【へいさとし。(6)】 朝比奈 涼
「どう。いい感じでしょ」
看護師は大きな手鏡を反射させて、後ろが見えるように調整している。悔しいが、確かに何割り増しかで、良い男に見える気がした。
「じゃあ、洗いますねー」
シートを回して、洗面台に頭を乗せられた。髪をお湯でゆすいでから、シャンプーをつけて泡立てている。
「痒いところがあったら言ってね」
お湯の温度、指の動き、どちらも心地よい。昔小さい頃に通っていた美容院よりも、カットだけでなく、すべてにおいて技術が上かもしれない。
人格面では難ありとはいえ、こんなよくわからない地下街の店でなければ、ずっと今後もヘアカットをお願いしたいところだ。
ドライヤーで髪を乾かされ、頭もすっきりした。実に清々しい。こんなことなら、もっと早く美容院に行けば良かったのに、なんて気持ちになってくる。
だがこれもまた風呂の時と同じで、しばらくすると、あの行動を起こす前の、何もかもが面倒臭いという重圧感に逆戻りするだけだ。一番信用ならないのは、俺自身の感覚と記憶かもしれない。
「動かないでね」
看護師が泡を顔に塗りたくってきた。カミソリを手に持ち、にっこりと笑う。
「心配しないで。あたし、上手だから」
しばらくは警戒していたが、ジョリジョリと無精髭がそぎ落とされていく感覚が、やけに気持ち良くなってきた。
いつの間にかウトウトしていたらしく、目が覚めると看護師の顔が近くにあって、ビクッとして固まってしまった。
「残念。お姫様の目覚めのキスとかしてあげようと思ったのに」
油断も隙もない。看護師はクスクスと笑って、髭剃りを続けている。
「もしかして君、気絶しやすい人なの?」
「……少し疲れたから、目をつぶっていただけだ」
「ただ引きこもってるだけのくせに、疲れてるアピールとか。生意気だね」
「うるさいな。俺は低燃費で生きてきたから、少し普段と違うことをするだけで疲れる体質なんだよ。それにここには、勝手に拉致られて、ずっと閉じ込められてるだけだ」
「でもその前も引きこもってたんでしょ」
「別に……好きで引きこもってたわけじゃない。お前みたいな無神経な女には、俺の気持ちなんかわからないだろうけどな」
「何それ。当たり前じゃん。わかるわけないでしょ、他人なんだから」
看護師は噴き出すように笑っている。なんだかバカにされているようでムカつく。
だが言われてみたら、確かに他人の気持ちをわからないなんて当然だ。自分の気持ちでさえ、うまく理解できないんだから。
「わかんないからこそ、こうやって話すんでしょ。君だって、少しはちゃんと文句もいろいろ言えるようになって良かったじゃん」
そう言った看護師は、髭を剃り終えると、残っていた泡を、蒸しタオルで丁寧に拭き取る。首からケープを外して、小さなホウキで髪の毛をはたき落としていく。
「なんでもかんでも一人で溜め込むより、直接文句言ったほうが、人生面白くなるよ。あたしはそれで何度も失敗したから、もう我慢するの止めたんだ。そしたら少しは楽になったよ」
すべての作業を終えると、看護師は俺の両肩に手を乗せる。
「マッサージしてあげようか。結構上手なんだよ」
「別にいらない」
「なんだー。追加料金せしめようと思ったのに。残念」
まったくもって油断も隙もない。
「はい、できあがり。じゃあ、ポイントもらおうかな」
「ポイント?」
「ここでの生活は全部、ポイントがお金扱いなんだ。ほら端末に数値が書いてあったでしょ」
あのスマートフォンのことか。もちろん、今は持っていない。風呂で倒れて医務室に運ばれたんだから、部屋に置いたままだ。
「持ってきてるわけないだろ」
「大丈夫。顔認証さえすれば、どの端末でも使えるから」
看護師は、部屋で見たのと同じようなスマートフォンを出してきた。俺の顔にかざすと、名前とポイントが表示される。
「このままバーコードをチェックしたら、ほら」
電子決済と同じような仕組みなのだろうか。表示されていた金額が変化した。
「これ……マイナスになってないか」
「なってるね」
どういうことだ。数字が赤く表示されている。
「まだポイントが貯まってないのに、使ったからマイナスになったってことだね」
「ちょ、ちょっと待て。そんな話は聞いてないぞ」
この看護師、まさかわざと俺を陥れるために、親切なふりをして、髪を切らせたのか。
「いきなり借金生活みたいな、そんなみっともないことできるか」
「引きこもりは、みっともなくないの?」
俺は答えに詰まった。
「H様って、そういうところあるよね。みっともないからやりたくないとか、やたらと人目を気にするわりに、一番みっともないことはスルーするみたいな。自分だけのご都合ルールっていうか」
「……今はそんな話はしていないだろ」
どいつもこいつも俺のことバカにしやがって。
「とにかく、頑張って今週末までにポイント貯めないと、ヤバイことになるかもね」
「ヤバイことって、どういう」
「毎週テストがあるんだよ」
「テスト?」
「いわゆるこの施設に、ふさわしいかどうかのテストっていうか。マイナス状態のままだと、本気で引きこもりから自立する気がないとみなされて、強制退去ってことになるんだけど」
「それって、もしかして、ここから出られるのか」
「まぁ……そうなるね」
やった。これで出られるってことじゃないか。ようやくここから、合法的に出る方法を見つけた。
あれほど引きこもりたいと願っていたはずなのに。すっかりこの施設の策略にはめられている気がするが、こんなところにずっと閉じ込められているよりはマシだ。
看護師は困ったような表情を浮かべている。
「やめといたほうが良いと思うよ」
「なんで。外に出られるんだろ」
「詳しいことは知らないけど、強制退去になったH様って、出て行くときに、エレベーターで地上じゃなくて、必ず地下十三階に行くんだよね」
「地下十三階?」
「それっきり戻ってきたのを、みんな見たことがないから。普通に外に出られるってわけじゃなさそうっていうか」
「その地下十三階って、何があるんだ」
「知らない。あたしたち一般スタッフは入れないフロアだから。みんなが噂してるのは、実はそこに連れて行かれたH様のメンツが、人力で自家発電でもやってるんじゃないかとか」
「人力って、今時ありえないだろ」
看護師は噴き出すように笑った。
「冗談だよ。でも少なくとも、わざとポイントをマイナスにしようなんて、考えないほうが良いと思うけどね。じゃあ、お会計も終わったし、そろそろお帰りいただきましょうかね」
看護師に背中を押されて、店の外に出てみたものの、医務室の場所ならわかるが、自分の部屋がどこにあるかすらわからない。
「戻り方わかんないでしょ。あたしが一緒に行ってあげる。ちょっと待って、端末で確認するから」
スマートフォンで、フロアマップか何かをチェックしているようだ。あの端末に、数字以外を表示する機能があったとは。一般スタッフだけが使える仕組みがあったりするのだろうか。
「地下六階だって。じゃ、行こっか」
歩き出した看護師は、俺の隣に並ぶと、まるで恋人気取りで腕に絡みついてくる。だから胸を当てるなってば。
「まさか案内料を取るとか言うんじゃないだろうな」
「大丈夫。別料金は取らないから。……今はね」
今は、というのはどういう意味だろう。
やけに心臓がドキドキしていた。こんなに女と密着して歩いたことなどない。
赤いドレスがやけに目にちらつく。無意識のうちに本能が刺激されているような気がする。
赤というのは血の色だ。赤い色は交感神経を刺激して、体感温度を上げるなんてのをどこかで聞いたことがある。
まさかこの女、こうなることを見越して着替えてきたのか。なんだか嫌な予感がする。俺は操られているのだろうか。
だが俺には逃げ場もないし、ほかに行くところもない。今はついて行くしかないのだ。
腕に当たる柔らかい感触に、体の全神経が集中しているような気がする。脳みそや下半身に直撃してくる感覚がうるさくて、気が狂いそうだった。顔がにやけてしまうのを必死にこらえながら、俺は看護師と一緒に、エレベーターに乗り込んだ。




