全人類マゾ化計画
とある事件をきっかけに、僕は学校をサボるようになってしまった。
今日も部屋に引きこもり、スマホゲームの周回をして時間を潰す。
時間を潰しながらも、僕は気が気でなかった。
そろそろ彼女がやって来る時間だ。
……そして。
軽やかなブザーの音。モニターを確認すると、山城さんが玄関前に立っていた。
寂しさと嬉しさが胸に広がって行くのを感じながら、ジャージの襟を正して玄関へと向かう。
「おはようございます。森田さん」
おはよう。擦れ声で挨拶を返す。
真っすぐに見つめてくる整った顔立ちから制服のブレザー、黒い革靴へと目を落とし、僕は唇を噛んだ。
「今日はいい天気です。散歩してみるのはどうでしょうか」
「う……うん」
いつもの優しい口調に、また僕は苦しくなる。
このままではいけない。あの事を、言わなければ。
「あ……あの……山城さん……」
「何でしょうか?」
「実は……山城さんにお願いがあって……」
「私に可能な事なら何でもお伺いしましょう」
僕は何度も深呼吸した。その間、山城さんはじっと待ってくれていた。
言いたくないけど、言わなければ。
「山城さん……悪いけど、もう来ないで欲しいんだ」
「どうしてですか?」
「えっと……山城さんにはすごく感謝しているのは確かで……山城さんのアドバイスのお陰で少しずつ外に出たり出来るようになって……それは感謝してて……でも……その……何て言うか……」
山城さんは、じっと微笑んで僕の話を聞いてくれていた。
少し息を置いて、僕は続ける。
「何ていうか……山城さんは、僕にとって眩し過ぎて……辛くなるんだ……」
「なるほど。森田さんは私に好意を抱いてしまったんですね」
「あ……いや……そういう訳じゃないんだけど……」
まあ……そういう訳なんだけど。
だって……そりゃ好きになるに決まってるだろ……学年一の美女が優しく親身になって勉強教えてくれたり、相談に乗ったりしてくれるとか……。好きにならない方がおかしい。
もちろん、山城さんは僕の事なんかどうせ何とも思っていないんだ。
学級委員としての責務の一環として、事務的にやってくれているだけだ。
分かっていても、そりゃ好きになっちゃうよ。可能性感じちゃうよ。
でも可能性なんてある訳ないんだ。
俺みたいなダメ助が、才色兼備な山城さんとどうこうなるなんて事は……億に一つもあり得ないし、あってはならないんだ。
だから辛いんだ……山城さんが来るたびに、自分の駄目さ加減を突き付けられているようで、苦しくて仕方なくなるんだ。分かってくれ。
気落ちする僕に向かって、山城さんは口元をそっと吊り上げた。
「つまり、私と交際出来る可能性を感じてしまうけれど、それは現実的ではない……その矛盾が森田さんにとっては、耐えがたい心労になっているという事ですね」
「…………」
完全にバレてる。分かっていても言わないで欲しかった。
というか、何で笑っているんだろう。
それも、いつもの優しい微笑みとは違う、貼りついたような不気味な笑み……。
「やはり、素質ありますね。森田さんは」
背筋に氷を突っ込まれたような寒気が走った。
何が起こっているのか分からないが、おかしなことが起きているのは間違いない。
「森田さんは、人類が幸福になる為には何が必要だと思いますか?」
何だそりゃ。
「えっと……今その話関係あるのかな?」
「大いにあります!」
……あるんだ。
「答えてください。人類が幸福になるにはどうすればいいんですか?」
「えっと……うーん……分からないな……あっ……みんなが頑張るとか?」
しかし、山城さんは呆れたように首を振るばかりだった。
「今はミクロ視点の話をしているのではありません。マクロ視点の話をしているのです」
「マクロ視点……ってなに?」
「巨視的、俯瞰的な視点という事です。社会全体を考えるにあたっては、マクロ視点が必要なのです」
「難しい話は良く分からないよ……」
「森田さんが勉強しまくっていい企業に入っても、その分いい企業に入れない人が出るだけで人類の総幸福は全く変わりませんよね。要するに、あなたが言う様に社会厚生の改善を個人の努力に頼るのは、牧場の家畜に努力を要求するような誤謬……全くのナンセンスという事です」
「人間と家畜は違うと思うけど……」
「同じような物です」
「……ええっ?」
人間を家畜扱いするなんて……山城さんってこんな人だったんだ。
……なんか、思ってた感じと違う。
零れる溜息と共に、淡くも切ない僕の初恋心が、新雪のように滲み消えていった。
「とにかく、私は見つけたんです! 全人類が幸福になる方法を!」
「へぇ……すごいね……」
正直、完全にどうでもいいなあ。
「人類の経済厚生を最大化する為に……古今東西様々な経済理論が提唱されてきた訳ですが……私の考案した新経済理論は社会主義やら資本主義等という欠陥だらけの古臭いザル理論とは一線を画しています! その発想は正にコペルニクス的転回……いやこの場合山城的転回と言って差し支えない程の……革新的……超越的な理論なんです! 聞きたいですか? 是非とも聞きたいでしょう? 聞きたくてたまらないでしょう? 人類の総幸福をいとも容易くジャンジャンバリバリ無限増幅させてしまう、驚天動地の錬金術的幸福生成ルーチン……その秘法を!」
「はあ……」
「全人類を幸福にする方法……それは……」
……沈黙が痛い。そんなにドヤ顔で溜められても、どうでもいい事に変わりないんだけど。
「それは……!!!」
「言うなら早く言ってくれないかな」
「せっかちですねぇ! そんなに聞きたいなら、教えてあげましょう……! 私の新理論……それは……」
また5秒ほど溜めてから、山城さんは大きく口を開いた。
「――全人類マゾ化理論です!!」
心の奥底にまだ欠片だけ残っていた山城さんへの恋心の残雪が、車のタイヤに踏み潰されて、薄汚い灰色のベチャベチャになっていく。
……百年の恋も冷めるという言葉が、今の僕の感情の全てだった。
そんな僕の気持ちも、山城さんにとっては知る由もないようで、さらにテンションを上げてノリノリで畳みかけて来る。
「どうでしょう? まさに天才的! 逆転的発想でしょう? 幸福の分配、最大化なんて発想が、そもそもの誤謬! 間違いなのです! 簡単な事なんですよ! 経済資源に限りがあるというのなら、無から作り出してしまえばいいのです!! どうしてこんなミジンコの赤子の手を引きちぎるより簡単な事に雁首ぶら下げた学者ども、政治家共は揃いも揃って気付かないんでしょうね??? 馬鹿なのかなあ? あっ、馬鹿だから仕方ないのか!! これはまさしくコロンブスの卵ならぬ、山城の卵ってやつですかね? おおっと! なんか下ネタっぽくなってしまいましたが! そこはまあサービスという事で! アハハハハハ!」
何てことだ……僕はこんなヤバい人の事を好きだったのか……。
「えっと……もう分かったから今日は帰ってくれないかな……」
「……遠慮する事は無いんですよ。これから始まる講義がいくら値千金の歴史的大演説と言えども、私は貨幣なんていう旧時代のゴミクズを要求する事はありませんので、もちろん無料で講義して差し上げます!」
「はあ……」
「もう理論名だけで大体の理解は及んでいただけたかと思いますが! そういう事なんです! マゾヒズムなんですよ! 人類を幸福にする最終究極兵器は! 苦痛を幸福に転嫁する事が出来れば、経済資源がいくら不足していようが、人類はすぐにでも幸福になる事ができるのです!! こんな素晴らしい理論は他にありませんよ??」
「その話と僕に、何の関係があるの?」
「それがアリアリのオオアリクイですよ! あなたには素質があるのです! 類まれなるマゾの素質が!! そう!! ズボンのチャックを閉め忘れてたのを女子に見られた程度で引きこもってしまう程繊細な心を持つ、森田さんにはね!」
「ひゃあああああああああああ!!!!」
「おおっと、思い出させてしまいましたか……これは失敬……アハヒヒヒヒヒヒ!!」
もう……何なんだよこいつ!!
「いい加減にしてくれ!!」
「でも、嫌だったでしょう、今」
「嫌に決まってるだろ! 折角忘れてたのに!!」
「それだけ嫌がるという事は、逆に素質があるという事なんです! マゾとしての素質がね……!!」
「僕はマゾじゃない!!!」
「どうどう落ち着いて……あのですね……聞いてください。マゾの本質とはつまり……こういう事なんです。人間は多大なストレスを受けた時、脳内麻薬を放出してストレスを和らげようとします!! これこそがマゾ快楽の本質です!! つまり、世界の窓から覗いた黄ばんだブリーフを見られた程度で引きこもる程ストレス耐性の低い森田さん、あなたのマゾ素質は正に天才的であるという事実が自ずと導き出せるんです!!」
「もうやめてくれ……頼むから……」
「その苦しみです……その苦しみを快感に転嫁するのです!! 私も手伝ってあげますから!! 人類の為に頑張りましょう!!!」
「そんなこと言われても、嫌なのは嫌だよ!! 頼むから帰ってくれ!」
「諦めないで頑張ってください!! まずはソフト目なNTRからです!! 想像してみてください!! 私が不良っぽい男……西川さんがいいですね。いかにもチャラそうな西川さんとデートしているのを偶発的に発見してしまったのを想像してみてください!!」
「心底どうでもいいよ。僕はもう、山城さんの事何とも思ってないから」
「そんな……!! 変な冗談言わないでください!! 何の為に散々優しくしてあげたと思ってるんですか???? あなたにはそのマゾ素質を存分に発揮して頂いて、人類をマゾへと導く英雄になって貰わなければならないのですよ?? 頼むから……目覚めてください!! ほら……! 目覚めろ!!!! 人類の永遠の幸福への鍵は森田さんが握っていると言っても過言では無いんですよ!! お願いします!! えっ……ちょっと……触らないで……ってなんで追い出すんですかああああああ??? ちょっとおおおおおお!! まだ話終わってないですよおおおおおおおお!! お願いしますよおおおおおおお!! 話だけでも……話だけでも聞いて下さいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
「僕はマゾじゃない!!」
山城さんの肩を家の外に押し出して、勢いよくドアを閉め、鍵を掛けた。
「チクショオオオオオオオオ!! 開けろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! クソマゾブタの分際でよおおおおお!! チクショオオオオオオ!! 明日も絶対来るからなあああああああああ!! 憶えてろよおおおおおおおお!!!!!!!」
山城さんはなおも罵詈雑言を叫んでいたが、その声も段々と遠ざかって行った。
……何とか帰ってくれたようだが、この調子だとまた明日も来そうだ。
もう心底来てほしくないんだけど……。
……どうすれば山城さんは、僕が繊細でもマゾでもないって分かってくれるんだろうか。
そうだ……明日から学校に行こう。