プロローグ
プロローグ
相対性理論を聞いたことがありますか?
私は生物学が専攻なので、そんな詳しく知っているわけじゃないんですけど。ああ! 待って、待ってください! 難しそうな話だからって逃げないでください! 寝たふりもダメです。
はい、キャッキャしないでください。座ってください。
別に相対性理論を詳しく理解している必要はなくてですね、知っておくべきことは【光の速さに近づくほど時間が0に近づく】ってことだけです。
意味が分からないって顔してますね。えっと簡単に言いますと、動く速度が早ければ早いほど、時間はゆっくり経過するんです。時間の流れる速度は常に一定って思われていますけど、実は違うんです。光の速さを基準に世界は作られていてですね、光の速さを変えるぐらいなら時間の流れる速度を変えるように世界は仕組まれています。なのでその絶対的な光の速度に近づけば近づくほど、時間の流れはゆっくりになって、もし光の速さと同じになれたら経過する時間は0になるってことなんですよ。
え? じゃあ光より早くなったらどうなるかって?
その答えを知るためにお二人が関係あるんですよ。
※
小さい頃、そんな話を誰かにされた。いつどこで誰に誰と、なんて詳細なことは覚えていない。埃を被った記憶が頭の隅に残っているだけだ。
一年と三ヶ月ぶりに目覚ましが鳴り、体を起こす。目覚ましは使ったが、結局一睡も出来ていない。昨晩溜めに溜めた憂鬱な気分は胸に残ったまま。それとは裏腹に今日の天気はカーテン越しでも分かるぐらいに快晴だった。
『出席日数稼ぎのためでいいから、文化祭の日ぐらい来なさい。教室にいなくてもいいから』
一週間前、担任から電話があった。それが今日僕が学校に行こうとしている理由だ。
溜息で出来る限りの憂鬱を吐き出すと、意を決しベッドから飛び起きる。タンスから制服を、机の脇からスクールバッグを引っ掴むと、意思が揺らがない内に部屋を出た。
階段を降り、テレビの音が聞こえる居間に背を向け、玄関に向かう。
靴を履いた所で何か言ってから出ようかと思ったが、気恥ずかしが僕の背中を押した。
数ヶ月ぶりの外。残暑が居座る九月の日差しに、秋の風が頬を撫でる。
別に外に出ることに抵抗はなかった。だが、恥ずかしさというか、居心地の悪さが胸を掻きむしる。道行く人から刹那的に向けられる視線が、まるで後ろ指を差されているようだった。
早く誰もいない所へ行きたい。そう思うと、自然と足が早くなった。
どうして僕が学校に行く気になったのか。その理由は、立派に心変わりをしたからってわけじゃない。これでも卒業をする気はある。というのも自分の将来ためってより、ずっと世話をしてくれている祖父母のためと言った方がいい。まるで親孝行みたいで聞こえは良いが、本当のところはただ罪悪感をなくすためだ。恩を返すのではなく、貸し借りをチャラにする感じだ。
そもそも僕は自分の人生なんてどうでもいのだ。自殺願望とか破滅願望とかそういう若さを尖らせた青臭いものじゃない。中学生の辺りだろうか、ふと急に今の自分の人生は偽物のように感じたのだ。大人からしてみたらやっぱり若さ故の痛々しさじゃないか、と思うかもしれないが、きっといくつになってもこの喉に刺さった棘は抜けないだろう。
僕は自分の人生が誰かによって作られたハリボテのように思えるのだ。上辺ばかりの人間関係がそう思えたのかもしれない。愛情とか友情とか、心の底から信じられるものがなかったからかもしれない。とにかく原因は分からないが、自分の人生はこんなんじゃない、と思ったのだ。その違和感が日に日に増していった高校一年の六月。僕は満を持して不登校になった。
この話をネットゲームで知り合ったハンドルネーム〈パンダ〉にすると、
「いやいや全然不登校になった理由になってなくね?」と嘲笑われた。
「誰かに作られた気がするハリボテの人生を送るより、自分で選んだ不登校生活の方がよっぽど自分の人生を生きてるって感じがするよ」
適当に思い浮かんだ言葉を並べると、その考え方が妙に自分の中でしっくりときた。
通学路に同じ学校に通う生徒が多くなってくると、同じクラスの人と鉢合わせしたくなくて、白線に目を落としながら学校を目指した。校門まで来て顔を上げると、文化祭用に華やかになった入口とそこから続くテントに思わずドギマギしてしまう。
場違い感が半端ない。やっぱり来なきゃよかったかも……
勧誘告知装飾華美。目を回しそうになる廊下を早足で移動し、事前に言われていた職員室へと向かった。
職員室に入ると、担任の鳩月先生が手招きしてきた。
甘い香水を漂わせて、慈愛に満ちた表情で腫れ物を扱うみたいに語りかけてくる。
話のほとんどを右から左に受け流す。最後にここ最近配られた重要なプリントと文化祭のパンフレットを渡された。パンフレットの下に紙ではない。別の感触があった。
「開会式が終わるまでは他の皆と同じにしなさい。始まったあとは好きにしていいから」
職員室を出た後にパンフレットの下に仕込まれたものを取り出した。
『屋上』と書かれたタグが付いた鍵だった。
教室へ向かう間、自然に誰とも目を合せないためにパンフレットを読みながら移動した。
どうやら僕のクラスは映画の上映会をするようだった。
視聴覚室で上映するようで、教室前には案内が書かれた看板が立っていた。
引き戸に手を掛ける。薄い壁を貫通して、楽しそうな声が漏れ聞こえてきた。
生唾を飲む。できるだけ目立たないように。目立たないように。
最小限にドアを開け、体を滑り込ませる。近くにいた生徒が一瞬こちらを見て視線を戻した。
これ以上見られたくない。一瞬でも注目されたくない。視線を潜るようにして自分の席に座ると、向け場のない目をすぐに携帯へと向けた。メッセージアプリでパンダと雑談を交わす。久々に学校に来たことを報告し、驚く反応を楽しんだ。
時々視線が飛んできているのは気付いていた。でも声を掛けてくる人は誰もいなかった。
ホームルームが終わり、体育館で小ボケの効いた実行委員長の挨拶も終わり、ようやく地獄の窯から解放される。
自由に行動していいようになると、すぐに教室から抜け出し、屋上へと向かった。
廊下を所狭しと闊歩する生徒の山。人の多さと楽し気な雰囲気に、気分が悪くなってくる。胃袋を締め付けられて、耳の奥で心臓の音が聞こえ始める。こんなに動いたのが久しぶりだからだろうか、足取りもおぼつかなくなり、壁に手を掛けた。
早く、早く屋上に行こう。一刻でも早く誰の目にも付かない空間に行きたかった。
安息を求めて、一息に階段がある角を曲がった。
途端、体に衝撃が走った。短い悲鳴。パラパラと紙が舞い、頭が真っ白になる。出会い頭に人とぶつかったのだと気付くまでにだいぶ時間を要した。
「あっ、あ、ぁ、す、すみません……」蚊の鳴くような声が喉から搾り出る。
散乱したプリントを拾い集め始めたのは、ほぼ反射的だった。
額から脂汗がジワリと滲み出す。自分が注目の的になるのが嫌だった。周りから向けられる視線を想像するだけで汗が穴という穴から吹き始める。
プリントを集め終えると、相手に押し付けるようにして、顔も見ずに階段を駆け上がった。
「あ、ちょっと!」制止を求める声も無視して、息を切らして。
震える手にもどかしさを感じながら、屋上のドアの鍵を開けた。
重たい鉄の扉が閉まる音と共に、ずっと向けられていた視線を断ち切った気がした。
ドアに凭れて緊張の糸を吐き出す。貯水タンクの脇に移動し、ようやく人心地を着いた。
まだ心臓が高ぶっている。
ポケットから赤い糸で結ばれた輪っかを取り出し、いつものように綾取りを始めた。
昔からの癖だった。野球選手が打席に入ったらやるポーズとかと同じ類いのものだ。ルーティンといったか。昔から綾取りをすると自然と気持ちが落ち着いてくる。
富士山、流れ星、東京タワーと考えなくても無意識に手を動かし、形を作る。
思えば、小さい頃は良かった。世の中には辛いことが多いと知るよりずっと以前の思い出。毎日隣の家の幼馴染と朝から晩まで遊び続けていた。
泥団子を見せ合いっこして、ブランコでどっちが高くまで漕げるか競って、草の根をかき分けて見つけたゴミを宝物扱いして…… 息をし辛くなったのはいつからだろう。
ハッとしたのは、扉の閉る音がしたからだった。どうやら微睡んでいたみたいだ。
角から顔を覗かせると、見たことのない一人の女生徒がいた。生気を失った姿はまるで屍。不確かな足取りでフェンスへと近づいていく。何をするのだろう。
嫌な予感はあった。そしてそれは女生徒が腰の高さまであるフェンスを乗り越え出した所でようやく形となって、ハッキリと理解した。
「ま、ま待って!」角から飛び出す。
声を掛けたのは正義感からかくるものかは分からない。でもその時、自殺を止めたいと思って行動していたのは確かだった。
フェンスの向こうの女生徒が体ごと振り向く。
うなじが見えるほど短く切り揃えられた黒い髪。人目を気にしたような前髪。その奥にある無機質な瞳が僕を見つめていた。
「……やめた、ほうがいいと、思うよ」
女生徒は何も答えてくれなかった。その表情からは感情さえ読めず、今から自殺をしようとする人の顔とは思えなかった。悲壮感も悲哀感もなく、無感情で虚ろな目。
とにかく止めるための言葉を探した。
死ぬのは良くないとか、死んだら悲しむ人がいるとか、そんな当たり障りのない台詞しか出てこない。その程度のありふれた言葉は一体何人の自殺を止めただろう。
もし自分が自殺直前の立場ならきっと何の価値もない言葉だろう。
自殺する人はきっと自殺してはいけないことや、自分が死んで悲しんでくれる人のことを一度は踏まえて考えているはずだ。
自分だってこれまでに何度か考えた。何の価値もない人生を過ごすぐらいなら死んだ方がマシだと。でも死ななかったのは、自殺する程の勇気も絶望も錯乱も起きなかったからだ。
僕は片手を伸ばしたまま、言葉に詰まっていた。
そして言葉が出ないまま、タイムリミットがやってきた。
風が強く吹いた。女生徒の胸を押し、不気味なぐらい真っさらな青空の中へ、その姿を呑み込んでいく。
咄嗟に人差し指を反対に曲げようとした。でも瞬間的に骨折の痛みがフラッシュバックする。
【知らない女生徒の生死】と【自分の骨折の痛み】が天秤に掛けられる。計りが揺れ動く間、指一本動かすことが出来ず、ただ立ち尽くす。
遠くからリンゴが落ちたような音と幾つもの悲鳴を耳にした。
女生徒が死んだと理解するのに十秒が掛かった。