第三話
翌日。朝日がさんさんと輝く時刻。
主を起こそうとけたましく鳴り続ける目覚まし時計を乱暴に止めたのち、もそもそと起き上がった。目を擦り、日向は鏡の前に立つ。赤く上品なリボンと紺色のブレザーの制服を身に纏ったままのことに気付く。どうやら着替えずに眠ってしまったようだ。朝一番から重たい息を吐き出す。まだ昨夜の出来事が、あたまに残留していた。
ぼんやりと身支度を整えて、通学路に身を投じる。
「すず、おはよう」
友人である泉田律華が、ぽんと日向の肩を叩く。振り返って、挨拶を返した。
「どど、どうしたの!? まるで死んだ魚みたいな顔じゃない!」
彼女の顔を見た律華が驚いた。
「ああ、うん。大丈夫だよ」
上の空で返事をした日向を見て、律華は目をしばたく。
「なにか、あった?」
おそるおそる訊ねる律華。日向は、自分の気分とは正反対な晴天の空を仰いだ。
「ちょっとね。ほら、トラブルだよ」
「トラブルなら放っておけない。学校着いたら、話聞くからね」
「うん、うん」
心ここに有らずといった様子で、日向は返事をした。
授業の半分が終わり、昼休みの予鈴が鳴る。日向の席の隣に椅子を持ってきた律華がさっそく、弁当を開けながら口火を切った。
「その落ち込みようだと、ショックなことでもあったの? 人見知りのあんたのことだから、だれか怒らせちゃったとか?」
図星。
「あー、うん。なんか、ごめん……」
「いいの、大丈夫。――怒らせたというか、怒られたみたいな感じなの」
ぽつぽつと、あったことを日向は語っていく。
「目標、持ったの。危ない目に遭って、助けてもらって。それで、私と同じ目に遭った人がいるなら助けるって決めたけど、さっそく折れちゃった」
「折れたって、どういうこと?」
「なんにもできないの。怖くて、怖気づいて。そしたら、覚悟がないならやめるべきだってはっきり……」
律華は箸を止めて、日向の顔を覗き込む。
「だれに?」
「助けてくれた人。もちろん、私も、わかってはいたの。そんな甘くないって。簡単に、できることじゃ……ないって」
鬼。異形。それらと戦う青月たちのすがた。緊迫したあの場に、立っていられるのか。
日向は沈んでいく気持ちとともに、箸を下ろした。
「リンを助けたって人、はっきり言うわね~」
ぱくり。昼食を頬張った。味はあまりしなかった。
「うーん、つまりこういうことね。挫折しちゃって、どうしたらいいかわからないと」
「そう」
「簡単じゃない。悩むんじゃなくて、今やれることをしなさいよ」
「今、やれることって……」
青月や霧生たちのように武器は持っていない。滅鬼師のように妖気を扱えない。では、なにができるのか? 日向が思考を巡らそうとしたとき、律華が言った。
「ずばり、逃げないことね!」
友人の言葉が、彼女の背中を押す。
「にげ、ない」
「そうよ、そう。リンがなにから人を助けようとしているかわからないけど、人助けするのに肝心のあんたが怖がってちゃダメでしょ? 怖がりを克服するチャンスだと思ってさ、まずは逃げない! これでどう?」
胸のなかにあったもやもやが晴れていく。
「うん。そうだね、そうだよね。逃げない。逃げない。絶対に」
今朝とは打って変わり、死んだ魚の目から、戦う者と違わない瞳となる。
「その意気、その意気! 応援してるね」
「ありがとう、律華」
また人ならざる存在に遭遇したとしても、次こそは逃げない。日向はそう誓った。
そうして、昼休み終了の予鈴が間近に迫っていると知る。ふたりは大急ぎで弁当を空にするのだった。
「あ、律華」
律華が席に戻ろうとしたところで、日向が呼び止める。
「夕方、あんまり出歩かないで。お願い」
「わかった」
×
「いってきます」
東堂にそう告げて、青月は見回りへと出かけた。黄昏時のことだ。
鬼も異形も、この時刻から活発に動き出していく。それを見計らって、青月たちも注意深く見回りを始めるのである。滅鬼師たちも例外ではない。
「ご無沙汰しております、青月殿」
街を歩いてしばらくのことだ。異形が蒸発していく瞬間を目撃した。蒸気が晴れると、見慣れた青年が声をかけてきた。現代にそぐわない狩衣すがたにて、丁寧にあたまを下げる。
「いいのかい? こんな街中で異形を祓って」
くすり、と青年は控えめに笑った。
「確かに、人目につけば掟に反する。しかし今、僕を見ているのはあなただけだ。なんの問題もありません」
「ふうん。――ちょうどいい。鬼退治専門の方に聞きたいことがある」
青年は首を傾げた。
「問われるようなことが、ありましたか」
「最近、妙に異形の数が増えている。それぐらいはそっちも把握しているんだろう」
「その件ですか……。ええ、把握しています」
「俺の個人的な意見だけれど、そっちがなにか企んで――」
「金の星よ、我が手に。貫け!」
鋭利な金色の刃が、青年の右手におさまる。投げられた刃は青月の黒髪をかすめたのち、背後の壁に突き刺さった。
乱れた髪を手で梳いた青月は呆れ顔になる。
「まったく。津雲川もそうだけど、きみもいきなり過ぎるよ、秋くん」
安倍秋。平安時代に存在した安倍晴明の血を引く。陰陽師ではなく滅鬼師であり、津雲川の部下である。純粋で忠誠心も強く、従者としては申し分ない人柄をしている。
「我らに企みがあるというのか。二度目は、外さないぞ」
「わざわざ外してくれてありがとう。で、実際はどうなんだい」
「疑いを晴らすため、話しましょう。まず、これは我々の企みではありません。我々もこの件に関しては手を焼いている。怪物たちが増殖するなど異常、おかしいのです。鬼と異形はすがた違えど心は同じです。人目や争い事を避けているはずの彼らがこんなことをするとは到底思えない。人に憑けばより目立ち、争いが起きるとわかっているはずなのです。神流様はだれかが手引きしているとおっしゃっていましたが……」
神流とは、滅鬼師が集う神道会の総代である。組織の総本山、京都の裏を牛耳る。鬼を認知できる者の間では名は知れ渡っており、格別の存在である。
「待って。その言い方だと、神流公はまだ首謀者がだれか把握していないのか」
「……そのようです。我らにはただ、増殖した異形を排除せよ、としか」
「それは正しいだろうね。異形を倒していけば、自ずと首謀者が見えてくるはずだ」
「はい、僕もそう信じています。では、これにて」
秋が素早く呪を詠唱する。するとそよ風とともに、彼のすがたがなくなる。
青月は踵を返した。
大通りから外れた路地を宛もなくふらついていたときだ。
「青月さん」
学校帰りの日向と出会う。
おそらく、と青月は彼女がなにを言い出すか予想する。
「見回りですか? ご一緒、してもいいですか?」
彼の予想が当たる。肩を竦めて、かぶりを振った。
「危険だ。素直に帰ったほうがいい。ほら、送るから」
日向の手を引こうとすると、彼女が一歩下がった。そして、真剣な色をする。
「逃げません。もう、昨日の私とはおさらばしました」
少女は明るく、にっこりと笑ってみせた。
疑り深い青月はじっと、彼女の瞳を覗き込む。嘘ではないと、悟った。
「……いいよ。一緒にいこう」
「ありがとうございます!」
嬉しかったのか、勢いよく礼をする日向。
反して青月は、不安の色を浮かべた。
落ち着かないなか、先行する。その後ろを日向が行く。
――もしも、振り返って彼女が襲われていたとき、戦えるのか?
「……っ」
青月は歯軋りをした。幸いにも、日向には聞こえていないようだった。
はかどらない見回り。長い沈黙。ぎこちない空気。それらに耐えかねて、青月は口を開く。
「学校の帰り?」
とっさに思いついたことを言った。
「はい。あ、そうそう。私の友達に言っておきました。夕方はあんまり出歩かないでって。その……鬼が出るのは夕方からなんですよね」
「そう。良い心がけだね」
「これくらいしか、できませんから」
ぽつぽつと会話の糸が繋がっていく。
「そのケースに入っている人形を操って、戦っているんですね」
「そうだよ。動かない分、あたまを使うから、楽ではないよ」
「へえ。あ、今度、人形を操っているところ、見せてください!」
「見ているはずだけど」
「じっくり見たいんです。戦っていないときにお願いしますね。あと、どうしてそんなことができるのかも、聞かせてほしいなー、なんて」
青月は驚きのあまり歩を止めた。動揺を隠すため、日向と顔を合わせないようにした。
「ど、どうしたんですか。もしかして、異形ですか」
「違うよ。……それは俺の過去を話すことにもなるけど、知りたいの?」
「ごめんなさい! 私、そうとは気付かなくて」
「謝ることじゃないさ。ただ、なんの面白味のないものだから」
焦りを表に出さぬよう、表情を取り繕う。
いつかくることだ。彼女に語るべきときがくる。だが、今ではない。まだ、話すべきときではない。東堂以外に、最後まで過去を語ったことのない青月は、溢れ出ようとする感情を押し殺す。そのことを悟られないよう、日向に背を向けた。
「人形を操るところは見せてあげる。でも、それだけだよ」
「わかりました。詳しくは、聞きません」
問い詰められることもなく、その話は終わった。ほっと、青月は安堵する。
が、それも束の間だった。彼の目が、異形を捉えた。
「日向、異形がいる。遠くへ――」
「逃げろっていうんですね」
そのはっきりとした声音に、青月は驚く。
「あ、いいんですよ。わかっています、自分にはそれしかできないって」
「日向……?」
「逃げます。それが今、私のやるべきことですから」
昨日までの怯えた瞳ではない。強く迷いのない眼差しである。
青月はその眼差しから、目が離せなかった。
「変わったんだね」
「いつまでもくよくよしていられません!」
「そう。それじゃあ、できるだけ遠くへ行くんだ。いいね?」
「はい!」
日向は雑踏の中に駆けていく。その背中を、見えなくなるまで見届ける。
そして、戦闘体勢に入るのだった。
異形のもとへ急ぐ。ケースから使い慣れている人形を一体出現させ、相手と対峙する。
「さて、やろうか」
四肢の関節に刃めいたものを持つ異形は、低くうねり声をあげた。
緊迫。沈黙。人形と異形が、同時に動く。続けて、金属が弾ける音が響いた。刃と形変わった頑丈な皮膚が擦れ合った。異形が人形を押すと、一気に後退して距離を取った。
青月は、異形を睨む。その後、人形に迎撃を命じる。人形は、それに応えるよう地を蹴った。
急所である胸部を突こうとする人形の攻撃を、何度も弾き返す異形。
拮抗する力と力を前に、青月は取り乱すことなく慎重に隙を狙った。
「なかなか、しつこいね」
ぼそりと独り言を漏らす。指先を器用に動かして、人形に指示を出し続けた。
と、何度か交えていたときだった。ぴたりと、異形の動きが止まる。
「なんだ?」
人形を後退させ、青月は相手の様子を警戒する。
異形が、どこか遠くを見つめるように斜め上を眺めた。動き出したものの、こちらに目を向けずにどこかへ去っていった。
「……あっちは、確か」
日向が逃げた方向ではないか。不意に、青月の心中に焦りが湧き上がる。ケースを肩に携え、異形の後を急いで追った。
×
その背に、ぞくりと悪寒が走った。異形が自分を追っていると直感的に悟った日向は、振り返らず、立ち止まらずただひたすら、遠くへ行こうと進む。
「お父さん……――あれ」
今、なんと言った? だれのことを、父親と思った?
なぜ、と思考を巡らせたときだ。
「■■■■■!!!」
大衆の面前に、その怪物が登場する。そのおぞましいすがたを目にした人々は、一斉に悲鳴をあげた。逃げ惑う大衆を襲うのかと思いきや、異形はある一点だけを凝視した。
「……私を、狙っている?」
異形は周囲の人間を食べるために現れたのではない。日向鈴ただひとりを喰らわんとするためにきたのだ。日向は目を見開いて、異形と向き合った。
いつの間にか、日向と異形、駆けつけた青月の三人だけになっていた。
「あ、青月さん。もしかして……」
「きみの予想は大当たりだ。あいつは、きみを狙っている」
「どうして? 私はなにも」
「していないのはわかっている。――俺があいつを倒すまで、動かないでね」
「わかりました」
日向は頷き、青月の背に下がった。
「強く、なったね」
独り言のつもりが、彼女には聞こえていたようだ。
「もう私は、怯えたりなんかしません。弱い私とは、おさらばです」
「それが聞ければ、充分だ」
青月は、手を俊敏に動かして異形を倒しにかかる。
最中、日向の心中に学校での会話が蘇る。
――「人助けするのに、肝心のあんたが怖がってちゃダメでしょ?」
「うん。そうだね、律華。怖がっていたら、なにも始まらない」
落ち込んでいる暇なんてない。怖がっていてはいけない。自分が感じている恐怖よりも、戦っている彼らのほうが何倍も大きいのだから。この手で鬼に縛られた人たちを救うまで、もう恐怖に屈したりなんかしない!
「……逃げるな、私。見るんだ。目を閉じちゃいけない」
日向は眼前にある光景を、目に焼き付けた。
長いようで短い戦闘が、人形の二撃で決まる。異形が、苦しみながら消えていく。
「終わった」
「よく、目を逸らさなかったね」
青月が、人形をケースに戻しながら言った。
「はい」
「……本当に、強くなったね」
青月が微笑みかけると、返すように、日向も満面の笑顔になった。
宵の刻。ふたりは東堂の店へ戻っていた。
着いて早々、青月がさきのことを報告する。東堂が、ため息をついた。
「そうか……。その辺りは神道会がやってくれるだろう」
「それと、どうしてか、異形は日向だけを狙っていました」
すると、東堂が目を光らせた。
「興味深いことを言うじゃないか。聞かせてくれるかい」
「大勢の人がいたというのに、今日遭遇した異形も、その前の異形も、なぜか彼女を襲おうとしていました。これはあくまで俺の予測ですが、異形は、日向のなにかに魅かれたのではないでしょうか」
日向はきょとんとした。思い当たる節がないからだ。
「ふむ。彼女の内なる光に、魅了された、と。しかし、肝心の日向は心当たりがなさそうな顔をしているね」
「まったく、わかりません」
「では聞こう。きみはいつから、鬼が見えていた?」
一瞬、忘れていた幼き頃の記憶がよぎった。しかし、日向は言わなかった。
「わかりません。気付いたら見えていました。今までは避けていたから、なにもなかったんですが……」
「ついに、ということか。うーん、鬼が見える者の共通点としては、なにかしら死に関わっただと聞くが、それに憶えは?」
「……もしかしたら、私の両親のことかもしれません」
一番に反応したのは青月だった。美顔を崩すも、もとの無の色に戻った。
彼の反応が気になったものの、日向は話を続ける。
「私には本当の両親がいないんです。養子として引き取ってくれたお母さんの話だと、私が産まれたときにいなくなったらしいんです。私はそれを、……」
死んだと思い込んだ。言いかけて言葉を切る。青月が険しい顔つきで虚空を睨んでいるのが目に入った。なにか気に障ったのだろうか、と気がかりになる。
「そうか。そうかもしれないね。きみの場合は、両親の死か」
東堂が納得した様子で、顎に指を添えた。
「わかった。今日はもう帰りなさい。遅くなると、また異形に遭遇しかねないからね」
「はい」
店を後にした日向は、異形に遭遇しないよう早足で帰宅する。
「おかえり、鈴」
養母が、彼女を出迎えた。
「ただいま、お母さん」
ここで本当の両親のことを聞こうするも、思いとどまる。
「……今は、違うよね。うん、そのときがくるまで、待とう」




