第4話 死の王現れる
森の傍まで来ると、妖精の姿はありません。森に入ると「ひそひそ」と囁く大気の精霊たちの声が聞こえてきました。
精霊は妖精と異なり、万物──自然の魔力から形を得ている超自然的なものです。まあ、人間の世界で大袈裟に言うと、台風や火山のような災害、恩恵をもたらす神ともいえますね。なので、妖精と異なり扱いを間違えると大変なことになります。
『そっちは《死の森》。危険だけれど大丈夫です?』
ふいに声をかけられて私は心臓が飛び出しかけました。
「ふえあ!? し、死の森?」
慌てて振り返りますが、誰も居ません。
『そっち違う。目の付け所違います』
『元気です? みんな元気ない、悲しいですぅ』
『笑い声足りませぬ。《死の森》、危険、死んでしまうですです』
声は私の足元から聞こえてきました。視線を落とすと、セントジョーンズワート(セイヨウオトギリ)という星型の黄色い花を咲かせる多年草の上に小人たちが、私に声をかけてきたのです。背中には鳥の翼を持ち、顔と上半身は人の形に近く、下半身は鷲の足を持っていました。
率直に言って可愛い。話し方が特に可愛らしいですね。……って、ホンワカした口調でなにやら気になる言葉があったような。
「《死の森》? この先は《ノックマの丘》に繋がる森だと思っていたのですが……?」
『合ってるです。でも、今は危ないかも?』
『この草、太陽みたいにキラキラしてるですぅ』
『オトギリソウ、首切りです? 危険? デンジャラスですです』
途中からセントジョーンズワート草の話にすり替わっているのは、突っ込んだ方が良いのでしょうか。しかし、危険というのはどうにも気になりました。
「どの道なら安全ですか?」
『あっちですぅ』
『ノンノン、こっちです』
『そっちですです!』
「どっちですか!?」
思わず声を荒げて、突っ込んでしまった。大地の精霊は私の反応を気に入ったのか、いっぺんに喋り出して止まりません。
──は、話が進まない。
しかし精霊たちとの会話で少しばかり緊張が解けたのか、私はホッとしていました。都市からも離れて追手もありません。脱走は完璧ではないでしょうか。
自画自賛は良くありませんが、少なくともここまでの頑張りを讃えてもよい気がします。そう胸を張ろうとした瞬間──。
「痛っ!?」
唐突に喉に痛みが走り、私は立っていることが出来ずその場に倒れ込みました。
何かに締めつけられるような痛みに、呼吸が上手くできません。
『あわわ、大丈夫です?』
『ゲームオーバー、一巻の終わりです? 苦しい、辛いですぅ?』
『助け必要です? 助け呼びに行きますですです』
大地の精霊たちの声が遠のき、別の声が頭の中に響きました。全神経がこの声に抗うなと叫んでいるよう。
『まさかこの都市から逃げ出せるようなホムンクルスが出来上がるとはね。ああ、どんな魔法を使ったのか──早く捕まえて実験したいなぁ』
ゾッとするような低い声。
逃亡した私のことをモルモット扱いする口調は、心臓にヒヤリとした何かがあてられるような感覚でした。
彼の声はまだ続きます。
『……ふうん。場所は《ノックマの丘》の方か。逃げ切れるとは思えないが、念のために猟犬を放つとしよう。いや、これでは縊り殺してしまうな……』
声の主が精霊魔術師レムルだと理解するのに、さほど時間はかかりませんでした。安堵した瞬間にまさかの展開──いえ、予期していなかった訳ではないのですが……思った以上に気付かれるのが早かったです。
いつの間にか大地の精霊たちはいなくなっていました。ここが危険だと知ったからかもしれません。
──にげ……なきゃ……。
逃げるより掛けられている魔法を絶つ方が先。しかし、精霊魔術師レムルの記憶を引き出そうにも痛みで集中が途切れてしまいます。
こうなれば出来るだけこの場所を離れるしかありません。
私はよろめきながらも歩道ではなく、森の獣道へと足を進めました。
***
それからの記憶は朧気で、現実味がありません。
豹のような獣が目の前に現れたのです。
「ああ、これが追手だ」となぜか直感しました。いやだって、獣の四肢にはルーン文字の魔法がついていたんですもの。おそらく精霊魔術師レムルが施したのでしょう。
身が縮むような咆哮を上げて──私に向かって一直線に突進してきます。
私は夢中で呪文を唱えました。
それこそ喉の痛みなど気にせずに──。
どれくらい走ったでしょうか。
自分の体から体温を失っていき、指先が思うように動きません。
寒くて、痛くて、涙が止まりませんでした。
気づくと鬱蒼と生い茂る黒々とした森を無我夢中で走っていました。
雨も降って来たせいでさらに視界も悪くなり、方向感覚が狂わされ──ここがどこなのかそんな余裕などありません。
「きゃっ……」
足場も悪く地面がぬかるんでいて、盛大に転倒しました。
追手の獣たちは魔法で振り切ることが出来ましたが──時間の問題でしょう。
──喉が焼けるように痛い。もう……これ以上、魔法は……。
獣は容赦なく私に襲い掛かります。やはり危険でも精霊魔術師レムルに掛け合って交渉していれば良かったのでしょうか。
獣が肉薄し、大きな牙が襲い掛かった瞬間。
轟ッ!
吹き抜ける風が獣を一瞬で切り裂き、断末魔を上げて倒れたのです。
馬の嘶きと同時に、「ふう」と呟く声が耳に入りました。私はゆっくりと視線を向けると──そこには漆黒の──死そのものがいました。
濡れ烏色の外套を纏い、黒く艶やかな長い髪、造形の整った顔立ち、白い肌、琥珀色の双眸──外見は二十代後半でしょうか。
威厳に満ちた態度と、氷のように凍てついた表情の男が黒馬に乗っていたのです。
それは白馬の皇子様、といよりは死神という表現が正しいでしょう。
彼は手綱を引くと、馬に乗ったまま私の近くに歩み寄り──
「お前が予言の娘か」
なんと答えたのかは覚えていません。
私が覚えているのは、そこまででした。
ブツリ、と強制的に意識が途切れて──宵闇よりも深い墨色が視界を塗り潰したのです。