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ろうじんとし。  作者: 夢手機ノヒト
17/41

【きぼうとし。(1)】 桐崎 貞子

 人生なんてサバイバルゲームみたいなものだ。


 強いやつが勝つ。ただそれだけだ。

 負けたものは何もかもを諦めて、ただ死んだように生きるしかないのかもしれない。


 最近よく思い出す。あたしが高校生だった頃、まだ夢も希望もあった時のことだ。あの日は、夏休みを利用して、祖父の家を訪れることになっていた。


 あたしは祖父に同居をするように、お願いするためにやってきたのだ。実際はお願いというより、強制するために、母に送り込まれた、刺客のようなものかもしれない。


 祖父にはずっと頑なに拒否をされていたが、可愛がっている孫娘の言うことなら聞くのではないかという算段らしい。


 いつものように母の命令は絶対で、拒否をする権利は与えられなかった。母の機嫌を損ねると面倒なことになる。だから従うしかなかったのだ。




 祖父が引越しをしたというシェアハウスは、古い小学校を改造したものだった。


 久しぶりに足を踏み入れた小学校の校舎は、懐かしい風景ばかりだ。靴箱、長い廊下、水飲み場、階段の踊り場、大きな扉、たくさん並んだ窓、一瞬で自分の小学生時代に、トリップしてしまいそうな感覚に襲われる。


 廊下の壁に、将来の夢と書かれた作文が貼られている。昔に書かれたものがそのまま残っているようだ。ほかにも習字の『未来』という文字がいくつも並んでいる壁もある。上手なものも、下手くそなものも、いろいろだ。


 これを書いた子供達は、今、どんな未来を過ごしているのだろうか。過去と未来と現在に思いを馳せた瞬間、なぜだか不意に、胸がキュッと苦しくなった。


 あの当時の、あたしの夢はなんだったのだろう。


 ピアニスト、バレエリーナ、いくつも夢を見るたびに、母に否定をされて、簡単にその夢を壊してきた。否定されてやめるぐらいだから、きっと本気ではなかったのかもしれない。


 母にピアノを習いたいと言った時も、役に立たないことに使うお金と時間がもったいないからと取り合ってもらえなかった。代わりに内職を手伝う時間を増やされたぐらいだ。


 結局はピアノを習っているという同級生に無理を言って、放課後にピアノを教えてもらい、少し覚えただけで満足してしまったが、きっと今の自分なら人に習ってまでピアノを一から弾こうなんて考えもしないだろう。やる前から諦めていたかもしれない。


 昔は素直だった。役に立つか役に立たないかなんて関係なく、ただやりたいと思ったことをしようとしていたはずだ。なのにやろうとすることを、いちいち母に否定され続けるうちに、いつの間にかいろんなことに興味を失った。


 どうして今のあたしは、こんなに不自由なのだろう。大人に近づくほど生きやすくなるのだと思っていた。実際は生きれば生きるほど、勝手に壁を作り、自分で自分の可能性を狭めている気がする。


 今度の夢はどうだろう。口では本気だと言ったが、同じようにまた壊してしまうのだろうか。


 いろんなことを諦めてきたあたしでも、母に反対されても、唯一続けていたことがあった。それが小説を書くことだった。


 人生で初めて好きになった男子の特殊能力が、物語を作ることだと聞いて、すぐに感化された。見よう見まねで思いついた設定を、冒険日誌というノートに書いて、見せ合いっこをしていたのがきっかけだった。いつの間にか、あたしも物語を作ることに夢中になっていた。


 どんなにクラスでいじめられていても、空想の世界で物語を作っているときは楽しかった。あたしの生きる糧だったのだ。


 だから、これだけは譲れない。譲ってしまったら、自分が自分でなくなる。そんな気がしていた。


 あたしは自分自身を守るために、祖父を生贄にしようと、今日はここに来たのだ。祖父にとってはあたしは悪魔みたいなものかもしれない。


 スマートフォンが振動する。母からメッセージが届いたようだ。


「期待してるから頑張って」


 無責任な言葉だ。


 失敗したら『期待していたのに』と恩着せがましくがっかりされ、成功したら『自分が応援したおかげ』と手柄にされる。


 母は呪いの言葉を紡ぐ天才なのかもしれない。

 返事を書かずにメッセージアプリを落とす。ため息をついてからスマートフォンをポケットにしまった。




 最上階にある図書室の扉を開けると、白髪頭の祖父がこちらを見た。


「おや、貞子さんじゃないですか。遠いところまで、さぞかし疲れたでしょ」

「大丈夫。新幹線でたっぷり寝てたから」


 丸眼鏡をかけて、背筋をピンと伸ばし、ツイードジャケットを着こなしている姿は、英国紳士のような佇まいをしていた。


 祖父の好きな和菓子を手渡す。お土産として母に持たされたものだ。


「大きくなりましたね」

「去年と身長は変わってないよ」

「人間的にということです。進路に悩んでいた時期に比べると、今は大人な目をしてますから」


 祖父は微笑んだ。すべてお見通しということだろうか。


 だが残念ながら、あたしの目はくすんでいるはずだ。自分のために他人を犠牲にしようとする、汚い大人になろうとしているのだから。


 祖父は本をいくつか手にしていた。洋書だろうか。真紅の布張りの表紙に金色の英字が書かれている。ほかにも軍艦島などの廃墟をまとめた、写真集もあるようだ。それぞれを本棚に戻しながら祖父は言った。


「ここはわたしの本棚代わりでしてね。お気に入りの場所なんですよ」


 祖父が昔住んでいた自宅には、大きな書庫があった。若い頃は国語教師をしていたらしく、蔵書はかなりなものだった。書庫にあったすべての本を持ってきているのだろうか。


「貞子さんも気に入った本があれば、いくらでも借りていいですよ。昔みたいにね」


 小さい頃、夏休みや正月に、祖父の家に遊びに行くたびに、書庫で見つけたいろんな本を読ませてもらうのを楽しみにしていた。荷物になるからと母に嫌な顔をされても、何冊も持ち帰っていたものだ。


 本棚には、日本の文豪たちの古い書籍や現代小説のほかにも、海外の洋書だけでなく、子供向けの絵本や漫画、ライトノベルもたくさん並んでいた。実家の書庫では、ほとんど見なかったジャンルの本がいろいろ混じっている。


「おじいちゃんがこういうのも読むなんて、意外だね」

「週に一度、近所の子たちに、読み聞かせの会をしてるんです。ささやかな社会貢献というやつですよ」


 壁に貼られたチラシには、次の読み聞かせの会が、今日の夕方と書かれていた。


「適任だね。おじいちゃん、本読むの上手だもん」

「まぁそれが仕事でしたからね」


 祖父は苦笑する。


 小さい頃は祖父の膝に座って、いろんな本を読み聞かせをしてもらっていた。祖父の低く落ち着いた声は、ずっと聞いていられる。耳に心地よい声色だった。


 子供が読むには難しい本でも、祖父が解説をしながら読み上げてくれたおかげで、あたしは数多くの物語の世界を体験できた。祖父はあたしにとって、いつも未知の世界への架け橋だったのだ。


「最近は定番の児童向けの小説だけじゃなく、子供達に人気の漫画やライトノベルを朗読するっていうのも、やってましてね。臨場感たっぷりに読むと、結構盛り上がって、なかなか面白いですよ」

「いいなー。面白そう」


 机の上に感想ノートと書かれた、帳面が置かれている。


 中を見てみると、子供の文字が乱雑に書き込まれていた。面白かった、泣いた、驚いた、格好よかった、いろんな感情が目に飛び込んでくる。まっすぐで綺麗な言葉が、ノートの中で踊っていた。


「やっぱり昔も今も、物語に夢中になる子供を見るのは、幸せな瞬間ですね。時代を超えて、物語が受け継がれていくのは、とても楽しいです」


 昔のあたしもまた、祖父によって物語の楽しみを教えて貰った身だ。なのにあたしは祖父からこの場所を奪おうとしている。そんな権利があたしにはあるのだろうか。


 どう言い出したらいいのか。よくわからずに黙っていると、祖父が口火を切った。


「もしかして、代わりに説得するように頼まれましたか」

「……うん。おじいちゃんが同居しないなら、あたしを東京に行かせないって、お母さんに言われた。ごめんなさい」


 祖父が住んでいた区域が再開発の対象になり、いずれ立ち退かなくてはならないという話が出ていた。


 しばらく母が田舎で同居するように説得していたが、なんの相談もなく、このシェアハウスに引っ越してしまったらしい。それが母は気に入らないのだ。自分の目の届かないところで、勝手に物事が決まるのは許せないのだろう。


 いつだってそうだ。母は自分の思い通りにならないものが、この世に存在するということが、耐えられない性分だった。


 思い通りにならなかった後でも、ぐじぐじと嫌味を言い続ける。それが母の生きるエネルギーみたいなものなのかもしれない。できることならば、あたしはそんな大人にはなりたくない。


「謝る必要はないですよ。わたしだってワガママを言っているのは、理解していますから。でもさすがに本を置くところがないからって、ほとんど捨てろと言われると厳しいですね。どの本も大事ですから」


 祖父は我が子を見守る親のように、本棚を眺めている。


「なんでこの年になって、邪魔だからって、自分の大事なものを捨てるように、誰かに命令されなきゃいけないのでしょうかね。たとえ家族であっても踏み入ってはいけない領域というものが、誰にでもあると思うのですが」


 祖父は腕組みをして、小さなため息をついた。


「ずっと疑問に思ってたことがあるんです。老人だから一人で住んだらダメだと、世間の人は言うけれど、どうしてでしょうかね」

「心配だからでは」


「いつ死ぬかわからないからですか」

「それは……」


 あたしは答えに詰まった。


「今時は若い人だって、突然死んだりするじゃないですか。病気や事故だけじゃなく、震災や疫病なんかでも、誰だって、明日死ぬ可能性があるのに。なんで老人だけが一人でいたらダメなんでしょうかね」


 言われてみれば確かにそうだ。改めて考えたこともなかった。統計的に若者より老人の方が、死ぬ確率は高いかもしれない。


 だがいつの時代も、事故や病気、天災によって命を落とす可能性は誰にでもある。実際にここ数年だけでも、若い命がなすすべもなく、震災や疾病、異常気象で、ある日突然、失われてきたことを、あたしたちは嫌という程、よく知っている。


「でもやっぱり病気なんかで倒れた時は、そばにいたほうが」

「二十四時間、必ずそばにいるわけじゃありませんよね。時間的なことを考えたら、離れている時に、相手が死ぬ可能性のほうが高いかもしれない」


「それは……そうだけど」

「いくら同居していても、突然倒れた相手を救えるとは限りませんから。わたしの妻だって、ずっと一緒に暮らしていたのに、わたしがたまたま遠出をしていた日に倒れて、そのままでしたから」


 祖父は穏やかな表情で淡々と語っている。


「それまで何十年も、全然別の生き方をしてきた人間が、家族だからってだけで世間体を気にして、相手や自分の生活を全部犠牲にしてまで、一緒に住まなきゃいけないなんて変ですよね。誰も得をしないのに」


 年老いた親の面倒を子供が見る。日本では当たり前のことのように思われているが、海外では親は親、子供は子供という考えの国も多い。いくら家族とはいえ、しばらく離れていた親子が同居することで、発生するトラブルもないわけではない。家族だからこそ衝突することもあるからだ。


「偉そうなことを言いましたが、結局はわたしのエゴなんですけどね。ただ本を捨てたくなかった。それだけなんですよ」


 祖父は愛おしそうに、本棚をじっと見上げる。


「もちろん人が人と生きている以上、いくらか我慢しなきゃならないことがあるのはわかっていますよ。でも誰だって絶対に譲れないものがあるでしょう。貞子さんにもあるんじゃないですか。譲れないものが」


 あたしが譲れなかったのは夢だ。

 なれるかどうかもわからない儚い夢。


 大人からしたら愚かな考えだろう。きっと母のいいなりになって、地元の看護学校に進んだほうが賢い生き方なのかもしれない。


 けれど子供が夢をみなかったら、誰がみるというのだ。


 大人だって昔は子供だったのに、どうして多くの大人は忘れてしまうのだろう。夢をみるなんていう馬鹿げたことができるのは、人間だけだ。役に立つかどうかだけで、生き方を選別していたら、きっと人間はいつの日か滅びてしまうだろう。


「……あるよ。あたしにだって譲れないものが」

「でしょう。なら自分の大事なものを守るために戦うことも時には必要なんじゃないですかね」


 祖父は本棚の背表紙が、ずれているところを見つけると、丁寧に並べ直していく。


「とはいえ、本を捨てるぐらいなら、一人で暮らすって息巻いていたんですが、なかなかこの歳になると、新しい引越し先を見つけるのも難しくてですね。困っていたところを、オーナーの姫川愛子ひめかわ あいこさんに、ここに住めばと誘われたんです。ここならいくらでも本が置けるからって」


 確かにここに住めば、本を捨てる必要はないだろう。祖父は自分の新しい城を見つけたのだ。


「昔仕事をしていた、学校という場所に住むのは、なんだか不思議な気持ちがしますが、毎日それなりに面白いですよ。時々子供に教えたりするのも懐かしいですし。わたしのほかにも、近所に住んでる元職人さんが寄木細工を教えたり、週に二日ぐらい、あまり家庭環境の良くない子供たちのために、食堂を開いてる人もいたり、いろいろこの学校を利用してる人がいるんですよ」


 祖父は本棚から一冊本を取り出した。見覚えのある表紙だ。アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』だった。


「よかったら今日の読み聞かせ会、手伝ってもらえませんか」

「でもあたし、あまり人前でしゃべるの上手じゃないよ」


「大丈夫です。子供達は、噺家の独演会を聞きに来てるんじゃないですし。本の中に閉じ込められているお話を聞きに来るだけですから。読んでいる人間が、その物語の力を信じている限り、いくら下手でも、きちんと相手には伝わるものですよ」


 そう言って祖父は皺だらけの手で、子供の頭を撫でるように、本の背表紙を優しく触った。


 ふいに何か思い出したように、祖父が「少し待っていてください」と書庫に消えた。しばらくして、戻って来た祖父が差し出したのは、古いノートだった。


「どうしても説得できないときは、これを使いなさい」

「なにこれ」


「黒歴史というやつです」

「黒歴史?」


「実家の押入れを片付けているときに、出てきました。たぶん本人も忘れているでしょうけど、きっと効果覿面ですよ」

 祖父がいたずらっ子のように、ニヤリと笑った。




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