【じごくとし。】 桐崎 柊一郎
あの施設で薬を使って、生まれ変わったはずだった。
なのにわたしは、どうしてこんな目にあっているのか。わけがわからない。
「サバイバルゲームを、生身でクリアされるなんて、すごいですね」
「別に、あのぐらい、大したことはありません。もっと地獄を見たことがありますから」
軍艦島に上陸してからというもの、所長の妻である愛子は、さっきから同じような話を繰り返している。ニッと口角を上げて子供みたいな笑みを浮かべるのが、いかにも自分が可愛い女だというアピールに見えて、そのあざとさにヘドがでる。
「実は私、今度はぜひ、お菓子作りに挑戦したいのです」
「……そうですか。それは良いご趣味をお持ちですね」
料理好きを公言して、家庭的であるというアピールでもしているつもりだろうか。きっと普通の男なら、この程度の偽装に、コロッと騙されるのだろう。そんなだから、遺産狙いで後妻業をやってるような、若くて綺麗な女に金を巻き上げられて、捨てられるのだ。わたしなら、絶対にこの程度の女にはなびかない。
「私はガトーショコラが好きなんですが、きり……じゃなかった。えっと、朝比奈さんは、どんなお菓子がお好きですか」
私は、私は、私は。そんなに誰もが、自分のことを他人が知りたがっているとでも思っているのだろうか。
きっと何を話しても相手が受け入れてくれるような、よっぽど恵まれた生活をしてきたのだろう。所長の妻だというから、ずっと我慢をしていたが、そろそろ限界だった。
「自分は甘いものは好きではないので」
本当は年を取ってタバコをやめてから、口寂しさのあまり和菓子を食べるようになった。
だが、わたしが好んで食べるのは、きんつばや羊羹といった類の、職人が作る高級和菓子ばかりで、素人が見よう見まねで作れるような代物ではない。わざわざ教えてやる必要などないだろう。
「なら、好きな本はありますか。私、読書が好きで。特に『100万回死んだねこ』が大好きなんですけれど」
「……そんなデタラメなタイトルの本は、一度も読んだことがありませんね。図書室にあるすべての本を読むぐらいに、読書は好きなほうですが」
「やっぱり、読書家なんですね。素敵」
嫌味も通じないようだ。『100万回生きたねこ』のことを言いたかったのだろうが、この女にとっては『死んだ』か『生きた』かすら、どうでもいいということだろうか。
実に鈍感で無神経だ。いかにも無能な女らしくて、素晴らしい。ますます処分したいという気持ちが湧いてくる。
「実は私、スミレさんが昔おすすめしてくれた本を捨てようとしていた人から譲ってもらって、ちゃんと読んだんですよ。なのにそのことをスミレさんに伝えたら、なぜか怒られてしまって」
愛子は、ずっとわたしのそばについてまわって、どうでもいいことばかり喋っている。せっかくの廃墟を堪能する暇もない。
所長の話では、愛子も廃墟好きだという話だったはずだが、とてもそうは思えない。本当に廃墟が好きな人間というより、廃墟が好きな自分が好き、というタイプの人間なのだろうか。わざわざ趣味をひけらかす人間ほど、そういうタイプが多い。本当に好きなら、ただ自分が好きなだけで完結するはずだろう。
「あの、私のこと、本当に覚えていませんか」
「……残念ながら」
何を思って所長は、こんなにつまらない女を妻にしたのだろうか。まったく理解ができない。昔、恋文をもらった時に、無視をしておいて正解だった。やはりゴミは処分するべきだという気持ちが高まっていく。
「愛子さん、あなたが外部に『予言の書』を流出させていたのは、どうしてですか」
愛子の瞳が揺れた。
「大丈夫です。所長には話していません」
わたしの嘘に安心したように、愛子は口を開く。
「彼がしていることを知って……怖くなったのです。実験体に使われる引きこもりの方々が、とても可哀想だと思って。だから、施設に収容される前に、私にも何かできたらと思ったのですが。あまり効果がありませんでした」
自分が良いことをしているという気分が欲しかっただけのようだ。深い意味なんてない。ただの偽善だ。所長が言っていたように、気分が欲しいだけで行動するものは案外多いのかもしれない。たとえそれが的外れでも。無能な働き者は、十分に死に値する。
別のツアー客が揉め事を起こしている隙に、わたしたちは引率者の目を盗んで、立ち入り禁止区域に足を踏み入れた。
65号棟と呼ばれる巨大なコンクリートの集合住宅は、映画の撮影などにもよく使われている場所で、九階建てでコの字型をしている。あちこちが崩れ落ちていて、大きな地震があれば、今すぐにでも崩壊してしまいそうな雰囲気で溢れていた。
人が住んでいたであろう区域には、ブラウン管テレビや二層式の洗濯機、古い型の冷蔵庫など、朽ちかけているアイテムが散見される。廃墟マニアにとっては宝の山だ。
できればじっくりと観察したいところだが、まずはやるべきことをやってからだ。せっかくだから見晴らしの良い場所のほうがいいだろう。
屋上に上がった瞬間、後ろから恐る恐るついてきていた愛子が、小さな悲鳴をあげて、足を止めた。わたしの腕にしがみついてくる。
朽ち果てた滑り台のそばに、血を流した人間が倒れていた。
「先客がいたみたいですね」
わざわざ人目を避けるために、ツアー引率者の目を盗んで、立ち入り禁止区域にやってきたというのに、すでに死体が転がっているとは。わたしは案外ツイているのかもしれない。
死体の服がめくれ上がり、はだけた腹部の傷跡には見覚えがあった。一度だけ施設で寝たことがある女だ。顔のほとんどは潰されているが、若返って戸籍のロンダリングをしたスミレという女のようだ。
血まみれの岩を手にしたまま立ち尽くしているのは、一緒にツアーに参加していた旦那だろうか。
船の上で挨拶をした時は、ハネムーンの真っ最中だと、必要以上にイチャつきながら話をしていた記憶がある。だが、まさかこんな目に遭うとは、あの女も予想はしていなかっただろう。
「もったいない。どうせ殺すなら、ヤりながら殺してみたら良かったのに」
心の中で言ったつもりが、つい口に出していたようだ。男がこちらを見て、信じられないというような表情をした。
「……頭がおかしいのか」
なかなか愉快なシチュエーションだ。これだけでもツアーに参加した価値がある。愛子との退屈な時間が帳消しになったかもしれない。
「たった今、奥さんを殺した人間に言われたくないですね」
「それも……そうだな」
男は笑っているのか、泣いているのか、混ざり合ったような表情を浮かべた。人生のすべてを諦めた人間のする顔だ。戦場でもよく目にした表情だった。
きっとわたしが初めて仲間を殺したあの日も、同じような顔をしていたのかもしれない。わたしが殺した仲間はわたしの一番の親友であり、わたしが一番愛した女の、夫になるはずだった男だ。あれが本当に正当防衛だったのか。殺す必要まであったのか。未だによくわからない。
少なくとも、人間というのは、一番やってはいけないことを、やってしまうぐらいに愚かな生き物だということだけは、大昔から変わらない。
男は朦朧としながら、歩いて行く。どこへ行くつもりなのか。きっと本人にもよくわからないのだろう。その足取りは不安定で、今にも倒れそうだった。一歩、一歩を踏みしめ、地獄への道を歩いているのかもしれない。さぞかしその道は、深淵を覗き込んでいるみたいに真っ暗闇に見えていることだろう。
「少し邪魔が入りましたが、ここで続きをしましょうか」
腕にしがみついている愛子を引き寄せた。
「でもこんな……隣なんて」
愛子は首を振り、眉をひそめている。
「死体のそばでヤるなんて経験、なかなかできるものではありませんよ」
愛子の腰を抱きながら、耳元で囁く。
「どっちが好みですか。あの死体のように頭を潰されるのと、首を絞められるのと。選んでください」
「あなたは一体、何の話をしているのですか」
「自分のおすすめは首絞めのほうですかね。多少は快感を得ながら死ねるかもしれませんから」
嫌がる愛子を強引に押し倒し、下着に手をかけた。
「所長に感謝しなければなりませんね。こんなに素晴らしいゴミを始末する出会いを与えてくれるなんて」
「離して……お願い」
必死に逃れようとしている愛子が、体をよじる。実に良い眺めだ。恐怖におののく女の顔というのは、どうしてこうもそそるのだろうか。
「一度やってみたかったんです。女を抱きながら殺すのって、どんな感じなのか知りたかったんですよ。やはり何事も経験って大事ですよね」
好奇心は猫を殺すと誰かが言っていたが、そんなことで死んでいたら、今頃とっくに人類は滅びているだろう。
「やめ……て……赤ちゃんが……いるの」
命乞いをするつもりなら、もう少しマシな言葉を選ぶべきだろう。ここまでくるとクズであることも、立派な才能なのだなと感じる。
「夫だけでなく、赤子までいるのに、ほかの男を誘惑するような女には、存在する価値がありません。あなたみたいなゴミの死に場所として、この素晴らしい廃墟は、多少もったいないですが。やむを得ません。ちょうどいい、殺し時というものがあるのでね。わたしが地獄に堕としてあげますよ」
「どう……して……こんな」
呻き声をあげる愛子の瞳から、涙がこぼれ落ちる。首を絞める手に力を込めると、愛子の腹がどんどん大きくなっていく。
愛子が悲鳴をあげた瞬間、大きな腹が破裂した。胎盤と血にまみれた赤子の泣き声が聞こえてくる。泣けば泣くほど、わたしと愛子の体がシワシワに変化していく。まるで精気が失われ、枯れる花のように。
赤子がさらに大きな泣き声をあげた瞬間、目の前が真っ白な光に包まれた。




