【ぎぜんとし。】 桐崎 貞代
シェアハウスへの帰り道を急ぎながら、少しだけ胸を張る。
すれ違う人が皆、私を振り返っているような気がした。そのぐらい今の私は、魅力のある女性に生まれ変わったのだ。心残りなんて何もない。
家族のことすらわからないぐらいに、残念なボケおばさんだった私はもういない。私は普通を取り戻したのだと実感して、湧き上がる喜びを抑えきれない。無意識のうちに笑みがこぼれてしまいそうになる。
私はもう、誰かのお母さんでも、ただのおばさんでもない。姫川愛子という、若くて美しい女になったのだから。
私の中身は何も変わっていないのに。人間というのは本当に不思議なものだ。
本物の姫川という女から引き継いだ、小学校のシェアハウスも便利屋も、すべて私の承認欲求を満たす為に続けている。
少なくともやらない偽善より、やる偽善のほうが、世の中の役に立っているはず。
私は間違っていない。絶対に。
情けは人の為ならずとよく言うが、私は自分の為にやっている。弱っている人を助けるのは、実に気持ちが良い。少し手を差し伸べただけで、みんな私のことを神様のように崇めてくれる。
少し前の私は、思い通りにならない家族に、ずっと悩まされ続けていた。
言うことを聞かずに、小説家になろうとして失敗した娘。
いくらいらないと言っても、ナスを送り続けてきた義理の母。
同居を頑なに断った上に、若い女と再婚した父。
借金を作って離婚したくせに、いつまでたっても金の無心をやめない夫。
家族なんてやっかいごとの繁殖地でしかない。
何もかも思い通りにいかない。
こんなはずではなかった。
優しくて、暖かくて、毎日笑顔に溢れている家庭を築きたかった。なのに、気がついた時には家族はバラバラになり、若年性認知症を患い、私はすべてを失っていたらしい。
だがあの施設に入れられ、別の人間として文字通り生まれ変わり、新しく手に入れた第二の人生では、皆が私の言うことを聞いてくれる。
姫川という人は、女の私から見てもかなり美しい女だった。中身は違うのに、この女になり変わっただけで、少し優しくすれば、周りの人は簡単に私のいいなりになる。私の支配を喜んで受け入れてくれる。
何も言わなくても、私の為に動いてくれる。天国にいるみたいだ。今までのように、家族のために何をしても当たり前、少し怒っただけで、すぐに鬼婆と罵られる主婦業とは大違いだ。
ずっとこの世界が続けばいいのに。
娘の貞子だって、「お母さんも自分のやりたいことをしたらいいのに」と言っていたではないか。
母親だって、人生を楽しみたいのだ。
シェアハウスに住まわせている下僕の一人が、便利屋の仕事から戻ってきたようだ。
「姫川さん、お聞きしたいことがあるのですが」
「なんですか、渡辺さん」
私が離婚した妻であることを、彼は知らない。私を施設にぶちこんで、やっかい払いをするような男に、本当のことを教えてやる必要などない。散々こき使ってやるだけだ。
「いつになったら、桐崎を捨てるんですか」
前もって施設でもらった情報では、この姫川という女は、ある老人と再婚していると聞いていた。それが私の父だと知った時の驚きは、簡単には説明しがたい。
運命のいたずらというやつだろうか。好都合だと思った。
私の思い通りにならなかった父を、からかってやるつもりだった。そのつもりで、私は第二の人生として、この姫川の戸籍を落札したのだ。
どうしてみんな買わないのだろうというぐらいに、破格の値段で売りに出されていた。私のような、かろうじて施設に入れたような人間でも、買えるクラスのお手頃価格だった。
だから私は、施設の行動ファンドというゲームで、なんとか稼いだポイントを使って落札した。姫川という美しい女の戸籍を。
「計画していた日は、とっくに過ぎてますよ。財産分与の手続きも終わりましたし、離婚届も受理されたんだから、そろそろ身ぐるみを剥いで、追い出しても良い頃合いだと思うんですが」
「そうね。準備しておいて。ちょうど来週が誕生日だから、その日に決行しましょうか」
自分のいいなりになる相手だと思っていた者に、ある日突然、裏切られることが、どれほど苦痛であるか、あの男も嫌というほど思い知ればいい。とんでもない誕生日プレゼントに、死にたくなるほど身悶えしてくれるだろう。
「あのじじい、オレが借金で困ってた時、一文も金を出さなかったくせに。あんなに本を買えるぐらい、金を溜め込んでたなら、少しぐらい出せって話ですよね。オレみたいなやつでも、ちゃんと助けてくれた姫川さんとは大違いだ。とっととあの本も、ぜんぶ金に変えちまいましょうよ」
「そうね。後で考えておきましょう」
売っぱらうのも良いが、なんなら図書室にある父の本をすべて、次の地域交流会でキャンプファイヤーでもすると言って、目の前で焼き払ってやってもいいかもしれない。私に逆らうと、どうなるか、思い知らせてやる。
ふと気がつくと、渡辺が私をじっと見ていた。
「何かまだ用事?」
「そういえば、姫川さんにお願いが」
「お願いって、また?」
「すみません。昨日飲み過ぎちゃいまして。ちょっとだけ。すぐに返しますんで」
渡辺は手を差し出した。未だにこの男は、誰にでも金をせびっているようだ。
結婚していた時も離婚した後も、本当はずっと気づいていた。家計簿をきちんとつけていない私でも、この男が家にやってくるタイミングで、何度もお金が消えたら、さすがにおかしいと思うぐらいの頭はある。
でもそれでもいいと思っていた。お金さえ渡しておけば、必ずこの男は私のところに戻ってくる。それだけを頼みの綱にするぐらいに、私という女は、この男を愛していた愚か者だったのだ。
なのに、私がボケた途端に、家にある金目の物を全部売っぱらって、まるでやっかい払いをするかのように、私を施設にぶち込んだらしい。私はようやく目が覚めた。この男は心底、私のことをただの金ズルだとしか思っていなかったのだと。
だから今の私にとって渡辺は、使い潰すための下僕の一人でしかない。これは愛情による施しではない。薄汚い物乞いに恵んでやっているようなものだ。そう思い込むことにした。
私は財布を取り出して、五千円に手をかけた瞬間、渡辺に財布ごと取りあげられた。
「ちょっと、なにするの」
「けち臭いこと言わずに。いっぱい持ってるんでしょ」
渡辺は財布の中身を丹念に調べると、少しだけ怪訝そうな表情を見せてから、一万円札を三枚抜き出して、ポケットにねじ込んだ。
「で、姫川さん、今度こそ、オレと結婚してくださいよ。本当に好きなのはオレなんでしょ」
強引に抱き寄せられた。
髭面が近づいてきて、ヤニ臭い息が吹きかけられる。
私の元から離れた後も、この男はこうやって、ありとあらゆる女にすり寄って、金も愛情もせびっていたのだろうか。
若い頃はあれほど大好きだった端正な顔も、今ではただの小汚い浮浪者のような髭面になっている。これが私の愛した男だったなんて。過去の私の愚かさに、反吐が出る。
「ちょっと、やめて」
突き飛ばされた渡辺が、私を睨みつけている。
「……あんた、本当は誰なんだ」
「誰って、言われても」
答えられるわけがない。
「事故に遭う前のあんたなら、財布の中にレシートが何枚も残ってたことなんて、今まで一度もなかった。しかも、お札の向きも全部バラバラだ」
「それが何?」
「あんた、お金には本当に細かい女だっただろ。オレが少しずつ財布から金を抜き取っても、すぐに気が付くぐらいに。今のあんたみたいに、ずぼらでどんぶり勘定じゃなかった」
どうやら私はしくじったようだ。さすがに前もって渡された報告書には、そんなことまで記されていなかった。
普通は売り出される戸籍は、施設に収監されてから、ある程度は本人の行動パターンを観察して、データをきちんと揃えてから、売りに出される場合が多いらしい。
だが姫川の場合は、本人が事故で昏睡状態という特殊な条件下で、売りに出されていた。
やけに破格の値段だったのは、こういった細部の情報がわからないからだったのかもしれない。だからみんな手を出さなかったのだろうか。
「あんた、あの施設でロンダリングした老人様だな」
外部の人間は、普通はロンダリングのことは知らないはずだが、私を施設に入れる時に、いろいろ聞いていたのかもしれない。
この男のことを見くびりすぎたようだ。だが、今頃そんなことに気づいたところで、もうリカバリーはできそうにない。相手にバレた場合は、どうすればいいのかなんて、戸籍の譲渡説明会では聞かされていない。話が違う。
「姫川って女が、オレたちシェアハウスのメンツに、裏でなんて呼ばれてたか知ってるか?」
私はゆっくりと首を横に振る。
「小豆婆だよ。小豆を一粒ずつ数えるみたいに、毎日お札を数えて、金を巻き上げて用済みになった男も、まるで子供を食っちまうみたいに、次から次へと処分するからな。みんな知ってんだよ。あんたが後家業や貧困ビジネスで、年寄りや弱者を食い物にしてることぐらい」
姫川という女は、美しい見た目とは違って、ろくでもない妖怪のような女だったらしい。私は乗り換える相手を間違えたようだ。
渡辺は薄ら笑いを浮かべている。
「どうりでおかしいと思った。じゃあ、覚えてないってことだよな。あの日の事故のこと」
もらった資料では、酔っ払って階段から足を滑らせて転倒し、長い間、昏睡状態になっているということだった。
両親はすでに死亡しており、唯一の姉妹も十年以上疎遠だったようだ。妹は、いわゆる貧困女子という類の苦しい生活を強いられていた。姉の延命措置をするほどの金はなく、困りはてていた妹に対して、病院に派遣された施設の職員が話を持ちかけたらしい。それで渡りに船といわんばかりに、二つ返事で戸籍が売りに出されたのだ。
だがあれは事故という話ではなかったのか。まさかこの男の仕業だったのか。
「これまであんたが、老人や弱者から巻き上げてきた金を、隠し口座から、ちょっとばかし引き出して使っただけなのに。ごちゃごちゃうるさいことを言うからだよ。あのまま眠っていてくれたなら、オレだってこんなことをしなくて済んだのに」
近づいてくる渡辺の手には、シュレッダー用のハサミが握られている。
「あんたが悪いんですよ。オレたちみたいなゴミを助けて、カモにしようとする姫川なんかに乗り移るから。この偽善者が」
いくら安くても、姫川の戸籍を誰も買おうとしなかった本当の理由がようやくわかった。今頃わかったところで、もう遅い。
「オレは別れた妻を、施設に入れてやるために、どうしても金が必要だったんですよ。あんなになっちまっても、オレが惚れた女だから。いつかまたオレのこと、ちゃんとわかるようになって欲しかった。それだけなのに」
渡辺の頬に、涙が滑り落ちた。
「もうすぐ返済の期限がヤバくて。薬が効きにくいタイプだから、まだまだ金が足りないって言われて。どうしようもないってやつでさ。だから許してくれますよね。だって人助けが大好きなんでしょ、姫川の偽物さん」
腹部に何度も何度も、五枚刃のハサミが突き立てられる。
「オレはこれからカモにされる弱者を助けるために、あんたみたいな極悪人を処分するだけです。正義の味方ってやつですよ。ねぇ褒めてください。オレ、すごいでしょ。これこそ情けは人の為ならずってやつじゃないですかね。だからオレのために、死んでくれますよね」
霧がかかったように意識が遠のく中、内臓を切り刻む嫌な音だけが、ずっと続いていた。




