【ぜつぼうとし。】 朝比奈 友也
小学生の時から、僕にとっての絶望は、永遠だと思っていた。ずっと暗闇だった場所に、ようやく小さな光が差し込んできた気がした。
引きこもり続けた兄の厄介払いが済んで、僕の人生はまともに動き出したのだ。双子の兄である涼は、今は施設の中だ。もうあの家にゴミはいない。
やっと普通の家族だけになった。僕には新しい妻という家族もできる。結婚式を挙げ、盛大な披露宴もやった。滞りなく物事が進むのは気持ちが良い。
僕たち夫婦が訪れたのは、新婚旅行で初めての夜を迎えるには、申し分のないほどにゴージャスな三ツ星ホテルのスイートルームだった。僕はこの時を待っていた。彼女に一目惚れをした日からずっと。
白いワンピースを脱いだ彼女は、恥ずかしいのか背を向けた。まだ慣れていないのだろう。
僕はリードするようにベッドに押し倒す。下着を外そうと手を伸ばした瞬間、その動きを止めた。腹に大きな傷跡がある。縦に白い筋のような痕と、部分的に少しだけミミズ腫れのようなケロイド状になっていた。
「その傷……」
「帝王切開の痕だよ」
「……帝王切開?」
「知らないの。お腹を切って、子供を産んだときにできるやつ」
「子供を産んだって、どういうこと」
彼女はクスクスと笑っている。
「なーんてね。冗談だよ。ビックリした? 実は小さい時に大きな手術をしたことがあって。これまではプールとか海に行く時は、わざわざ特殊メイクで隠してもらってたんだけど。これからは夫婦でしょ。なんでも本当のこと見せなきゃと思って。こんな体の私じゃ、嫌いになった?」
「い、いや、そんなことはないよ。傷があったって、君の体はとても綺麗だよ」
僕は苦笑いを浮かべながら、彼女の傷跡にキスをする。
多少の傷ぐらいなんだ。僕の人生は今こそ最高の時を迎えているのだから。そんなことを気にする必要なんてない。
引きこもりの兄は施設にぶちこんだ。ゴミはもういなくなった。結婚式も終わり、こうして新婚旅行も順調にこなしている。
明日は彼女が希望した、軍艦島のツアーにも出かける予定だ。これですべてうまくいくはずだった。
この女を兄から奪うために、なんでもやってきたのだ。ようやく手に入れることができたというのに。
なのに、どうしてこうも不安なんだろう。何かがおかしい。そう何かが変なのだ。
この女のことは小さい時からよく知っている。兄の婚約者として紹介された時から、ずっと僕はこの女のことを見てきたのだ。
こんなに傷が残るような手術をしたという話は聞いたことがない。彼女は何か嘘をついているのだろうか。僕はこの女に騙されているのか。
疑いながら抱く女というのは、やけにイヤらしく見えてくる。だからこそ人は皆、不倫や横恋慕というものを繰り返すのかもしれない。僕は夢中で彼女の体を貪った。
目が覚めた時、彼女は裸のままテレビを見ていた。
半分寝ぼけたまま、僕は背後から近づいて彼女を抱きしめる。夢ではなく現実だと実感するために、柔らかい感触をたっぷりと確かめてから、背中にキスをした。
あまり見慣れない地方のテレビCMが流れた後、ワイドショーが始まった。ライブ中継で火事現場の様子をレポーターが説明をしている。テロップを見て僕は、完全に目が覚めた。
燃えているのは、幼馴染の五宮真命の実家だ。未明の出火で、未だに家族全員と連絡が取れていないという。
あいつの家が燃えている。やつはビデオごと燃えたということなのか。これで僕は解放される。やっと僕にもまともな未来が訪れる。奇跡が起こったんだ。僕は思わず大声で叫んで喜びそうになるのを必死にこらえた。
彼女がポツリと言う。
「つい最近も、社員に責任を押し付けて、不祥事を全部もみ消そうとしたよね。バチが当たったんだよ、きっと」
五宮グループはこのところ悪い噂が絶えなかった。恨みを買っていても不思議はない。僕の代わりに誰かが、天罰を食らわしてくれたのだろうか。
「でも、まさか、あの女、マジで放火するとは思わなかった」
「放火?」
彼女はクスクスと笑っている。
「リベンジポルノネタが、よっぽど効いたのかな。やっぱ真命は女の見る目ないわー。因果応報ってやつだろうね」
次第に笑いをこらえきれなくなったのか、彼女は枕でベッドを叩きながら大声で笑いだした。
「ざまぁみろ。私のことゴミ扱いするからだよ、ばーか」
なにを言っているんだ、この女は。
「本当に感謝してるよ。恩知らずな孫が、厄介払いしてくれたおかげで、こうして第二の人生が歩めることになるなんて」
恩知らずな孫? 第二の人生? まったく理解が追いつかない。
「友也くんも良かったね。ずっと真命に脅されてたんでしょ。これからはきっと幸せになれるよ」
彼女はにっこりと笑う。
「どうして、そんなことを」
「全部知ってるよ。昔からうちの孫は、おばあちゃん子でね。悪いことをするたびに、自慢げに私に報告してきてさ。私が甘やかすからって安心して、父親や母親には言えないような、いろんな酷いことを、いっぱい教えてくれてね。私がボケた途端に、今度は厄介払いをしようと躍起になってたみたいだけど。本当にどうしようもない孫だったよ」
僕は怖くなって、彼女から離れた。今目の前にいる女は一体。
「お前は……誰なんだ」
「妻になったばかりの女ですね」
「ふざけるな。そんなことを聞いてるんじゃないっ」
声を荒げた僕を、駄々をこねている子供を見るような目で見ている。高校を卒業したばかりで、十歳も年下の女とは思えないほどの、包容力のある微笑みを浮かべていた。
「小学生の頃、うちのサモエドをボウガンで撃ったのって、友也くんだよね。ちょうどお兄さんが犬を撫でる瞬間を狙ったのは、あわよくば、お兄さんが死ねば良いと思ってやったのかな」
「ち、違う、あれは、五宮に命令されて」
「でも道にロープを張ったのは、君のお兄さんが毎日そこを通るから、わざわざその場所に仕掛けたくせに。お兄さんが風邪をひいて失敗したみたいだけど」
なんで知っているんだ、この女は。誰にも話したことなどないのに。
「君のお兄さん、変にそういう危機回避能力があるのが、なんか笑っちゃうけど」
ケラケラと楽しそうに笑っている女は、死ぬほど美しいのに、僕にとっては恐怖にしか感じられなかった。
「貞子って子のこと、いじめてたんだってね」
次から次へと、聞き覚えのある名前や事象が出てきて、どんどん心臓の鼓動が激しくなっていく。
「でも真命に命令されなくても、やってたでしょ。自分より劣ってるはずのお兄さんを選んだ彼女を、ずっと根に持ってたんでしょ。彼女言ってたもの。『昔から、心が空っぽで怖い人でしたよ』って」
どうしてこの女に、そんな昔のことを蒸し返されないといけないのか。
「真命に脅迫されてるから仕方ないって、自分に言い聞かせながら、ずっとお兄さんや貞子ちゃんに、酷いことを続けてたんでしょ。僕ちゃんって本当に、いつまでたっても、お子ちゃまだよね」
「……黙れよ」
「知ってる? 君が恋い焦がれた女子高生って、あの貞子ちゃんの従姉妹なんだって。不思議な縁ってあるもんだね」
知ってるもなにも、僕が彼女を手に入れたいと思ったのは、貞子に似ていたからだ。本物の貞子は、僕を嫌っている。絶対に手に入らない。だからよく似ている偽物を、兄から奪ってやることにしただけだ。
「小さい頃から用意周到にお兄さんを追い詰めて、そこまでして、絶対にこの女子高生と結婚したかったんだね。でも悪い男は嫌いじゃないよ。いざという時に、始末しても心が痛まないから」
うっすらと笑みを浮かべた女は、僕の知っている彼女とはまったく違う表情をしていた。似ているだけで、全然中身は別物だ。
「彼女を……どこにやった」
「可哀想に。未来に絶望して、引きこもっちゃったんだって」
「未来に絶望って、何の話だ」
「君が過去にしでかした、すべての真実を教えてあげたんだんだよ。あのビデオを、ぜーんぶ見せてあげたの。隠し場所知ってたから」
「ハッタリで僕を脅しているつもりか?」
「悪魔のような男と結婚しなきゃいけない未来しかないってわかったら、そりゃ絶望もするよね。そのおかげで施設に入れられたみたいだけど」
「施設って、まさか」
「あなたの大嫌いなお兄さんと一緒だね。私が戸籍を落札したから、今頃、サバイバルゲームに招待されてるんじゃないかな」
「サバイバルゲームって……何のことだ」
「可哀想に。こんな男に狙われたせいで、人生を乗っ取られちゃうなんて、思いもしなかっただろうけど」
次から次へと、わけのわからないことを。苛立ちが止まらなかった。
「本当に君は、いろんな人の人生をぶち壊してるみたいだね」
「僕は何もしていない。言いがかりはよしてくれ」
「君んちの家政婦さんが辞めるのも、引きこもりのお兄さんのせいじゃなくて、君のせいだったんでしょ」
「そんな事実はない。いい加減にしろっ」
「君がことあるごとに、若い家政婦さんに手をつけて、無理やり関係を迫っておきながら、飽きたら捨てるを繰り返して。君のお父さんが、裏でどれだけ金を積んだか知らないの。親不孝なのは、お兄さんじゃなくて、君のほうなんじゃないの」
ありえない。そんなことは断じてありえない。あんなやつより、僕の方が劣ってるなんてことは絶対に。
「不慮の事故で亡くなったっていう、お母さんを殺したのも、君だよね」
「……事故だよ。母さんが亡くなったのは。運が悪かっただけだ」
「白々しい。小さい頃にやった、通行人にビルの上から植木鉢を落とすってやつ。あれを使ったんでしょ。だって何回も試してたもんね。どのぐらいのタイミングで落とせば、確実に人を殺せるか」
「違う。だからあれは、ただの事故だ。僕は関係ない」
「残念ながら、見ちゃったんだよね。証拠映像」
「証拠映像?」
「その事件の日、君の様子があまりにおかしいから、真命はずっとつけてたんだって。もちろん、一部始終をばっちり撮影もしてたみたいだよ。その時の映像のことは、君には秘密にしてたみたいだけど。君が金をしぶった時の切り札として使うために」
あの野郎。どこまでも僕の人生に寄生するつもりだったのか。だがあいつはもう死んだ。証拠もすべて燃えた。この事実を知っているのは、この女だけだ。
「君が母親を殺したのは、てっきり、お兄さんを守るつもりで、正義感で殺しちゃったのかなって思ってたけど、違ったみたいだね。引きこもってる息子の未来を悲観して、心中するつもりだった母親を殺したのは、ぜーんぶ自分のため。自分よりみっともないお兄さんがいなくなったら、困るからだよね。いつも真命にやられている腹いせを、ゴミみたいなお兄さんに叩きつけなきゃいけなかったから」
どうすれば目の前にいる女を確実に殺せるだろうかと、思わず幼い頃から繰り返してきた『命の選別ゲーム』を、頭の中でシミュレーションし始めていることに気が付いて、自分で自分を笑うしかなかった。追い詰められた時にこそ、人間の本性が出るというが、僕は根っからの極悪人だということだろうか。
「なんでそんな怖い顔してるの。これから最高の人生が始まるのに。あのビデオがあれば、なんでも言うこと聞いてくれるんでしょ。心配しなくても、私は真命ほど悪人じゃないから。ちゃんと愛してくれて、普通のそれなりな生活をさせてくれたら、それで十分だから。簡単なことでしょ。どうせあなたが欲しかったのは、この外側だけなんだから。何も問題ないでしょ」
僕に抱きついて、キスをしてきた彼女を突き飛ばした。
「そんなことしても大丈夫なの? あのビデオ、私名義の貸金庫に移してあるんだけど。一定期間連絡がなかったら、自動的に中身を公開するように設定してあるって言ったら信じる?」
「冗談……だろ」
ふいに思い出したのは、五宮真命の結婚式でもらった引き出物の、無駄に重たくて、目立つところに大きく「スミレ」と書かれた花瓶のことだった。傲慢で自分勝手な作り手が、目の前にいるこの女だったとわかったところで、僕の人生がさらに、ロクでもないものに変わった事実は覆らない。
「小さい頃から、きっと君はいい男になると思ってた。想像以上のクズに育ってくれて、とっても嬉しいよ」
「ふざけるなっ」
「まさか、私をここで殺すなんてバカなことしないよね、僕ちゃん」
彼女の美しい笑顔は、過去からやってきた死神にしか見えなかった。




