も。みんな白くなっていく。

 車で来た時のことを思い出して、景色を頼りに歩いて行く。

 迷子になるまでに時間は然程かからなかった。

 見慣れた景色は雪で姿を変えて、自分がどこを歩いているのかさえも分からなくなる。

 水を吸った靴が重く体力を消耗させていく。手足の指先が冷え、感覚がなくなっていく。

 雪原の畦道を抜け、小さな橋を渡り、気付けば住宅地の真ん中を歩いていた。

 ふと足を止め、後ろを見る。固まった景色に温かさはなく、薄暗い冷たさの中に鬱陶しい雪がパラパラと降り続いていた。底知れぬ不安が私の足を掴んでいた。

 家に帰りたいだけなのに。どうして私は知らない所に一人でいるのだろう。

 自然に沸いてくる涙を拭う。また拭う。また拭う。また拭う。

 でも一度決壊したそれは止まることを知らず、勢いを増していく。

 これじゃあ祖父母の家に帰ることも出来ない。

 目から一際大きな粒が落ちた時だった。

「どうしたの?」

 突然掛けられた声に振り返ると、目の前には私と同じぐらいの男の子が立っていた。

 乱れそうになる声を必死に抑えて私は答えた。

「探してるの」

「何を探してるの?」

「帰り道」

 男の子はニカッと笑って「じゃあ良い場所があるよ」と私の手を掴んだ。

 引っ張ってくる手は温かく私は指先までその子の手を握り返す。

 着いた場所はバス停だった。屋根の下に入り、地図が貼られた掲示板を指差してくる。

「どこら辺か分かる?」

 私は首を横に振った。地理も全く分からない。

 男の子は腕を組んで悩むと「じゃあ大人の人に頼もう」と周りを見渡した。

 私も一緒になって辺りを見たが、雪の日の昼間に態々住宅街を歩くような人はおらず、影一つ見つからなかった。

「誰もいないね。でもバス停だししばらく待っていれば大人が乗ったバスが来るよ」

 私は首を縦に振る。時刻表を二人で見上げた。でも私は時間の読み方をまだ知らなかった。

「読める?」と訊くと男の子は「もうすぐだよ」と言った。

 今に思えば見栄だったのだろう。私も男の子も時計は持っていなかったし、男の子は正確な時刻は言わなかった。

 とりあえず私たちはバス停のベンチに腰掛けた。冷え切った指を温めるのに太股の下に置く。

「迷子になるなんて災難だったね」男の子が雑談の話題を切り出した。

「君は何してたの?」

 男の子の服装を見る限り、手ぶらで何をしていたのか想像出来なかった。

「おつかい。雪が降ったから外に行きたいってお母さんに言ったら、じゃあついでにおつかいしてきてって頼まれたの」

 そう言って分厚いマフラーの中から首に掛かったガマ口のお財布を取り出した。

「お財布の中に良い物あるんだ」

 良い物?

 興味を引かれて私は首を伸ばす。男の子が引っ張り出したのは赤い紐だった。

「何それ? ……あやとり?」

「うん。お母さんに教えてもらってさ。おまじない、なんだって」

「おまじない?」

「うん、人と人を繋ぐおまじないって言ってた。だからしばらくしたら大人の人が来るよ」

 私は慣れた手付きで行われる芸に目を奪われた。別に珍しいものではないのだが、素早い手捌きで行われるそれはテレビで見たバルーンアートと似ているなと感じたのだ。

 見やすいように小さな隙間を互いに詰め寄る。肩が触れる距離で私は見続けた。

「やってみる?」

「ううん。いい。見ている方が好き」

 それからどれくらい経っただろう。バスが来ても、私たち二人を不審に見てくるバスの運転手を「あの人は良くない大人の人だね」と二人で適当なことを言って見送り、降りてくる乗客にも声を掛けず、私は男の子がする綾取りを時間を忘れて見続けた。

 やがて辺りが真っ暗になってくると、一台の車が目の前で止まった。中からお爺ちゃんが顔を出した。どうやら私を探していたらしい。

「良かったね迎えが来て」

 男の子が自分のことのように笑った。私は後部座席から顔を出す。

「ありがと。また会えるかな?」

「うん、きっと会えるよ」

 エンジンを切っていた車が、寒さを思い出したようにブルリと震え出す。

「バイバイ」と手を振ってきた男の子に合わせたように車が動き出す。

 私は窓から身を乗り出すと、男の子の頬に唇を当てた。

 刹那を切り取って額縁に飾ったような出来事だった。

 自分でもどうしてそんなことをしたのかは分からない。ただ無我夢中で体が動いていた。

 私はその姿が見えなくなっても、名残惜しんでその姿が見えていた闇の中を見続けた。

 本当は分かっていた。名前も知らない男の子ともう一度会えるはずがないなんて。

 でもそれから十年以上経った今までも、私は一度としてその子のことを忘れる日はなかった。

 理由は分からなかった。初めて会った日から数日は頭から全く離れなかったし、唇に触れたあの感触を思い出しては頭を呆けさせた。

 その気持ちの正体に気付くのは、それから何年も経った日のことだった。

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