【きぼうとし。(3)】 桐崎 貞子
久しぶりに実家に戻ると、ホッとする。あれだけいつもは、家にいるのが居心地が悪かったくせに、現金なものだ。
だがいつかはここを出て行く日が来るのだと思うと、急に不安に襲われる。これまで過ごしてきた、幼い頃の記憶が脳裏に蘇る。家の記憶もまた、あたしの人生の一部だ。簡単に捨てられるものではない。だが何かを手に入れるために、何かを捨てなければならないこともある。それが今だというだけのことだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
出迎えてくれた母は、いつもより少し疲れた顔をしているように見えた。あたしや祖父の人生を牛耳ることができなくなって、意気消沈しているのかもしれない。
目の前にいる母は、やけに老けて見えた。こんなに白髪やシワがあっただろうか。
あたしもいつか、こんな風に年老いていくのだろうか。誰だって年をとる。当たり前のことなのに、嫌だなと思ってしまう。
どうして人間は年をとるごとに、若返るような進化をしなかったのだろう。そうしたらみんな毎日楽しく生きられるだろうに。
「何をぼーっとしてるの。そんなに疲れてるなら、先にお風呂入っちゃいなさい」
「わかったってば。いちいち命令しなくていいから」
バスルームに向かい、しっかりと体を洗ってから湯船に浸かる。
新幹線の振動が、まだ少し体に残っている気がした。たった数時間過ごした場所ですら、この調子だ。生まれてからずっと過ごしてきたこの家の名残は、どのぐらいあたしを揺さぶるのだろう。
来年の今頃は、東京に住んでいるかもしれないと思うと、不思議な感じがした。一人で暮らしたことなんてない。ドラマや映画でよく見るワンルームマンションみたいなところに、あたしは住むことになるのだろうか。
いつもは煩わしいと思っている、朝の洗面台やトイレでの争奪戦も必要なくなる。自分のことだけ考えれば良いなんて、夢のようだ。けれど、その煩わしさがなくなって、ふとした瞬間に、急に寂しくなったりするのかもしれない。
もしかしたら、祖父と同じシェアハウスに住むっていうのもありだろうか。小学校に住むなんて、ちょっとワクワクするし。まだ先の話だが、今度電話をしたときに、祖父に聞いてみよう。
食卓には、あたしの好きなオムライスが用意されていた。ケチャップで花丸マークを描いてから、スプーンで真っ赤に塗りつぶす。小さい頃からの癖だ。どうせ壊すのに、なぜそんなことをするのか。自分でもよくわからない。
人はしたいことをするから、人間なのだ。
我が家のオムライスには、なぜかナスが入っている。両親が離婚する前の、貧乏生活時代の名残だ。祖母が家庭菜園で作ったナスをよく送ってくれていたので、傷んでしまう前に、どんな料理にでもナスを紛れ込ませて、消費することが多かったのだ。
祖母が死んでからも、ケチャップライスにナスが合うということで、未だにうちのオムライスにはナスが入れられている。我が家の味というところだろうか。
「お母さんも自分のやりたいことをしたらいいのに」
「何の話ですか」
鞄からお土産を出すついでに、祖父からもらった古いノートを取り出した。
「昔は小説家を目指してたんでしょ。おじいちゃんからもらってきた」
「ちょっと、え、それ、どうして。返しなさい」
こんなに慌てている母を見たことはない。やはり黒歴史の威力は絶大なようだ。
「やーだ。あたしがもらったんだもん」
「まさか、中を見たの」
あたしはにっこり笑う。
「自分が挫折したからって、子供の夢を潰す権利はないと思うよ」
「私はそんな、貞子が悲しい思いをしないようにって」
「それが余計だって言ってるんだよ。自分の人生なんだから。自分で責任ぐらいとれるよ。少しは自分の娘のこと信用したら?」
母は諦めたように、小さく息を吐いた。
「お母さんもまた書けばいいのに。どっちが先にデビューするか競争しようよ。もしあたしに勝ったらこのノート返してあげる。もちろん負けるつもりはないけど」
「まったく、あなたって子は。誰に似たんだか」
「親の顔が見て見たいもんですね」
しばらく二人で笑っていたら、久しぶりに帰って来た父が上着を脱ぎながら、不思議そうな顔をして、あたしたちを見ている。
父と母は離婚したままで、苗字も違う。今は渡部ではなく、渡辺と名乗っているそうだ。あちこちで出稼ぎをしているらしく、時々様子を見に帰ってくる。
まだまだ借金は残っていて、借金取りに見つかると困るからと、あまり長居はできないらしい。小さい頃からほとんど父と会っていないあたしにとっては、父というより、たまに会いに来る親戚の叔父さんみたいなものだ。
帰ってくるなり、棚に出しっぱなしになっている母の財布から、こっそりお札を抜いて、ポケットにねじ込んでいる。いつものことだ。
母はあたしについて、ありとあらゆることで口うるさく言うくせに、お金に関しては無頓着なところがあった。父と一緒に暮らしていた頃も、何度も同じことを繰り返されているのに、母は父の手グセの悪さに気がついていないようだった。
だからあたしは小さい頃、何度か母にその事実を伝えたが、「お父さんがそんなことするわけないでしょ。お父さんを疑うなんて、なんて酷いこと言うの」と逆に怒られた。それ以来、あたしは見て見ぬふりをするしかなかった。
母は、父と駆け落ちをするまでは、結構お金のある家で育ったお嬢様だったらしく、家計簿すらつけたことがない。いつもお金が足りないと言っては、すぐに実家に金を無心していたようだ。なのに本人はしっかり者の母親のつもりなのだから、笑うしかない。
きっと母が駆け落ちなんかしなければ、父が婿養子になっていれば、今頃はあたしも裕福な家庭で暮らしていたのだろうか。
今は母の妹が代わりに家を継いだらしく、その娘はいずれ親が決めた許嫁と結婚する予定だそうだ。いくら裕福でも、未来が決められている人生というのは、あまり楽しそうではない。そういう意味では、この生活があたしには合っているのかもしれない。
母に見つからないうちに財布を戻した父が、何食わぬ顔で言う。
「何か楽しいことでもあったのか」
「あのね、お母さんが昔……」
「わーなんでもないから。ほら、お風呂先に入ってきてください」
慌てて母は、父をリビングから追い出した。
「へぇー、お父さんにも秘密だったんだ」
「誰にだって秘密ぐらいあるでしょ。隙ありっ」
まんまと母にノートを取り上げられた。母は即座に黒歴史ノートをロック式の棚に隠してしまった。もっと中身を確認しておけばよかったと思ったが、後の祭りである。
祖父は私が大学を卒業してから、しばらくあとに、シェアハウスで出会った姫川愛子さんという若い女性と、再婚したという話を聞いた。
だが、最近は連絡しても返事がない。新婚生活を邪魔するのも悪いと思って、様子を見に行っていないまま、この施設に来てしまったが、元気でやっているのだろうか。
きっと便りのないのは良い便りということだろう。祖父も第二の人生を楽しんでいると良いけれど。
あの日、もし祖父と話をしていなければ、あたしの未来はまったく違うものになっていただろう。結局は小説家になる夢は玉砕して、看護婦になる道を選んだものの、回り道をしただけの価値はあったはずだ。
人生に無駄なものなど何もない。そういう意味では、とても感謝している。
あたしが夢を叶えようと奮闘し、必死に青春を謳歌していた一方で、母はあたしや祖父という支配する相手を失ったせいか、日に日におかしくなっていたようだ。遠く離れても、なお干渉してこようとする母に反発し、一度大きな喧嘩をした。それ以来、しばらく連絡を無視していたら、いつの間にか若年性認知症を患っていたらしい。
気がついた時には、父が知り合いのツテを利用して、富士の樹海にできたという、新しい施設に入れてしまった後だった。
やっとあたしがスタッフとして、この施設に来た時には、母は重症患者向けの病棟に転居していて、特別な治験をしている段階ということで、家族ですら面会が認められなかった。
母は何もかもを手に入れようとして、全てを失ったようだ。
きっとあたしたちの人生を支配しようとしたから、バチが当たったのかもしれない。お天道様はちゃんと見ているのだ。
だがこれで母と仲直りするチャンスはなくなった。それだけが心残りだ。きっとあたしは、死ぬまで後悔しつづけることだろう。




