【へいさとし。(2)】 朝比奈 涼
俺が引きこもりになったきっかけは、とても些細なものだった。
大学入試の日に、目覚まし時計が止まっていた。棚から落ちた時計から、電池が抜け落ちたようだ。保険のために設定しておいたスマートフォンのアラームも、なぜか解除されていた。
それぞれが一つ一つの事象なら、なんてことはない。よくある不幸な出来事だ。
時計は電池を入れ替えれば動くし、スマートフォンのアラームも、新しく設定すれば使えるようになる。ただそれだけで済む話だ。
だが面倒臭い状況が、たまたま重なった日が悪かった。よりによってこんな日に。
その瞬間、何かがぷっつりと切れた。
どうせ頑張ったって、意味がない。
最初から俺の人生は、もう終りだったんだ。ならもういいか。どうでもいい。
そう思った瞬間、家を出られなくなった。あれからずっと、俺はこの家にいる。
このままずっと、引きこもり生活が続けられるとは思っていなかった。そこまで俺は楽観主義者ではない。何をしているんだと自分でも思う。
ずっと引きこもっていたせいで、不慮の事故で亡くなった母の葬式にすら出られていない。俺はとんでもない親不孝者だった。
いつかは破滅するしかない道であることはわかっている。それがいつになるのか、ずっと見て見ぬふりをしているだけだ。
とりあえず明日もまた、今日と同じ日が来ることを祈りながら、どうでもいいことで時間を潰して、ただ食って寝てを繰り返すだけの日々だった。
屍のような毎日。俺は生きているのに死んでいた。
惨めでみっともなくて、どうしようもない人生だ。そんなことは自分が一番よくわかっている。
ふとした瞬間に、吹き荒れる雪の中に、立ちすくんでいるような感覚に襲われる時がある。吹雪で真っ白で、何も見えない。一歩も動けない。
快適なエアコンが効いている部屋にいるのに、心の奥底が冷え切って、どうしようもないほど、寒くて凍えてしょうがない。世間という冷気に、身動きが取れなくなって、がんじがらめになっている自分がいた。
そんな時に痛感する。なんて自分はゴミなんだろうと。
サボテンをくれた貞子にも、悪いことをしたかもしれない。こんなゴミになってしまった俺に何かをくれるやつなんて、もう誰もいない。俺には未来なんてものすらない。
割れた植木鉢と、潰れたサボテンをゴミ袋に入れようとした。サボテンのトゲが刺さって、指先から小さな赤い血が球のようになって溢れてくる。
こんなゴミみたいな人間でも、ちゃんと細胞は生きてるんだな。そう思ったら、なんだか笑えてきた。なのに不思議と、頬には涙が流れていた。
弟の友也と喧嘩した日の夜のことだ。
おかしなメールが届いた。
存在したいなら「Yes」を、消えても良いのなら「No」を選べと迫られて、わけもわからずに「Yes」を選択した。すると突然、青いライオンの着ぐるみ人間たちに拉致られたのだ。
やつらは無理やり扉を壊し、俺の部屋に入ってきた。有無を言わせず、俺は部屋から連れ出され、窓のないワンボックスカーに押し込まれた。
かなり長い間移動をして、連れてこられたのは、ワンルームマンションみたいな部屋だった。
意味がわからない。
俺の人生はそんなに呪われているのか。
確かにオムライスの味が違うだけで、小さなゴキブリが入っていたからといって、お手伝いさんに皿ごと投げつけるのはやりすぎだったかもしれない。
だからって、こんなわけのわからない施設に、勝手に入れられる筋合いはない。なんの説明もなく監禁状態なんてありえない。こんなの犯罪じゃないのか。
警察にでも連絡したいところだが、あいにくこの部屋には電話なんてものは見当たらない。
白い壁とベッドしかない殺風景な部屋に、ずっと閉じ込められている。ユニットバスやトイレもついているし、時間が来ると小さな窓から食事も出てくる。生きていけるだけの環境は揃っているが、テレビやパソコンどころか、スマートフォンもゲーム機もない。
こんな部屋で、ずっと過ごすのはひたすら苦痛だった。
あれほど引きこもり生活を望んでいたはずなのに、こうやって強制的に引きこもり状態にされると、逃げ出したくなるというのは皮肉な話だ。
もしかして、それが目的なのだろうか。俺を引きこもり状態から、自立を促すための施設か何かなのかもしれない。
きっとこれは、弟の友也が仕組んだことに違いない。昔からあいつは俺の邪魔ばかりをする。俺のやることなすこと真似をして、俺が望むものを目の前で手に入れておいて、わざとこれ見よがしに捨てるようなことをくり返す男だ。
他人から見たら、ただ弟が優秀すぎるがゆえに、飽きっぽい性格になってしまったかのようにしか思えないだろう。
だが違うのだ。あいつはわかっていて嫌がらせをやっている。わざと俺に劣等感を抱かせるためだけに、俺を踏みにじる行為を楽しんでいるのだ。
今度はようやく俺が手に入れた、引きこもり生活を取りあげようとしているに違いない。こんな施設に強制的に家族をぶちこむことぐらい、あいつなら喜んでやりかねない。
今にして思えば、受験日に時計の電池を抜いたり、スマートフォンのアラームを止めたりしたのも、あいつかもしれない。当然のことながら、今回の拉致行為も、弟の仕業の可能性が一番高い。
きっと来月に結婚をして、我が家にあいつの嫁が住み始めた時に、残念な引きこもり兄とばったり遭遇するなんてことは、何が何でも避けたかったのだろう。
あいつにとって俺の存在は、汚点以外の何物でもないはずだ。醜態を晒す前に、お荷物である俺をなんとかしたくて、強行手段に出たということかもしれない。
だったら、たとえ外部と連絡を取る手段があったとしても、助けを求めるだけ無駄というやつだ。
この監禁が終わるのが、一体いつになるのかはわからないが、ひたすら我慢するしかないのだろうか。
アラームが鳴り、食事の受け渡しをする小窓の前に立った。足跡のマークがあるところにしばらく立っていないと、扉が開かないようになっているらしい。これでは餌をもらうために、尻尾を振りながら待っている犬のようだ。
情けない。どうして俺がこんな目に。
時計も窓もない部屋では、今が朝なのか夜なのかすらわからない。提供されている食事が、どのタイミングなのかも謎だが、今回のメニューはオムライスだった。もちろん俺の好きなデミグラスソースの味付けではない。安っぽいケッチャプライスのやつだ。
実に気に入らない。だからといって皿を投げつける相手もいない。ゴキブリが入っていないだけマシだ。仕方なく、俺は黙って平らげる。いつものように食器を戻すと、ベッドに横になった。
何もすることがない。暇だ。ひたすら暇だ。
ふいに頭に浮かんだ数字を口に出す。
なんだっけなこれ。そうだ、円周率だ。
確か小学生の時に100桁まで覚えた記憶がある。なぜ100桁までかというと、俺が覚えた直後に、弟の友也が500桁を覚えたと自慢してきたから、一瞬で興味を失ったからだ。ただそれだけだ。
すっかり覚えたことすら忘れていたが、何度も訓練したことは、体が覚えているようだ。歌うように数字を読み上げる。小学生の頃の俺は、なぜこんな無意味なことに夢中になっていたのか。本当に不思議だ。
よく考えてみたら、学校の勉強だって、ほとんどが無意味かもしれない。特に暗記だけを強要する教科は、滑稽極まりない。外にはすでに正解があるのに、わざわざ自分の脳に入れた情報を、もう一度外に出して確認するなんて行為は、まったく意味がないはずだ。
なのに、いくら無駄なことでもできるようになると、なんだか楽しく感じてしまうのは、人間の脳の神秘というやつだ。
人間というものは、人生に何の役にも立たないことのほうが、むしろ夢中になれることが多いのは、なぜなのだろう。
ゲームの経験値稼ぎやガチャだってそうだ。やってもしょうがないことをしたほうが、心が躍るなんて、人間の精神を設計した神様とやらは、かなり無能なのではないだろうか。
誰もやりたがらない面倒な仕事や勉強をする時こそ、快感を覚えるように進化していれば、俺たち人類は、もっと理想的な世界を作れていたはずだ。
だがそんな理想郷ができたとしたら、俺のような残念な人間は、きっと存在していられなくなるだろう。ゴミとして真っ先に処分されるにちがいない。