三千世界の鵺を殺しても
恋なんて、するだけ貴女が不幸よと思い出の中の母が言う。
愛し愛されたなら確かに幸せね。でも、私たちにそれは難しいわと、悲しそうに微笑んで、母は幼い私の髪を撫でた。
愛されなかった母は、本当は愛されたかったのだろう。
けれども現実は母にとって酷なものでしかなかった。
愛人の家に入り浸ったまま、顧みられることもなく、母の心はどんどん弱り、蝕まれていった。
現実に期待する事を止めた母は次第に夢の中へと逃げ込むように眠っている時間の方が起きている時間よりも増えていく。
母が病によって儚くなったのは私がアカデミーに入学するよりも前の事。
由緒正しい血筋でありながら、何故だか女しか生まれぬ我が家の女たちは皆高い魔力の素養を持つが、使える系統はひとつに限られる。
他のどの家にも生まれぬ第6の魔力。我が家の女だけが扱えるそれは、とても稀有なものである事は間違いなかったが、しかしだからこそ人々は私達を嫌厭した。
どうやら私達は他人からは災厄の象徴のように映るらしい。
実際は多少特殊な力が使えるだけで、内側に流れる血の色も、嗜好も、思考も、他の人々と何ら違いはないというのに・・・。
私達の愛はけして報われない。
それが母が私に教えてくれた事。
私達の愛はけして届かない。
それが母が私に身を以て証明してくれた事。
母が亡くなってすぐ、私の婚約が決まった。
まともに顔をあわせた事など殆どない父が、私にそれを言い渡し、逆らう事を許さぬその口調に私は黙って頷く。
どのみち、この血は残さねばならない。愛されないのであらば、誰が相手だろうと同じ事。
私が愛する事も、母の背を見ていた私ではあり得ないと言えるだろう。
だから、どうでも良かった。
どうでも良かったけれど、何もかも父の思い通りにされるのだけは癪だった。
母亡き後、父は愛人を正妻に迎えようとしたが、この家の権利は全て元々母のものだ。
母亡き後は私のもの。この家で父が自由に権利を振りかざす事を私は許さなかった。
けれど、まだ未成年であり、父の庇護下にあった私では、法律によって全ての実権はえられず、どうしても多少は父に力を持たせてしまう事は止められない。
冷戦状態が続き、互いに睨み合いを続けるという殺伐とした家庭環境に、先に音を上げたのは父だ。
愛人を連れ込む事を諦め、再び愛人の家に入り浸る生活に戻った。
私は王立のアカデミーへと入学し、新しい日々を迎える。
けど、新しい日々と言った所で所詮は何も変わらない。このアカデミーで何を学び鍛えたところで、卒業すれば父が決めた裕福な商家の次男を婿に迎え、実質上の実権を握られ、その男の子供を生み、また次代へと繋ぐ。それだけの人生が待っている。
それだけしかない人生が。
そう思って疑わなかった。
しかし、思いがけない出逢いが、そんな私の人生観を変える。
暗澹たる思いを抱え、枯れた目で入学を祝うパーティーの広間をボンヤリと見つめていた私の目が、ふと何かを捉えた。
きらびやかな会場の隅。シックなカラーの分厚いカーテンを背にして立つ男性。
少し暗いそこに溶け込むかのように存在感を消す彼の、その髪の色に私は目を奪われた。
一瞬、私と同じかと思った。けれどもすぐに違う事に気付いて、より目を凝らす。
緑?いや、違う。青だ。
深い深い、夜の海のような青。群青。
宿す魔力の系統を、そのまま色彩として髪に宿すこの世界では、その色の明度もまた重要となる。
青は水。そして深く濃いその色が示すのは、その魔力の多さ。
何気なさを装いながら、会場の中心部へ視線を移す。鮮やかな青。今年私と同じくしてこのアカデミーに入学したあの方は、この国の第2王子だ。
国の主神、ミルメーア様は水の女神。王家は女神を信仰する神官でもある。だからこの国の王族は皆、水の魔力を持つ事は幼子でも知っているこの国の常識と言っていい。
きらびやかな会場の中央で、誰よりも注目を集める第2王子を静かな目で見つめながら、私は頭の中でこの国の王族についての情報を思い出していた。
現在の王家に王子は2人。
1人は正妃が生んだ今あそこで注目を集める第2王子で、もう1人の王子は
身分の低い側室が生んだ第1王子だ。
先に生まれた王子でありながら、その母親の身分の低さ故に、第1王子の王位継承権は第2王子より低いというその王子は確か私たちよりも1年早くこのアカデミーに入学していたように記憶している。
大多数の貴族は第2王子が次の王位を継承する事を信じて疑わないだろうが、しかしあの髪の色を見れば放っておく事はできまい。
己の権力を強くしたいというよからぬ企みを抱いて近寄ろうとする者がいるだろう事は身分の低い貴族の令嬢である私にも想像に容易い。
彼の意志はどうなのだろう。何を彼が欲しているのか。
私はそれが知りたかった。
少し目の下のあお隈が気になるが整った容貌をしているのだから明るい場所に出てちょっと微笑んで見せればすぐにでもたくさんのご令嬢が集まってきそうなものなのに、彼は表情もなく、ただじっとそこに立っている。
だからわざと照明が当たらない場所を選んだのだろうという事が容易に理解が出来た。
つまり、そういう事だ。
知らず知らずの内に弧を描く唇が、私の心の高揚感を表現していた。
彼だ。彼にしよう。
私は、彼に決めた。
愛人の家に入り浸った父は、例え娘のアカデミー入学式の日であろうと屋敷に帰る事など考えもしない。
使用人達も既に休んでいる真夜中、屋敷内は深閑と静まり返っている。
だというのに、ネグリジェではなく、よそ行きのワンピースドレスに身を包みきっちり髪を結い上げて化粧を施した私はどれだけ異様に見えるだろう。
どれだけ異様であろうと、しかしこの部屋には私以外の他の人の目はない。誰の目も憚る必要のない私は鼻歌まじりに最後の髪飾りを髪に挿して、暗闇の中で私だけをボンヤリと映し出す姿見で身だしなみを確認すると、くるりとドレスの裾を翻して回転する。
あぁ楽しい。とてもとても。
月明かりを遮るカーテンがしっかりとしめられているのを目で確かめて、私は両手に魔力を集めて鏡にそっとその手を重ねた。
波打つ魔力の波動が心地よい。
鏡の中へゆっくりと沈んでゆく私の両手。
さぁ、始めましょう。
深夜、突如感じた魔力の気配にジルスは飛び起きると、侵入者を警戒して身構えた。
魔力の気配は鏡台から感じられる。厳しい視線を向けたジルスの視線の先でまるで水面のようにゆらゆらと波打つ鏡に思わず睨みつけたままジルスは眉を寄せる。
まず、白い指先が見えた。華奢なそれが女性のものだと理解できたが、しかし警戒をゆるめずジルスは視線はそのままに枕元の剣の在処を手で探る。
鏡の中からジワジワと出てくるその人物。
「今晩は王子様。よい夜ですわね。」
朗らかな挨拶を述べた声は鈴の音のようだった。
鏡の中から現れたのはやはり女性だ。けれど予想を裏切るその若さにジルスは内心驚く。
ジルスと同じか、いやそれよりも年下か。少女と呼ぶに相応しいだろう真夜中の侵入者は、実に異様なものにジルスには映った。
真夜中だというのに、まるでお茶会にでも参加するかのような白いレースが幾重にも重なった上等なワンピースドレス。結い上げられた髪から垂れる銀色の髪飾りがシャラリと音を立てて揺れる。
幼さを残す容貌はそれなりに愛らしく整ってはいるが、しかし特別美しいわけではない。
けれど闇の中でも艶めくその黒髪の存在感にジルスは目を奪われた。
「そなた・・・何者だ。」
「初めまして王子様。私はフェリアと申します。貴方様に、提案をしに参りましたの。」
鈴のような声が軽やかにそれを告げ、ジルスは口の中で提案?と訝しげにその言葉を繰り返した。
「私は貴方様の役に立ちましてよ。貴方様の願いを叶えるのにきっと力になれるでしょう。」
「ほう・・・?よくわからぬが、そなたの言う俺の願いとは何だ?」
指先が剣に触れた。目線はそのままに素早くそれを掴み、ジルスは冷静な態度を崩す事なくフェリアと名乗る女に質問を返す。
彼女はニコリと上品な笑みを浮かべた。
「地位も名誉も関係ない、安穏な人生は如何?」
ピクリと揺れた肩を見逃さなかった彼女の目が細くなる。
「命を狙われない、権力者に利用されない、ただ放置されるだけ、そんな人生が素敵だと思いません事?」
歌うような口調で言葉を重ねるフェリアにジルスの目が見開かれた。癒えきれぬままの傷に爪をたてられたかのような気分だった。
ゴクリと緊張を飲み込んだジルスに、満足げな表情で微笑みを向けてくるこの少女が恐ろしくさえ思う。
ジルスはこの国の第1王子だが、しかしその王位継承権は正妃を母親にもつ弟より低い。
爵位の低い貴族の令嬢だった母は、寝所に侍ろと言う国王の夜伽の命令に逆らえず、たった一夜の戯れによってジルスを身籠った。
国王の子を身籠った事により、側室に召し上げられた母だったが、それが彼女の幸せに繋がったかと言えばけしてそんな事はなく、寧ろ身籠った事によって彼女は不幸な人生を強いられた。
誰の手によるものか、幾度も刺客に狙われ、無事に子は産まれたが、積もり積もった心労によって弱った彼女は産褥から癒える事のないまま、ベッドの住人となり、ジルスが物心ついてすぐの頃に亡くなった。
母親どころかなんの後ろ盾もないジルスが王になどなれるわけがない。
寧ろ送られてくる刺客から何とか生き延びるので精いっぱいだ。
だというのに、それでもジルスの存在を不安に思う者がいるのだろう。
ジルスはただ、生きたいだけだというのに・・・。
「・・・お前に何ができるというのだ。」
「そうですわねぇ・・・。ご説明差し上げてもよいのですが、そんな事をしていたら夜が明けてしまいそうですし、夜更しは乙女の大敵ですもの。百聞は一見にしかず。どうぞ、まずは結果をご覧になられて下さいまし。」
低く発したジルスに微笑みを崩す事なく、やはり歌うような口調でそれを言うと、最後に綺麗なカーテシーを披露して、フェリアは再び鏡の中へと消えていく。
残されたジルスは厳しい表情のまま、彼女の消えていった鏡を睨み続けた。
今のは何だったのか。あの、黒い髪の異様な少女。
結果を見ろなどと言っていたが、何をどう見ろと言うのか。
その疑問は、しかしその翌朝にあっさりと解消される。
正妃が擁していた貴族の一人がこれまで秘密裏に行っていた不正が露見し、これにより正妃側の派閥は大きく力を削がれた。
ジルスを消そうと幾度も刺客を送り込んできた人物の一人が消えたのだ。
これにはジルスも驚き、そして彼は安堵の息を漏らす。
「ご覧になられまして?」
その晩、フェリアはまたしてもジルスの前に姿を現した。
鮮やかな青のワンピースドレスを着た彼女を迎え入れたジルスもまた、夜着ではなく多少軽装ではあったが王子と名乗るに相応しい服装だ。
きっと今晩フェリアは再び現れる。そう確信していたジルスの予想が的中した事を内心喜びながら、それをけして表に出す事なくジルスはふっと鼻を鳴らす。
「お前の能力とその価値は理解した。それで?その力を俺の為に使ってお前は何を得たい?」
「子種です。」
「・・・・は?」
「貴方の子種です。」
「ちょっと待て。落ち着け。冷静になれ。」
「落ち着いておりますわ。至極冷静です。」
「何を言っているのかわかっているか!?」
「わかっておりますとも。えぇ、ちゃんと私は理解しておりましてよ王子様。」
相変わらず鈴のような声で歌うように喋る。
だが喋っている内容が内容である。ジルスはフェリアを凝視していた視線を落として頭を抱えた。
「ご安心なさいませ。別に良からぬ企みがあっての事ではございませんのよ。詳細は言えませんが、私の一族は女しか生まれませんし、貴方様が生涯沈黙を貫いてさえくだされば尊き血の事はけして知られはしないでしょう。」
「なんだそれは・・・」
「私、このままいけば好きでもない男と結婚してその男の子供を生むだけの人生しか待ってはいませんわ。」
珍しくもない、よくある話だ。彼女もそれを自覚し、そしてジルスがそれを思ったのを気付いたのだろう。
ニコリと微笑んだ彼女の目が、悲しい光を弾く。
「どうせ幸せにはなれないのなら、せめて自分が生む子供は自分が選んだ相手の子供がいいのです。そうしたら、子供の事は愛しく思えるはずですから・・・。」
「政略結婚でも幸せになれる夫婦はいるだろう。」
「王子様は私の髪を見てそれを仰っておりまして?」
間髪おかずに言い返したフェリアの少し低い声にジルスはあっとなって口を閉ざした。
忘れていた。
他の者に感付かれるのを避けて、今宵も部屋の照明は消したままだ。
明かりのない室内で、ジルスは彼女の漆黒の髪の事を失念していたのである。
「・・・闇の魔力か。」
「やはりご存知でしたのね。」
「一応これでも王族だからな。」
王族だけに伝わる稀なる一族の話。
その一族だけしか持たぬ闇の魔力を人は恐れ、恐れるが故に迫害した結果、その数は減り、今では隠れて生きていると聞く。
「普段は髪の色を変えて生活しておりますのよ。こんな色だと普通に生活する事も難しいので。」
「・・・だろうな。それで何故俺なんだ?」
「直感です。」
「直感?」
「理由という理由はありませんの。ただ直感としか。」
「なんだそれは。」
意味不明過ぎるだろうと思わず笑ったジルスに微笑むフェリアの目も柔らかくなる。
気取った笑みではない。きっとこれが彼女の素の表情なのだろう。
特別美しいわけではないが、やはりこうして微笑む彼女を見ていると彼女は愛らしく、人は不吉と評するこの黒髪も、ジルスには美しいと思う。
破魔の力を持つというオニキスも、この髪と同様に艶めいた漆黒をしているじゃないか。
ならばこの髪だって、オニキスと同じ力を持っていてもおかしくない。
ジルスは右手を差し出す。
「いいだろう。手を組もう。」
パッと表情を輝かせて、フェリアはジルスの右手に自身も右手を出して握る。
二人の関係が成立した記念すべき夜だった。
それからの日々は、目まぐるしくもあったが、それなりに楽しい日々だったとジルスは思う。
弟を王位に就けたい正妃は、弟がアカデミーを卒業し、正式に国王が次の王に弟を指名するまでは安心などできぬと考えているらしい。
刺客は何度もジルスを襲ったが、その度にジルスの影がまるで別の生き物のようにするすると動き、刺客の影を縛り、その動きを封じるのだから、彼らをジルスが撃退するのはとても容易いものであった。
毒を仕込まれても、それを口にするまえに影がジルスの動きを止めるので、それを食べてはいけないのだと理解できた。
命を奪われる心配がないとはこうもゆっくり眠れるものだったのか。
安眠を知り、熟睡を知ったジルスの身体はどんどん体力をつけていく。
不安が消え、体力が増え、ずいぶんと呼吸がしやすくなった。
息がしやすい。肩の力が以前よりも抜けてきているのが自分でもよくわかる。
フェリアはジルスに自分を呼び出したい時は鏡に呼びかけろと言った。
実際、ジルスが鏡にフェリアの名を囁やけば、彼女は数分とおかずジルスの前に現れた。
何となく呼び出して、眠れないから話し相手をしろと言えば、呆れた顔をしつつも彼女は頷いてジルスに付き合う。
トランプやチェスもした。巻き添えにしてしまう事を恐れて友人と呼べる存在も作る事が出来なかったジルスは、これまでそんな遊びをする相手がいなかった。
不慣れなジルスに遊び方を教え、慣れてきた頃、ジルスが勝つことが多くなると、フェリアがムキになってもう一度やりましょうと低い声で言うのが面白かった。
どうやら彼女は負けず嫌いらしい。
ゲームの遊び方を少しずつ理解していくのと同時に、少しずつジルスはフェリアという人間を知っていく。
闇の魔力を持っているが、他と違うのはそこだけで、フェリアは普通の少女だった。
負けず嫌いで、可愛いものが好きで、甘い物が大好きな少女。
真夜中の話し相手という迷惑な頼みだって文句ひとつ言わず付き合ってくれる優しい少女。
彼女がジルスの前に現れるのは夜の間だけ。
だが、明るい間も光が当たれば影ができる。その影を通じて彼女がジルスを見守っているのをジルスは感じていた。
不快感はなかった。寧ろどこか安堵感があった。
誰にも見向きもされなかった一人ぼっちの王子だったというのに、いつ殺されるともわからぬ身であったのに、今では孤独も恐怖もない。
ジルスが先にアカデミーを卒業したその1年後、弟も無事何事もなくアカデミーを卒業し、王は彼を次期国王に指名した。
ジルスは正式に王籍を抜け、臣下にくだる事を王に伝えると、正妃はとても美しく微笑んで「寂しくなりますね」と言った。
きっとフェリアも影を通してその様子を見ていただろう。
王籍を抜けたジルスに、もうこの城に居場所はない。せめてもの情けと与えられた田舎の小さな領地と屋敷にジルスは早々に住まいを移した。
何の思い出もない城を出ていく日、ジルスはとても晴れ晴れとした思いで見送りもないまま新居へ旅立つ。
「おめでとうございます。」
新居へ住まいを移したその晩、やはりフェリアはジルスの前にその姿を現した。
白いレースが幾重にも重なったワンピースドレス。彼女が動く度に細やかに揺れる髪の飾りがシャラリと音を立てる。
その出で立ちを見て、ジルスは初めてフェリアがジルスの前に現れた日の事を思い出す。
あの日は思わなかったけれど、まるでこの姿は花嫁のようだなと、感慨深くそれを思った。
私が王子様と手を組んでから3年。漸くこの日がきた。
アカデミーを卒業した私は16歳。明日には父が決めた顔も知らぬ婚約者との結婚式が行われる。
顔も合わせぬまま結婚式だなんて、どこまで私の存在は軽く見られているのだろうと嗤いたくなったけれど、でも今夜ばかりはそれを忘れていたかった。
一目見た時からこの人だと決めていた私の王子様。
もう王子様ではないけれど、それでもやはりこの人は私の王子様だ。
夢のような存在。本当ならばけして手の届かぬ人。
「ありがとうフェリア。お前には本当に感謝をしている。」
「王子様のお役に立てて私も光栄に思いますわ。」
「はは、もう王子ではないのだ。その呼び方は止めてくれ。今はただのジルスだ。」
「ジルス様・・・」
「ジルと。お前にはそう呼んで欲しい。もうそう呼んでくれる人はいないからな。」
「ジル、様・・・」
明かりのない部屋で良かったと思う。この緊張感が彼に伝わらなければいい。
許された特別な呼び方を口にした私の頬に、そっとジル様の手が添えられた。
「今宵は朝までいられるのか?」
囁かれた声が艶めいて耳を擽る。
きゅうっと締め付けられた状態のまま、バクバクと鳴る胸のせいにして、私は彼の質問には答えなかった。
私と彼の時間は夜の間だけ。
夜の間だけならば、この関係は夢だと思い込む事ができる。
近付く顔の距離を受け入れるように、私はそっと目を閉じて、甘く重ねられた唇の感触に酔いしれた。
そう、全ては夢だ。
だからこれは、恋じゃない。
恋なんて、するだけ貴女が不幸よと思い出の中の母が言う。
愛し愛されたなら確かに幸せね。でも、私たちにそれは難しいわと、悲しそうに微笑んで、母は幼い私の髪を撫でた。
そうねお母様。わかっているわ。
だからこれは、この熱は愛でも恋でも何でもない。
愛でも恋でも何でもないけれど、暗がりに立つその人の、自分と同じ色と見間違えた群青が、とてもとても綺麗だと思ったわ。
無感動な瞳が、それでも隠しきれず滲ませた孤独が切ないと感じたの。
愛でも恋でも何でもないけれど、一目で奪われた。
私達の愛はけして報われない。
それが母が私に教えてくれた事。
私達の愛はけして届かない。
それが母が私に身を以て証明してくれた事。
報われない、届かない。でもせめて少しでもその心に触れて、その証を私の身に宿せたなら、私の全ては満たされる。
隣で眠るその人の横顔をじっと見つめる。
頬に口付けたなら起こしてしまうだろうか。
少し考えて、きっと大丈夫だろうと唇を寄せる。
チラリとカーテンの隙間から除く月の角度を確かめて、そっとベッドから抜け出す。
急がないと。
名残惜しさに後ろ髪をひかれないよう、振り返る事もせずに私は鏡へと指先を伸ばす。
「んっ・・・ふぇり、あ・・・」
不意に聞こえた声にドキリと胸が鳴った。
寝言だろうか?振り返って確かめる勇気もなくて、私は慌てて鏡の中へと飛び込んだ。
翌朝、結婚式が行われる小さな教会で久々に顔をあわせた父は、私を見るなりふんと鼻を鳴らしただけで、言葉もなく、側にいたメイドに私の仕度を済ませるよう短く命じると、さっさと離れていった。
相変わらずの冷え切った親子関係に他の者たちが腫れ物を扱うような目で見てくるが、それも仕方のない事だろう。
でも、私もそんな事はどうだって良かったのでおあいこだ。
下半身に鈍い痛みを感じながら苦しいコルセットを装着し、重いウエディングドレスを着付けられていく。
当たり障りない茶色の髪に、耳に、首にと、次々に取り付けられていく装飾品の重みに眉を寄せそうになりながら、目の前の鏡台に映る何とも冴えない表情をした自分をボンヤリと見つめていた。
悲壮感とまでは言わないが、自分の結婚式の日だというのに沈んだこの花嫁の顔は招待客の目にどう映るのだろう。
あぁ、でも、貴女は不幸ではないわ。そうでしょう?
腹部に手を当てて鏡の中の自分へ問いかければ、鏡の自分の目が僅かに光を取り戻したような気がした。
仕上げに白いレースのヴェールを被せられ、花嫁の為の控室を出てゆっくりと進む。
今は閉められたままの講堂の扉の前には父がおり、まるで興味もなさそうに私を一瞥すると、ぞんざいに肘を突き出す。
花婿のもとまで花嫁をエスコートするのは父親の役目。お互い何の感情もないが、他人の目がある以上は嫌でも慣習に添わねばならないといったところか。
態度の悪い父の腕に手を重ねようとした、その時だった。
「ひとつ提案をしにきたぞフェリア。」
唐突に響いたその声に思わず私は振り返る。
明るいところで初めて見る群青の美しさに、私は目を見張り、そして震える手で口元をおさえた。
「俺はお前の役に立つぞ。」
「ジル、様・・・・」
「俺を選べフェリア。俺もお前を選んだ。それに、貰うものだけ貰ってじゃあサヨナラは悲しいじゃないか。」
ちょっと傷付いたぞなどと言いながら、私に手を伸ばすジル様に、私の目が熱をもちみるみる潤んで視界がぼやけていく。
「どうして此処が・・・」
「俺が何も調べないでいたと思うか?」
「ジル様・・・」
そうか、考えてみれば当然だ。
何も話していなかったけど、私の事など彼はとっくに調べがついていたのだろう。
それでも何も言わないでくれていた。見守っていたのは、私だけじゃない。彼もまた、私を見守ってくれていたのだと私は知る。
「どういう事だフェリア!?貴様まさかっ!?」
「お、お父様・・・」
「おお、そなたがフェリアの父親か。ふん、なるほど。とりあえず申し訳ないがフェリアは俺が貰っていくぞ。」
私はまだ何も言っていないというのに、断られるなんて考えてもいないのか、それを父に言い切ったジル様は、私に尚も手を伸ばす。
そんなジル様に思わずクスリと笑みが溢れるのは仕方がない。
私も手を伸ばし、私達はしっかりとその手を握りあった。そしてそのまま、ジル様は私の身体を引き寄せて強く抱き締めると、私を横抱きにしてその場を走り去った。
みるみる遠くなる父の姿。
あまりの事に呆然となり、立ち尽くすその滑稽さがおかしくてたまらず、ジル様に抱きあげられたままクスクスと笑ってしまう。
ハッと我に返った父が慌ててアイツらを捕まえろなどと騒いでいるがもう遅い。
私とジル様は視線を交わし合い、私は闇の魔力を使って父の影を縛る。
「フェリア、覚悟しろよ。もう朝になるまで、いや朝になってもけして逃さないからな。」
「えぇ。えぇジル様。私もけして逃げませんわ。」
朝になるまで、朝になってもずっと。病める時も健やかなる時も、ずっと傍に。
そっと触れ合う唇。
あぁ、まるで誓いの儀式の様ね。
とても幸せだと思った。生まれてきて良かったとも。
願わくば、ジル様も同じ思いでいて欲しい。そう思って目を開いた私に、ジル様は力強く微笑む。俺もだよと、その微笑みが言ってくれているような気がした。