第三話 嘘だらけだった世界で
第三話 嘘だらけだった世界で
雪が降っていた。空も、屋根も、車も、地蔵も。みんな白くなっていた。
自分の色を忘れた雪は、羨ましいのか他の色をも奪っていく。足音もみんな同じになって、温もりさえも雪の前では自分を忘れてしまう。
だから雪のせいかもしれない。
周りの白い景色だけが印象的でその人だけがボヤけてしまっている。
その人は凄く悲しそうで寂しそうで、僕は慰めてあげたくなって声を掛けた。
「どうしたの?」
その人は振り返ると「探してるの」と言った。
「何を探してるの?」
――それが何だったのか、今ではもう全く思い出せない。
※
飛び起きたそこは自室のベッド? だと思った。
部屋を見渡し、階段を降りて居間に行く。
「おはよう」と声を掛けてくる夫婦であろう年配の二人に愛想笑いを向ける。洗面所らしき場所に行き、鏡を見た。
鏡の原理は分かっている。だからそこに映っているものが、紛れもなく自分の顔であると理解は出来る。だが、鏡に映るその顔に全く見覚えがなかった。
名前も、ここがどこかも、さっきの二人のことさえも分からない。
パニックにはならなかった。頭が真っ白で呆然としてしまっている、と表現した方が限りなく近いだろう。
僕が居間の二人の顔を交互に見ると、何か言いたそうなのを察したのか手を止めてくれた。
「どうした?」
「あの ……たぶん、記憶喪失になった、みたいです」
驚いたように二人は顔を見合わせて、やがてお爺ちゃんが言った。
「五年ぶりだな」
病院に連れて行かれ、診断されたのは突発性記憶障害というものだった。
それからというもの、自分の身の回りの環境を把握するのに日々を追われた。
まるで異世界に来たようだった。見るもの全てが新鮮で、昔の僕はこの景色をどういう風に感じて、どういう風に考えていたのだろうと思いを馳せずにはいられなかった。
彼、翠伸葉はどういう人間だったのだろう。同居するお爺ちゃんお婆ちゃんに訊くと良い子だったとしか答えは返ってこない。
本当に良い子だったのだろうか?
期待を込めて言われたであろうその台詞とは裏腹に、日を追う事に見えてくる学校の翠伸葉は孤独を描いたような人間だった。
翠伸葉はどういう人間だったのだろう。不良であったのか、はみ出し者であったのか。それを訪ねる友人さえもF組の中にはいなかった。
試しにクラスの人間全員に話しかけたことがあった。しかし悪い意味で皆良い人なのだろう。当たり障りのない発言だけが返ってきた。
「寒くなってきたね」と言えば「そうだね。そろそろコートを出さないと」と返事がくる程度。
教室での居場所のなさを肌で感じた。朝のホームルームの前、移動教室をする時、休み時間、帰り間際の賑わい。翠伸葉には楽しい一時を分かち合う友人が誰もいなかった。
寂しい、というより、何故なのだろうという疑問の方が大きかった。
「あのっ――」
そんな日々の途中だった。女生徒から突然声を掛けられたのは。
「記憶…… 喪失…… ですか」
いつもの場所と連れられた屋上で、蒼色音子と名乗る女生徒に説明する。
彼女は自分の中の何かと戦っているのかコロコロと表情を変えた。ひとしきり戦うと、態とらしく大きな溜息を吐いてから「じゃあ、改めてよろしくです」と諦めたように項垂れた。
「あ、はい、よろしくお願いします」
「畏まらなくていいですよ。敬称もいりません。呼び捨てでいいです。調子が狂うので」
そう言われても……
蒼色さんは僕にあれやこれやと質問をしてきた。どこに住んでいるのかとか、何を覚えているのかとか。だけど答えられたのは住所ぐらいなだけだった。挙げ句の果てには好きな料理も答えられず、あまりに無知過ぎて恥ずかしさを覚えるほどだった。
「携帯を出してください。使い方、分かりますか?」
「大丈夫だよ、それぐらい。記憶はね大きく分けて二種類あってね」
「言葉の意味や知識や概念は【意味記憶】個人の経験によるものは【エピソード記憶】認知症でもない限り記憶喪失の殆どはエピソード記憶の抜け落ちって聞きます。で、そんなことはどうでもいいので早く携帯をだしてください」
「……はい」最近知った言葉を意気揚々と説明しようと思ったらこれだ。
携帯を見せると画面を操作され「これが私の連絡先ですから、何か分からないことがあったら何でも相談してください」と蒼色さんは自分のアカウントを指差した。
「何でもって例えば、今日の昼ご飯どうしようとかでも?」
冗談のつもりで言ったのだが蒼色さんは至極真面目な顔で「構いませんよ」と言い切った。
「それを断るほど私の器は小さくないつもりです」
「じゃあ今日の晩ご飯は何にしたらいいと思う?」
「自分で考えてください」
「相談に乗ってくれるのでは!?」
「相談には乗りましたよ。自分で考えてくださいっていう答えです」
「……蒼色さんってもしかして変わってる?」
蒼色さんは破顔すると「確かに何か変わった気がしますね」とやっぱり少しズレた、変わった答えを言われた。
明日から屋上で昼ご飯を一緒に食べることを約束すると、その日は別れた。
「初めまして! 白濱ユリカです。よろしくお願いします」
転入生がきたのは翌日のことだった。
パッと見の印象は清楚系で明るくてモテそうな子だった。きっと僕とは縁のない子だろうなーっと思っていると、僕の後ろの席が彼女の席に指名されて少し驚いた。まぁ、それでもクラスで浮いてる僕には関係ないだろうと綾取りをしていると、首元をグイッと引っ張られた。
椅子ごと傾いて、逆さまに転入生が顔を出す。
「白濱ユリカ。よろしくね」
「は、はい。よろしく…… です」手本のような笑顔だった。
ホームルームが終わると、白濱さんの元には男女問わず様々な人が集まった。邪魔にならないようにしばらく席を外す。
すれ違いざまに一人の生徒の呟きが聞こえた。あれは確か一宮さんとかいったか。
「白濱ユリカ…… いける」
何がいけるのだろう? 僕は尋ねることはせず、トイレで時間を潰した。
授業が始まる少し前に席に戻ると、白濱さんが声を掛けてきた。
「聞いたよ。記憶喪失になったとか、私と同じだね」
「え!? 白濱さんも記憶喪失に!?」
「あ、ごめん。学校を知らないって意味」彼女は笑いながら言った。
「あとで一緒に学校を回ってみない?」
「え、一緒に?」
「嫌?」
「そうじゃなくて、その、僕なんかでいいのかなって」
「似たような境遇の人との方が気楽だから」
照れくさい。後頭部を掻きながら頷くと「では約束です」と小指を前に出された。
あ、あざとい…… こんなことを素でやる子がいるだろうか?
勘ぐってしまうが、疑った所で白濱さんが僕を食ってやろうと思っているわけでもあるまい。
小指を出すと、指を絡めてきて「ゆびきりげんまん」と小学生のように歌った。
「じゃあ明日の放課後に。今日は引っ越しの片付けがあるから」
そう言って小指を離すと、先生がやってきた。
不思議というか、何というか、変わった人だと思った。ただ悪意がないのは明らかだし、僕としてもドキドキしないわけでもなかった。
放課後になると、僕は昼休みに蒼色さんとした約束のために、少し時間を空けてから校門へと向かった。
帰宅ラッシュが終わり、人通りが全くなくなった校門の片隅で蒼色さんは待っていた。
手持ち無沙汰なのか散り始めた紅葉に目を凝らしている。こちらに気付くと一瞬頬を緩めたかと思うと、すぐに引き締めてみせた。
「翠さん、遅いですよ。あと一分遅かったら島流しの刑にするところでした」
「遅刻の罪重すぎない? 時間ズラそうって提案したのそっちじゃん」
「今度から女性を待たせるのは恋愛の駆け引きの時だけにしてくださいね」
「もしかしてそれデートに誘ってたり…… しないよね。ごめんなさい、すみません、冗談だから本気で軽蔑する顔をやめてください」
「ただでさえ文化祭の一件で色眼鏡で見られているのに、一緒に帰っている所なんて絶対見られたくありませんよ」
「そんなに嫌ならウチに来なくてもいいのに……」
「それとこれとは別です」
その日は蒼色さんがウチに来て、僕の記憶探しの手伝いをしてくれることになっていた。
具体的にどんなことをするのかは知らない。縁のある地を巡るならまだしも、ウチで?
小気味良い音に振り向けば、街路樹から落ちた枯葉を中学生の男女が踏みながら帰っていた。
家に着く。部屋に上げると、蒼色さんはぐるりと見渡して「綺麗というか、物がほとんどないですね。まるで囚人部屋です」と抑揚もなく平坦に言った。
「入ったことあるの?」
「はい、何度かお世話になってます」
「嘘!?」
「はい、嘘です」
こちらのジト目を嬉しそうにスルーすると、蒼色さんは僕のパソコンを点けた。
「あれパソコン? 部屋を漁って思い出の品でも引っ張り出すのかと思ったんだけど」
「私が学校に復帰した日に知らないアドレスからファイルが送られてきまして。いちよ訊きますが、このアドレスに心当たりは?」
携帯の画面を突きつけられる。機械で自動生成されたであろう英数字の羅列は当然身に覚えがなかったし、そこに隠された意味があるとも思えなかった。
「全くない」首を横に振る。
「ですよね。本文はなし。件名に一言〈sixth sense log.〉と書いてあるだけで意味不明でした。最初は迷惑メールか何かだと思ったのですが、そこで思い出したんですよ。以前、翠さんがよく友達とするというネットゲームの名前が確か〈第六感〉だったな、と。セキュリティソフトで安全も確認したんで、試しに私もゲームを始めてみて、この謎のファイルに入っていたソフトを起動してみたんです。そしたらこれ、もう表示されない過去のチャットログやプレイヤーの入退出の時間を抽出する解析ツールだったんですよ」
「ほう! ほう? それをして、どうなるの?」
「馬鹿ですね。昔のやりとりを読めるんです。過去を思い出すにはうってつけじゃないですか」
「あーなるほど、そういうことか…… って都合良すぎない? 怖いまであるよ?」
「はい。私もそこが引っかかりました。事情を知っている者が匿名で手を差し伸べてくれたのか、それとも悪意ある者の手のひらの上なのか。送ってきた人の真意は読めませんが、パンドラの箱でもあるまいし、一回やってみましょうよ」
特に反対意見もなかったので、僕は机の中にあった色々なパスワードが書かれたメモ帳を渡した。蒼色さんがカタカタと操作を始める。
見ていると、色んなウィンドウが開いては消えて、プログラミング言語が流れたりしている。
「翠さんは携帯の履歴とかは見ましたか? メッセージアプリとか、写真とか」
「うん、一通りは。でもほとんど携帯を使ってなかったみたい。写真は一枚もなかったし、誰かとのやりとりもパンダって人とのが十割以上」
「パンダ? ハンドルネームですか?」
「たぶん。内容はよく分からなかったけど、もしかしたらさっき言ってたゲームの話だと思う」
「その人とは記憶喪失になってから連絡は取りましたか?」
「送ってみたよ。頻繁に連絡取り合ってたみたいだし、記憶喪失になったこととか報告した方がいいかなって。でも五回ぐらい連絡しても既読すら付かないんだよね。もう一週間だよ」
蒼色さんは「不思議ですね」と言うと、再びキーボードを叩き出した。
どうして蒼色さんは僕に尽くしてくれるのだろう。文化祭の一件というのもはぐらかされて具体的に僕が何をやったのかは教えてくれないし。
「あ、解析終わったみたいです」
モニターを見ると画面いっぱいにテキストが表示されていた。
「これは、想像の一千倍はありますね……」
スクロールバーのノブの小ささを見ればそのエグさは僕にでも理解できた。一番上に書かれた年月日は約3年前、つまりは3年分の会話とログイン時間が表示されているのだ。
「これを全部読んでください」
「はぁ!? んな無茶な!」
「一日で読めとは言ってませんよ。本を読む感覚で毎日少しずつ読んでいけばいいんです。あ、私は手伝えませんよ? 目的は翠さんが思い出すことであって、これを読破することではありませんので」
蒼色さんは僕に席を譲り渡すと、ベッドに座って道中で買ったお茶を優雅に飲み始めた。
「まじか……」まさかこんな面倒なことになるとは思わなかった。
でもこれは自分のため、そう自分のため。そう言い聞かせると僕は文章に目を通し始めた。
読み始めて一時間が経った。
意味の分からないゲーム用語がたくさん出てきて眠くなってくる。チャット履歴を見る限り、僕はマイクで喋っていたみたいでパンダの一方的な文章ばかりが続く。それが余計に意味の分からなさに拍車を掛けて睡眠攻撃を仕掛けてくる。
蒼色さんを見ると、自分の携帯に送ったテキストデータで僕と全く同じものを読んでいるようだった。しかし集中力が完全に切れているようで、とんでもない早さでスワイプして文章を流し読みしている。
「あ」蒼色さんがこちらを見た。
「ご両親はいつ頃帰ってきますか? 挨拶とか面倒なので帰ってくる前には退散したいです」
「お爺ちゃんとお婆ちゃんならいつも十八時頃に帰ってくるかな?」
「祖父母と住んでいるんですか?」
「分かんない。たぶんそうなんだと思う」
「え、知らないんですか?」
「うん。一緒に住んでるみたいだからたぶんお爺ちゃんとお婆ちゃんかなって。二人は誰ですか? なんて失礼で訊けないよ。生活に不便はないし」
「両親とか兄弟とかは?」
「分かんない」
「気にならないんですか?」
「……今言われるまで気にならなかった」
自分の家族のことまで気がまわっていなかった。
それから僕たちはしばらく黙って履歴を読んだ。特に成果も出ず、その日はお開きとなった。
帰り際「送るよ」と言ったが蒼色さんは「記憶喪失に迷子になられては困ります」と断ってきた。玄関まで見送り、蒼色さんがドアを開けた所で僕は意を決して声を掛けた。
「あのさ、ずっと気になってたんだけどさ、その…… 恥ずかしいな……」
「何ですか?」キョトンとした蒼色さんが首を傾げる。
「僕と蒼色さんってどういう関係なの? 呼び捨てでいいとか、ウチまで来て記憶探しに手伝ってくれたりとかさ…… もしかして…… その…… こい」
「な、なな、何言ってるんですか!」
名前にそぐわず、顔を真っ赤にした蒼色さんが聞いたことのない声量を出した。
「じゃあ何なのさ」
「……ち」
「え?」
「と も だ ち!」
やけくそに言われた言葉を捨て台詞に、蒼色は玄関の扉を乱暴に閉めて出て行った。
その日の晩、食卓をお爺ちゃんとお婆ちゃんの三人で囲んでいるときに僕は訊いた。
「あの、僕の両親ってどうしたの?」
二人は顔を見合わせると、悪気も隠している素振りも見せず淡々と「知らん」と言った。
関わりがなくて本当に知らないように思えた。それ以上踏み込むのは今の生活を揺るがす気がして、僕は何も言わずご飯を口に運んだ。