【へいさとし。(1)】 朝比奈 涼
「いつまでこんなことを続けるつもりだ。いい加減にしろよ。恥ずかしくないのか」
部屋の前で、弟の友也が叫んでいるのが聞こえる。
ずっと引きこもっている俺を、まともな人間にしたくてしょうがないらしい。
今さら、そんなところで怒鳴ったって無駄なのに。もう手遅れなんだよ。そんなこともわからないのか。
俺は壁を殴った。何度も何度も怒りに任せて、壁を殴りつけた。それでも怒りは収まらず、スマートフォンを取り出して、『死ね』と書いたメッセージも送った。
どうしてほっておいてくれないのか。
ただ何も邪魔をせず、こちらの要求するご飯さえ用意してくれれば、それだけで平和に過ごせるのに。わざわざ人の気に触るようなことばかりをしてきて、社会不適合者だと決めつけて、そんなに俺を殺したいのか。
「どういうつもりだ。人に作ってもらったご飯をこんなにして」
うるさい。うるさい。うるさい。
誰だって怒るだろう。食べようとしていた物に、ゴキブリが入っていたら。
今の新しいお手伝いさんに変わって、ご飯が美味しくなくなった。同じレシピで作っているはずなのに、今のお手伝いさんは、明らかに料理が下手だ。だから正直にそう伝えただけだ。
そうしたらこれだ。あの女、わざと嫌がらせでやったくせに、自分は被害者みたいなふりをしていやがる。いい加減にしろ。被害者はこっちのほうだ。
「毎日作ってもらってる人に、感謝のかけらもないのか」
ゴキブリを混入するような女に、感謝なんてするわけないだろ。ふざけるな。
ムカついて壁に投げた雑誌が、鉢植えのサボテンに当たって落ちた。小学生の頃に、クラスメイトからもらったものだ。確か貞子とかいう陰気な女子だった気がする。
急にサボテンなんか渡されても、あんまり嬉しくはなかったが、誕生日でも記念日でもないのに、他人から初めてもらったプレゼントだったこともあり、一応は大事に育てて、やっと花を咲かせたところだったのに。
割れた植木鉢と土の重みで、サボテンだけではなく、せっかく咲いた花も潰れている。これでは植え直しをしたところで、回復は難しいだろう。
命が終わる前日に、花を咲かせるなんて、サボテンには予知能力でもあったのだろうか。
それとも、今頃になって、生えてくる場所を間違えたことに気づいて絶望し、すべてを諦めた瞬間に、まるで狂い咲きのごとく、花をつけただけなのかもしれない。
サボテンだって、今さら枯れたくはなかったはずだ。勝手に植木鉢に入れられて、場違いな所で育てられて、最後がこんなとばっちりとは。ご愁傷様としか言いようがない。
あいつが俺を怒らせたりしなければ、こんなことにはならなかった。いつだってそうだ。あいつはろくなことをしない。
「兄さんには対話が必要だよ。ちゃんと外に出て、家族ときちんと今後のことについて、話し合いをするべきだ」
弟の友也は、俺とそっくりな声で、いつだってもっともらしいことを言う。正論というやつだ。まるで自分が自分に説教をしているみたいでタチが悪い。時々、俺は幻聴を聞いているんじゃないのかという錯覚にさえとらわれそうになる。
やつは、さも当然のように、植物には水をやりましょうみたいな、当たり前のことをドヤ顔で言っているようだが、もしその植物がサボテンだったら、どうするんだ。そんな視点があいつには欠けている。
サボテンに水をやりすぎたら枯れるって、知らないわけがないのに。いくら同じ植物でも、種類が違うものに、同じことをしようとするほど愚かなことはない。
ぼっちで引きこもってる人間に向かって、人とは仲良くしましょう、みんなと協力しましょうっていうのも、同じじゃないのか。水をやりすぎたら死ぬやつだっているんだよ。人との接触が、毒になるやつもいるんだ。
なのにお前は笑顔で、たっぷり水をあげますよって近づいてきて、相手を殺すための、死の水をかけ続けてるんだ。お前みたいな偽善者は、その自覚がないから一番最悪なんだよ。
「未来について、もっと真剣に考えるべきだ」
扉の向こうから聞こえる『未来』という言葉の、うすら寒さにヘドが出る。
未来なんてどこにあるんだ。
俺はもうすでに、いろんなことを諦めている。なのにあいつは、これ以上さらに追い込んでくる。
もう限界なんだ。ほっといてくれ。
「こんなところにいたら、兄さんはダメになる。お願いだから出てきてくれよ。兄さんのためなんだよ」
何が俺のためだ。偽善者め。お前の世間体のため、自分の保身のため。全部自分のためのくせに。
「これ以上続くようなら、僕だって、庇いきれなくなる。最悪、強制的に扉を壊すことだってできるんだぞ。でもそんなの嫌だろ。違うのか」
嫌に決まってる。
答えの決まっていることを、なぜ質問するのか。
もしジャングルに足を踏み入れた冒険者が、故意に蛇を踏んだら、噛まれても当然だ。なのにやつは「蛇がそこにいること自体が間違っている」と激怒をする。
あげくに蛇は危険だからと、森を伐採し、焼き払おうとまでする。それがいかに馬鹿げたことか、誰にでもわかるはずなのに。
なぜ人間相手には、そんな当たり前のことすら考慮してもらえないのか。家族なら何をしたって許されるとでも思っているのか。
お前が俺に何もしなければ、俺は普通に生きられたのに。
ずっとこれからも、透明人間みたいにして、かろうじて生きながらえることができるのに。
お前がやろうとしていることは、わざわざ透明人間にペンキをぶっかけて、「ここにゴミがいます」と世間に知らしめて、俺を社会的に殺そうとしているだけだろ。
お前はゴミを処分できて気持ちいいかもしれない。
だが、俺はお前の気分を少しだけ良くするためだけに、精神的に殺されるなんて、死んでもごめんだ。
「兄さんはこれからもずっと、誰とも話さず、閉じこもってるつもりか」
誰とも話さないで一日が終わる。それの何が悪い。
大昔の人間は、遠い場所まで狩りをして、獲物を捕まえるまで、サバンナや森の中で身を潜めて、ずっと黙っていたんじゃないのか。大昔では当たり前だったことも、今では変人扱いだ。
俺が異常なんじゃない。
この世界が、俺に適合しなくなっただけだ。
ようやく扉の向こう側が静かになった。俺に説教して優越感に浸ることに飽きたのだろう。
人間は説教している時は、性行為をしている時より、快楽を感じているという話を聞いたことがある。本当かどうかは知らないが、あいつが俺に説教したがるのも、人間の本能というやつなのかもしれない。
スマートフォンが振動する。
見たこともないアドレスから「外に出ないと、消されますよ。逃げてください。あなたが存在するために」という題名のメールが届いていた。『予言の書』というニュース記事のような画像が勝手に表示される。
なんだこれ。迷惑メールか何かだろうか。よく確認もせずにそのまま削除した。
わざわざこんな嫌がらせじみたメールを送りつけてくる意味がわからない。誰かに消されなくても、俺はもうすでに、世の中から存在を消されているようなものなのに。