【かぞくとし。(1)】 朝比奈 友也
二階で食器の割れるような音がした。
様子を見に行くと、廊下にはオムライスだったであろう卵とケチャップライスが散乱している。
水曜日の兄の晩ご飯は、必ずオムライスと決まっていたが、最近働き始めた桐崎という若いお手伝いさんが、今日はケチャップで味付けをしたと話していた。
いつものデミグラスソースをうっかり切らしたらしい。だが、やはり変化を嫌う兄は気に入らなかったようだ。
「申し訳ございません、涼様。すぐに作り直してきますから」
ひっつめ髪で、化粧っ気のないマスク姿のお手伝いさんは、割れた皿を拾っている。僕は雑巾を取りに行って、汚れた床を拭くのを手伝った。
「片付けは僕がやるから、先に買い物に行ってきなよ」
「とんでもございません、友也様。これはあたしの仕事ですから。お気になさらずに」
壁を蹴りつけるような音が連続した。
たぶん手伝おうとした僕のことを、偽善者とでも思っているのだろう。僕が人に優しくするのが一番ムカつくらしい。
壁の音がするたびに、お手伝いさんがビクッと体をこわばらせる。片付けを終える頃には、目に涙が浮かんでいた。
母が不慮の事故で亡くなってから、お手伝いさんを雇うようになったが、兄のせいでこれまでもお手伝いさんが何人も辞めている。この人が辞めるのも時間の問題かもしれない。
僕と見た目だけはそっくりな一卵性双生児の兄が、こんな人間になってしまったのは、きっと僕のせいだ。
昔の兄は、とても尊敬できる人物だった。
勉強もスポーツも、なんでもよくできる自慢の兄だった。僕はサッカー、水泳、ピアノ、兄がやることなすこと、なんでも真似をして、兄よりうまくなったら興味を失って投げ出すということを繰り返していた。
いつの間にか、僕にとって兄は目標ではなく、自分が優秀であると誇示するために便利な、ただの踏み台でしかなくなっていた。
気が付いた時には、兄は無気力の泥みたいになっていた。大学受験に失敗してからは、ずっと家に閉じこもっている。
「いつまでこんなこと続けるつもりだ。いい加減にしろよ」
また壁を殴る音がした。ふいにスマートフォンが振動した。兄からメッセージが届いている。『死ね』とだけ書かれていた。気に食わない弟と直接喋りたくはないが、壁を殴る体力や、罵倒の言葉を送信する気力はあるらしい。
なんとかして、この兄を家から出さなくては。来月に結婚を控えた僕にとって、それがまず一つ目の大きな障害だった。
「老人都市?」
「富士の樹海にできたってやつだよ」
幼馴染の五宮真命とは、最近はよくキャバクラに飲みに行くことが増えていた。
僕は高い金を払ってワインやウイスキーを飲むぐらいなら、炭酸ジュースでも飲んでいたほうがマシだと考える口だし、わざわざ金を払って好みでもない女と話すなんて、時間の無駄だと思っている。だが、五宮が根っからのキャバクラ好きで、しょうがなく付き合わされている形になっていた。今日の飲み代も僕のおごりだ。
「だから、マジで画期的な施設なんだって。独自開発した新薬で、重度の認知症が治ったって噂もあるらしい」
「よくある医療詐欺系の、たまたまうまくいった症例を、誇大広告に使ってるだけじゃないのか」
「だと思うだろ。俺も一応調べてもらったんだよ。医者の知り合いが言うには、治験段階ではあるけど、本当に効果が実証されてる新薬らしい。関わってる研究者も、いずれノーベル賞を取るんじゃないかって噂されてるレベルの、ちゃんとした人ばかりだそうだ」
「ノーベル賞ねぇ」
「やっぱ、そういうお偉い学者さんのお墨付きってのがあると、うちの親父みたいな世代はイチコロなわけよ。きっと、うちのばあさまの重度の認知症も、治るんじゃないかって話になってさ。金さえ払えば、あとはトントン拍子に手続きは完了ってなもんよ」
お互い家族に問題を抱えているということは、会社の同僚にはなかなか話せないものだが、五宮が腹を割って、こんな話をするのは、秘密を共有している僕だけだ。なにがあっても僕が裏切らないと信じているのだろう。
「おかげでうちのばあさまが騒ぐことも、徘徊することもなくなったし、毎日平和だよ。ばあさまが深夜徘徊中に、うっかり踏切に進入して損害賠償なんていうリスクとは、やっと無縁になった。老人都市、様様だよ」
五宮がやたらとキャバクラに行きたがっていたのは、あまり家には長居をしたくなかったからのようだ。そんなに嫌なら実家を出て、別居をすれば良かったのにと思うが、旧財閥系の跡取り息子ともなると、そうもいかないらしい。
「これでお前の結婚式も、心置きなく出席できそうだな。お布施に見合うぐらいは楽しませてくれよ」
「結婚式に娯楽を求めるのは、どうかと思うぞ」
「そうだ。経験者としてアドバイスが一つ。変な引き出物は断固として拒否しろ。絶対だぞ」
一年前の五宮の結婚式で、無駄にでかい袋を持ち帰る羽目になった帰り道を思い出して、僕は思わず噴き出しそうになった。
「さすがに、お前のおばあさんがデザインしたっていう、あの前衛的な花瓶に勝てる引き出物はないだろうな。持ち帰るのに無駄に重たいわ、スミレって名前がデカデカと入ってて、置くところに困るわで、最悪だった記憶しかない」
「俺だって、やめろって言ったんだよ。でもうちのばあさま頑固だから。ほら、俺んちの両親、あんまり仲良くなかっただろ。それでばあさまには、小さい頃からいろいろ世話になってたからさ。ばあちゃん子の俺に拒否権はなかったのだよ」
五宮が折れることは滅多にない。どんな手段を使っても、自分の思い通りにしてきた男だ。そんな五宮が譲歩したというのだから、よっぽど祖母に弱みでも握られていたのだろうか。どうせ女遊びの証拠でも握られていたに違いない。
「デカくなってからも俺のこと、僕ちゃん扱いだったしな。きっと孫はいつまでたっても、小学生のままみたいな感覚なんだろうな」
小さい頃に五宮の家に遊びに行った時、自分も僕ちゃんと呼ばれたことがあるのを、ふと思い出した。年配の女性は、年下の男子を見ると、必要以上に幼い子供のように扱いがちなのかもしれない。母性本能のせいなのだろうか。
「それにばあさま、まだあの頃はボケてなかったしな」
「ボケてなくて、あのセンスはやばすぎるな」
「だろ。孫の引き出物に、自分の名前を一番目立つように入れるとか。どんだけ自己主張が強いんだって話だよ。本人はまったく悪気がないから、余計に困るっていうかさ。そういう人なんだよ。正論で周りを殺していくタイプっていうか。自分がルールみたいなそういう。認知症になってからは、全然違う人みたいになっちまったけどさ」
五宮が少し遠くを見つめるような表情を見せた。こんな男でも、家族を思いやるという面があるようだ。だがそれがこの男の本質でないことは、この僕が一番良く知っている。
案の定、五宮は僕に向かって手の平を出した。金を出せということだ。五宮はこういう男だ。僕は財布から万札を取り出して、数枚渡した。
五宮はスティック菓子を口にくわえて笑う。万札を握らせたキャバ嬢に、向こう側を口にしろと要求しているのだ。
赤いドレスの良く似合うキャバ嬢は、ボーイがフロアにいないのを確認してから、スティックを口にくわえた。二人はキスしそうになる寸前までお互いがスティックを噛み砕いて、ギリギリで離れて笑い合い、はしゃいでいる。
通常は店内でのお触りは禁止されているが、ボーイが目を離した隙をついてスリルを味わうのが、この五宮という男は大好きなのだ。
狙う相手は指名した女ではなく、必ずヘルプで来たほうのキャバ嬢だ。まだ駆け出しの新人は、金払いの良い客の指名欲しさに、このゲームに乗ってくることが多い。
いつもヘルプをさせられている先輩キャバ嬢の目の前で要求することで、「常連客を奪い取ってやりたい」という相手の心理を突き、本来なら嫌がられる行為ですら、自ら進んでやっていると相手に信じ込ませる。相手に付け込むという行為は、この男にとって息を吸うより簡単なことだった。
「お前もやってみ。楽しいから」
僕がやんわりと断ると、五宮はタバコを吸い出した。なんでもくわえていないと落ち着かないとは、まるで赤子みたいだなと思いながら、僕は飲みたくもないウイスキーを口にした。
「友也は良いよな。政略結婚ガチャの勝者だから」
五宮の家ほどではないが、うちもそれなりの旧家だ。来月には許嫁との結婚が決まっている。親が勝手に決めた相手とはいえ、お嬢様高校の学祭でミスコンのグランプリを取るような美少女を、嫁としてもらえる僕は、ラッキーかもしれない。
「うちのガチャは金と名誉は申し分ないけど、顔と性格は完全に外れだったしな」
「京子さん、だっけ。そんなに酷いとは思わないけど」
五宮はいやいやいやと首を振る。
「本人は美魔女のつもりらしいが、こっちにしてみりゃ、金をかけるだけ無駄な、ただの魔女だ。返品不可のガチャとか、理不尽にもほどがある。アレと一生添い遂げるとか、地獄だよ」
口ではそんなことを言っているが、飲んでいる最中でも、奥さんから電話がかかってきたら、恥ずかしげもなく『愛してるよ』を言うぐらいには、仲が良いらしい。
もちろん奥さんに、そう言えと強要されている可能性もなくはないが。最近はあまり二人で出かけているところを見ていない。さすがに新婚気分は終わったということだろうか。
「お前が死ぬほど羨ましい。あんな清楚系美少女と、いつでも好きな時に好きなだけタダでやれるとか。最高すぎるだろ」
いかにも女を道具としか見てなさそうな物言いに、苦笑いを浮かべるしかない。実際に十歳も年下の、女子高生を嫁にできるなんていうのは、男のロマンというものだ。羨ましがる気持ちもわからないでもない。
だが、実際のところ、彼女とは好きなだけやれるどころか、未だに二人きりでデートをしたことすらない。手もつないでいないし、キスもまだだ。僕との結婚が決まった頃に、ちょうど体調を崩したということで、ずっと会えていないからだ。
初めて二人きりになれるのは、結婚式を終えたあとの新婚旅行かもしれない。そのぐらい僕たちはまだ何も始まっていなかった。僕だって旅行先で、初めての夜を迎える日が待ち遠しい。
「本当に友也は運が良いよな。お前の兄貴が自滅してくれたおかげで、SSRを引けたんだから」
もともと彼女は兄の許嫁候補の一人だった。だが、兄が引きこもりをし始めてから、僕に政略結婚ガチャが回ってきた。彼女が高校を卒業するのを待って結婚することになっていたのだ。
だが、ずっと兄が引きこもっているなんてことは、恥ずかしくて公にできない。だから両親は、兄は重い心臓病で自宅療養をしていると、相手の家には説明しているらしい。周りのみんなは薄々その事実を知っているのに、知らないふりをしてくれているのだろう。
いつものことだ。上っ面だけ綺麗なふりをして、汚いものには蓋をして終わり。家という外側さえ整っていれば、それで問題ないのだ。誰も中身なんか気にしない。
「想像しただけで、むちゃくちゃ腹立ってきた。もっと奢れよ、こんちくしょー」
五宮はテーブルを叩く。ボーイを呼びつけて、フルーツ盛りとドン・ペリニヨンを追加で頼んだ。よりによってピンクのほうだ。
近所のスーパーや酒屋で買えば定価で買えるものが、派手な器に入れなおすだけで、何倍も何十倍もの価値を上乗せできるのだから、美味しい商売だ。実利と乖離していても、必要とする者がいれば成り立つ。実に馬鹿げた話だとしか言いようがない。この世界はいつだって狂っている。
「心配すんなよ。別にあのビデオを、披露宴で流したりしねーから」
ビデオという言葉に、心臓が跳ね上がる。
「なになに、ビデオって。暴露系とか?」
赤いドレスを着たキャバ嬢が、五宮にすり寄って、ボディタッチをする。もうすっかり自分の常連客気取りだ。
どういう仕草をすれば男が食いつくか、知り尽くした動きは、みんな似通ってくる。繰り返していくうちに、その精度は増すのだろう。いわゆる顔の平均値をモンタージュで作ったら、量産型な美人顔になる法則と、似たようなものかもしれない。
「怪しいビデオなんて、中身は秘密に決まってんだろ。ここの中身と一緒」
「ちょっとぉ、やめてくださいぃ」
五宮はどさくさに紛れて、キャバ嬢の胸を触って怒られている。文句を言いつつも、キャバ嬢のほうも、まんざらでもなさそうだ。きっとこの後、アフターのおねだりもしかねない。そうなったらもちろん、金は僕が出すことになるだけだ。
「これは朝比奈くんとの、男と男の約束なのだよ。なぁ、そうだよな」
「……あぁ、そうだな」
五宮は声を低くして、耳元で囁いた。
「結婚した後は、幸せもリスクも二倍ってことで、来月から振り込みは倍で頼むわ。もちろん拒否ったら、アレのコピーがあっちの家に届くから」
「……わかってるよ」
僕は引きつった笑顔で答えて、注がれたピンドンを一気に飲み干した。味なんかわからない。あの日からずっと。