第6話 上書きされた契約
それから数日後──
窓から入る太陽の日差しで私は目が覚めました。
目蓋を開くと──ソファから沢山の祭壇を飾る草が芽吹いていました。なんという急成長。アンビリバボーです。いえ、もうツッコむ気もしません。
きっと妖精界とは摩訶不思議な場所なのでしょう。人間の常識など紙くず同然なのかもしれません。私は深く考えるのをやめました。ええ、やめましたとも。
『元気になった、元気になった。主に報告』
ふと毛布が急に喋り出したかと思うと、ぐるぐる巻きになっていた毛布が一匹の獣──大きな毛むくじゃらの犬になったのです。黒くて長い毛は艶があり、ゴールデンレトリバーに似た姿をしていましたが普通の犬とは異なり、四つも目がありました。
毛布だと思っていたのはどうやら、精霊の類のようでした。ええ、ツッコみません。ツッコみませんとも!
しかも服装も長袖のワンピースに変わっています。白い絹で作られており、着心地は最高。着替えはいったい誰が──いえ、深く考えるのはやめておきましょう。
──ええっと、あなたは?
『主の影、眷族。お前冷えてたから、温めるの役目』
──な、なるほど。それはなんというか、ありがとうございます。
黒い犬は嬉しそうに尻尾を振ると、ソファの影の中にもぐってしまいました。せっかくでしたので、撫でてみたり、抱き着いてみたかったのに……。
──って、それどころじゃないわ。
私は改めて部屋の中をぐるりと見回します。心なしか最初に見た時よりも部屋の中が明るく、少しばかり小奇麗になっているような気が……。
暖炉の火は消えており、薪は墨となって黒焦げになっていました。
「起きたか」
「……っぁ」
私は声を出そうとしましたが、やはり喉の痛みでうまく声が出ません。彼は喋れないのなら今まで通り念話で構わないと言ってくれました。
私は感謝しつつ、彼の話に耳を傾けたのです。
***
彼との対話は非常に大変でした。というのも、話をしている間に私がうたた寝をしてしまい、その度に話が中断させてしまったからです。どうにも体がだるくて喉の痛みも引きません。結果──彼の名前を聞くことが出来たのは、その日の空が夕焼け色に染まった頃でした。
彼の名はファンヴァラ。
このノックマの丘に住む《死の妖精王》だそうです。または皮肉を込めて《死の精霊王》とか言われると話してくれました。この二つの違い、私にはよくわかりませんでした。ただ、妖精寄りと言うよりは精霊──つまりは万物であり神に近い存在で畏れられるのだとか。
確かに彼から威圧感は感じられますが……。わかりよくわかりません。
「ここは私が収める領地で、ある危機を迎えている」
──危機……? 屋敷や身の回りの世話をしてくれる執事やメイドさんがいないという事でしょうか?
「まあ、それも問題だが……。それもこれもこの領土の疲弊に起因している」
領土が経済的に疲弊している、という人間社会とはどうやら事情が異なるようです。
何故か森であった時より彼の姿──輪郭がぼんやりとしてしまいます。それは例えるなら度のあっていない眼鏡をかけた様な感覚です。
──領土の回復に、私の力が必要ということですか?
「幽世と人間世界の均衡が揺らいだせいで、精霊界と妖精界に大きく影響が出ている。……お前には、この領土の回復の手伝いをして欲しい」
──看病をしてもらったお礼として、お手伝いしたいのは山々なのですが……。
「私、役に立ちます?」と口にしかけて黙った。いやだって死にかけの上、寿命四年のホムンクルスですよ。
私が躊躇っていると、彼は唇を固く閉ざして何か思案しているようでした。癖なのかもしれません。表情の機微も薄いので彼がどう思っているのか──数日出会ったばかりのたばかりの私では理解が及ぶはずもなく──沈黙の時間が続きました。
《死の妖精王》と聞くとおどろろおどろしい印象がありますが、彼の場合はなんと言いますか、マイペースな気がします。
「手伝えないのは、なにか事情でもあるのか? ……お前を追って来た獣はここに来る事はない。それは安心しろ」
そうでした。私は彼に自分の事情を話していなかったのです。私はありのままに、精霊魔術師レムルから脱走した旨を伝えました。
彼──ファンヴァラ様がどのような決断をしたとしても、恨みはしません。もちろん、精霊魔術師レムルに引き渡す場合というなら、全速力で逃げますけど。ええ、お礼とかしたいですけど、自分の命は大事にしないと!
「大体の事情、それとお前の状況にも納得した」
──納得、というと?
「まずその首元にルーン文字の呪縛がかかっている。……日に日に眠気が襲うのも、それが原因だ」
──…………ん、え?
ファンヴァラ様の言葉に、私は凍り付きました。ええ、そうです。すっかり失念していました。追手から逃れるときに、気づいていたはずなのに……。
「……思考を巡らせると睡魔に襲われるのも、魔法による《呪縛》によるものだ。契約者を変えれば、お前の体調はよくなるだろう」
──そ、そうだったんですかぁ。
原因が分かった瞬間、私は力がどっと抜けてしまった。
よくよく思い返せば違和感は合ったのに……。
──って、契約者をどうやって変えれば……!?
「……私が加護を与えれば、《呪縛》は解ける。それを望むか?」
これ以上ない申し出ですが、「はい」の二つ返事は危険だと思い直して私は口を閉じました。昔から言うではないですか「美味しい話というのは裏がある」と。
──あの、一つ質問です。その加護というのは、隷属という意味でしょうか?
私は慎重に尋ねた。白紙の小切手にサインすることだけは阻止しなければなりません。
「違う。隷属は……やろうと思えばできるが、無理やり働かせるのは好まない。加護はあくまでも眷族として守る、また助ける事を意味する」
──ううん。眷族って解釈によっては隷属と近しい気がしなくもないですね。
「お前が嫌なら……保護か、パートナーとして迎え入れることは可能だ」
隷属を強制しないという彼に、私はホッとしました。そして次に選択をするならば、パートナーという意味でしょうか? 仕事上の契約。向こうも私にやってほしいという事があるので、ギブアンドテイクが妥当でしょう。
──領土の復興に微力ながら尽力するなら、やはりパートナーの方が意味合い的に合っていると思います! 肩書は大事ですもんね!
私の言葉に彼は目を見開き、固まっていた。
──え、あの……? 私、なにか変な事を?
「いや。……ではパートナーとして、お前に勤めてもらおう」
──はい。わかりま……!?
そう最後まで言わせてもらえませんでした。気づけば私は彼に唇を奪われていたのですから。
いつの間に私との距離を縮めていたのか。ちゃっかり腰に手を当てていますし……!
「ふぇ!? ……んんっ!」
何の脈略もなく彼に唇を奪われたのです。
それもつばむようなものではなく、深い口づけに私は思考が完全に停止しました。