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ろうじんとし。  作者: 夢手機ノヒト
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【へいさとし。(3)】 朝比奈 涼

 しばらくすると、もう一度アラームが鳴った。

 次の食事にはタイミングが早すぎる。よくわからないが、足跡のマークの上に立って、扉が開くのを待った。


 届いたのは食事ではなく、スマートフォンだった。見たこともない機種だったが、思わず俺は小躍りしそうになった。これでやっと暇つぶしができる。


 だが、電源を入れてみても、表示されるのは数字だけだ。専用システムしか起動しないように設定されているのかもしれない。俺の期待は一瞬で破裂して粉々になった。


 とにかく俺を絶望させることが目的だとしたら、この施設は実に理にかなっている。俺の絶望はどんどん膨れ上がっている。


 これ以上絶望したら、発狂して外に飛び出してしまうかもしれない。もし絶望によって、引きこもりを解消することが証明されたら、この施設を作ったお偉いさんは、論文でもなんでも発表すればいい。


 だが今はくじけている場合ではない。俺をこんなところに閉じ込めた弟を、一発でもいいから殴って、文句の一つも言いたいところだ。まずは、なんとかして外に出なければならない。そのためならできることは、なんでもするしかないだろう。


 ふいにスマートフォンからメロディが流れた。画面には『お風呂に入ってください』というメッセージが表示されている。


 なんで誰にも会わないのに、風呂なんて入る必要があるんだ。バカじゃないのか。そう思ったが、メッセージには続きがあった。何度もタップをして、内容を確認する。


「お風呂は一回入るごとに10ポイント差し上げます。シャワーのみの場合は2ポイントです」

「連続で入った場合は、日数に応じてボーナスポイントが加算されます」


「まずは、合計ポイント500を目指しましょう」

「目標を達成したら、ご褒美が与えられます。ご褒美は獲得ポイントによって、要求できる内容が変わります。食料や娯楽品のほか、一時間から最高二十四時間まで、外部活動が楽しめる自由時間など、さまざまなご褒美が用意されています。頑張ってポイントを貯めてください」


 合計ポイント500ってなんだ。自由時間ってどういうことだよ。ポイントを貯めないと、外出すら許されないってことなのか。もう一度メッセージを確認しようとしたが、何も表示されていない。


「なんなんだよもうっ!」


 思わず怒りに任せて、スマートフォンを投げそうになったが、唯一の情報源を壊すのは得策ではない。深呼吸をして、なんとか心を落ち着けようとした。


 とにかくこの部屋を出るためには、スマートフォンの指示に従うしかないようだ。


 俺は仕方なくしばらくの間、部屋の中をウロウロと歩き回る。風呂に入らなくてはならないが、入りたくないという気持ちと戦っていた。そんなことをしても、風呂に入らなくてはならないという試練が消えるわけでもないのに。やはり俺の脳みそは壊れているのだろうか。


 どのぐらい時間が経ったかわからないが、歩くという運動が脳に作用したのか、なんとか根深い怠惰に打ち勝つ瞬間が訪れた。


 やらなければならないことを、当日のうちにこなせるなんて、まるで奇跡である。俺はスウェットを脱いで、ユニットバスに向かった。




 お湯を溜めながら体と髪を洗う。家で使っているボディソープやシャンプーとは違って、匂いが気に入らないがしょうがない。


 シャワーすら一週間に一度ぐらいしか入っていないせいで、髪の毛は油でギトギトだ。しばらく髪の毛も切っていないので、胸元ぐらいまである長い髪が、水に濡れるとホラー映画に出てきた貞子みたいになる。髪をゆすいで流すだけでも一苦労だ。


 案の定、立ちくらみのような症状が出て、しばらく座り込む羽目になった。


 だから風呂に入るのは嫌なのだ。いかに低燃費に生きるかに命をかけているような俺にとって、風呂という作業は、体力を消耗しすぎる。俺を殺す気か。


 だが俺がこんなところで死んだら、弟の友也は喜ぶだろう。そんなことは絶対にさせない。生きてこの施設を出てやる。


 そうだ俺は本当はすごいんだ。こんなにしんどいのに、髪を洗えるなんて。

 赤ちゃんの頃の俺は、一人でこんなことできなかったんだぞ。幼稚園の時だって無理だ。俺はすごいんだ。


 こんな馬鹿げた自画自賛でもしていないと、やってられない。必死に自分を褒めながら、だましだまし作業を続ける。なんとか体と髪を洗い終えた頃には、湯船にたっぷりとお湯が溜まっていた。体を湯船につけると、ざぶんとお湯が溢れ出る。


 きちんと湯船に入るのは何年ぶりだろう。こんなにお風呂のお湯って、気持ち良かったっけ。そうだ。いつも入る前は面倒なのに、入ってしまえば、それなりに気持ちよくなるものなのだ。


 なのに、どうしてこの気持ちを覚えていられないのだろう。毎回入る前の不愉快な気持ちにリセットされてしまう。きっと脳みそが壊れているのかもしれない。だから俺が悪いんじゃない。やっぱりこんな脳みそを作った神様が悪いのだ。


 そんなことを考えているうちに、久々の風呂でのぼせた俺は、疲れ果てて湯船の中で眠ってしまったらしい。




 気が付いたら医務室のようなところで、点滴を打たれていた。やっぱり風呂なんて入るんじゃなかった。これでは外に出る前に俺が死んでしまう。


 だが、ある意味アクシデントのおかげで、部屋の外に出ることはできたのは確かだ。このまま医者や看護師のいなくなった隙を狙って、医務室を出れば、何かしら外に出る方法が見つかるかもしれない。


 俺は人気がなくなるのを待って、ずっと寝たふりを続けていた。だがいつまで経っても、誰かが部屋に残っている気配がする。しかも点滴を外しに来た看護師が、俺の脈拍を測り始めた。女に触れられるのは何年ぶりだろうか。思い出せないぐらい遠い記憶にしかない。


 というか俺は風呂で溺れて、ここにつれてこられたということは、誰かに全裸を見られたということではないか。もちろん医者や看護師は、裸なんて見慣れているだろうが、こちらはそうでもない。


 俺がモテたのは小学生の低学年までだ。弟の友也がいちいち俺を陥れるせいで、すっかり女子人気がダダ下がりになって、卑屈になった俺は、ますます孤立したのだ。


 おかげで女性と付き合ったことなど、一度もない。だから裸体を赤の他人に見られるなんて、絶対にありえないし、羞恥心への耐性も、開き直る勇気もまったくない。


 とりあえず今は全裸ではなく、診察用のパジャマみたいなものを着ているようだが、発見されたときの状況を想像しただけでも、恥ずかしくて死にそうになってきた。ヤバい。心臓の鼓動が大きくなっていたら、どうしよう。


「目が覚めているのなら、とっとと起きてくれませんか。あたしも忙しいんですけど」


 バレてる。どうしてだ。


「昏睡状態の患者さんが、脈拍を測り始めてから、急に心拍数が上がるなんてことは、普通はあり得ませんから」


 なるほど。ごもっともな話だ。

 俺は観念して、起き上がることにした。


「予定より早いですけど、せっかく部屋を出ちゃったことですし、このまま髪を切っておきましょうか」

「髪を切る?」


「そんなに長いと、お風呂に入るのも大変でしょ」

「まぁ……そうですけど」

「じゃあちょっと、予約入れますから」


 看護師は医療用携帯で連絡を取っている。


「ちょうど美容院のキャンセルがあったから、今から大丈夫そうです」

「い、今から」


 それは困る。心の準備がっ。

 人に髪の毛を触られるのは苦手で、小さい頃から慣れている美容院の人じゃないと無理なのに。


 だから引きこもるようになってからは、ゴムでまとめてやりすごすか、あまりにも長くなったら自分で適当にハサミでバッサリと切っていたのだ。なのにいきなり美容院イベントなんて、無理ゲーにもほどがある。


 文句を言おうとするが、長らく人と話していないせいで、うまく言葉が出てこない。いつもならムカついたり困った時は、何か物を投げれば良かったのに。しゃべって相手に気持ちを伝えるという、当たり前のことすらできないなんて。人としていかに退化しているかを思い知る羽目になろうとは。


「廊下でしばらく待っていてください」

「えっ、あ、はい」


 有無を言わせない感じのテキパキっぷりが半端ない。なんで俺はこんな女のいいなりになっているのか。この施設に来てからの俺は、どうなってしまったのだろう。俺の引きこもりとしてのプライドが、どんどん壊されていくような気持ちになる。


 いや、引きこもりのプライドってなんだよ。


 明らかに想定外のことが続きすぎて、頭がパニクっているのは、しっかりと自覚している。チェーンの外れた自転車を漕いでいる気分だ。空回りだけを繰り返して、まったく前に進めない。


 やりたいことはできないのに、恥ずかしい記憶だけが増えていく。

 気分は最悪だ。


 だから外に出るのは嫌なのだ。ずっと生ぬるくて、誰にも邪魔されない、あの静かで穏やかな俺の部屋での生活に戻りたい。




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