第二話
彼女は、学校から家に帰るという日常を正しく繰り返そうとしていた。けれど、今日は少しだけ時間が遅くなってしまった。ただ、それだけだった。だというのに、目の前にいるそびえ立つ怪物が家へ帰らせてくれなかった。否、今の彼女に帰るという言葉がなくなっていた。代わりにあるのは、恐怖と逃げたい意思だった。
「あっ……」
萎んでいる喉から出たのは、掠れた声だった。
――怖い、怖い、怖い。食べないで、食べないで。家に帰らせて。――だれか、助けて。
彼女にとって目の前にいるそれは、恐怖の塊でしたなかった。流れ伝う冷や汗を感じながら彼女は、それを見上げていた。
そして足に力が入らなくなり、ゆっくりと意識を手放していった。
次に目が覚めたのは、見慣れない天井がある一室だった。
「え……」
状況が呑み込めない。まだ震えている身体を起こして、辺りを見渡す。部屋の中はしんとしている。人の気配もない。
「どこなの、ここ」
ソファから立ち上がる。よく見れば、和風の屋敷を思わせる部屋だった。天井近くまである棚には、種類様々な人形たちがこちらを見下ろしている。薄暗いせいか、どこか不気味だった。
辺りを警戒しながら、日向は一歩を踏み出した。すると、奥の扉が鈴の音を響かせて開放された。すがたを見せたのは、中年の男だった。茶髪で眼鏡をかけている。長身で、肩に羽織をかけており、どこか威厳を纏っていた。
「目が覚めたようだな」
低いがよく通る声が、日向の緩んでいた神経をぴんと際立たせる。自然に背筋が伸びた。
「ああ、そこまでかしこまらなくていい。私は東堂久々津という。きみは?」
鷹のように鋭く光る目が、日向を見つめていた。ゆっくりと自分の名前を口にする。
「日向、鈴です」
幼い頃から人見知りをしてしまう日向は、しっかりと初対面に向かって名前を名乗れたことに安堵した。安堵するけれど、帰りたいという焦りがじわじわと滲み出てくる。
「鈴……。いい名前だね。さて、本題に入ろう。そこに座るといいよ」
示された場所に目をやり、すとんと座る。東堂という男も、日向と対峙する形でソファに腰を下ろした。目がばっちりと合い、どきりと心臓が跳ねるのを感じた。
「きみは、きみを襲ったあれがなんなのかわかるかね?」
日向は、首を横に振った。
「そうか。ならば、教えよう」
東堂が一拍子置いて、話を続けた。
「あれはね、鬼といわれるものだ」
「鬼?」
「疑問はあるだろう。順番に話すよ。鬼は、人を食事のように喰う怪物さ。かといって、無差別に喰うわけではない。食べないものだっている。大きさも様々だ」
自分を襲った怪物を思い出しながら、日向は東堂の言葉に耳を傾ける。
「鬼にも二種類いてね。きみが襲われたように、そのまま実体化しているもの。鬼が人の負の感情に付け込んで、人を人ならざる者にしてしまうもの。きみは運がいいよ。後者だった場合、生きている確率は低いだろうね」
日向は、ごくりと唾を飲みこんだ。あんな恐ろしいものと遭ったのに生きている。それがどれだけ運がよかったのかを実感する。
「あの、質問いいですか?」
「なんだね?」
「鬼って、たしか空想上のものだったはずじゃ。なんで、現実にいるんですか?」
東堂が、腕を組んだ。考え込んでいるようだ。
「私がさっき話したこと以上のことを知るとなると、他言無用になる」
「だ、だれにもいいません! 教えてください」
日向は、不思議に思った。怖いものは大の苦手なはずだというのに、こんなにも興味が湧いている。未知のことを知りたいという知的好奇心があることに、驚いた。
「……」
東堂はじっと、日向を見つめた。
「わかった。話そう」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと、日向は頭を下げた。
やった。自分の、他の人が知らない世界にいける。嬉しい。
込み上げてくる歓喜が、日向の胸に広がる。
「鬼の起源は、平安時代の書物まで遡ることができる。時代を経て、鬼の存在は変わっている。そんな代物が今、こうして現代の公道を闊歩している。それが今の状況さ。だが、どうしてこうなったかは、不明なんだ」
「え? わからないんですか?」
「ああ。自然と、いつの間にか、当たり前のようにいたのが鬼なんだ」
「だったら、大勢の人が見ているんじゃ……」
そういうと、東堂が首を振った。
「実は、そうでもないんだ。見える人だっているが、それはごくごく僅かなんだよ。滅鬼師たちが調べているみたいだけど、詳しいことはわかっていない」
「滅鬼師?」
「鬼を滅する師、それで滅鬼師という。鬼退治専門の役職だ。彼らの起源も、謎のままだよ。噂じゃ、陰陽師から派生した職種みたいだけど」
聞き慣れない単語が、次々と東堂の口から発せられる。日向は、混乱しかかるあたまに手を添えた。
「わからないことばかりだろう?」
優しい笑みを唇に浮かべながら、東堂がいう。
「安心したまえ。ゆっくり、憶えていけばいい」
「はい」
話はここまでだ。また知りたいことがあれば、いつでも聞いてくるといいよ。といって、東堂が話を切った。ふう、と日向は一息つく。そして、東堂を見つめる。優しそうな人だ。この人のところで未知の世界を探検できるのなら――。
ふいに奥の扉がまた、鈴を揺らして開かれた。現れたのは、
「青月、彼女なら目を覚ましたよ」
青月と呼ばれる男だった。長い黒髪を、横の部分にある髪をうしろで束ねている。スタイルがよく、顔立ちも整っていた。けれど、どこか冷たい目をしている。
じっと眺めてくる青月と目を合わせた日向は、どきりとした。おもわず目線を逸す。
「そうですか。で、彼女をどうするんです?」
青月が冷淡な声で発した。安堵していた胸が、緊張に縛られていく。
「うーん、そうだね。それはまだ決めていなかったなあ」
東堂は腕を組んで、うなだれる。
ここでこのまま返されたら、自分はどうなるのだろう。
日向は焦りを感じ、咄嗟に声を出す。
「あの、ここで手伝わせてください!」
いつもより大きな声でいったことに気付き、恥ずかしさが出てくる。顔が熱い。
ゆっくりと顔を上げれば、東堂がきょとんとしている。
「だめ、ですか?」
東堂は真面目な顔つきになり、顎に手を持っていった。
そのうしろにいる青月を一瞥した。壁に背をつけて、瞼を落としている。
なぜだろう――彼とは初対面ではない気がする。日向には、それがどうしてなのかわからない。他人というよりも、もっと近しいもの。
「うん、いいだろう」
しばしの沈黙を破って、東堂が頷いた。
「本当ですか?」
「ああ。鬼が見えるのなら、放ってはおけないね」
「ありがとうございます」
深々とあたまを下げた日向は、少しだけにやりとする。
「そうなったとあれば、青月、見回りいくだろう?」
「……ええ、まあ」
「だったら、彼女を連れていってくれないか」
「師匠がいけば――」
「いってくれるね?」
「……わかりました」
青月は嫌そうに答えたのち、自分よりも大きめの黒いケースを肩にかけた。そして日向を見、その場を後にする。
「いっておいで、日向」
「あ、はい」
日向は、先をいく青月のあとを追った。
深夜に近くなった夜の時刻。
辺りを警戒しながら歩く青月と、お化けが出ないか怖くてしょうがない日向が肩を並べて、暗闇を進んでいく。
ぽつぽつと立つ街灯が、唯一の光と呼べた。月光は輝くも、日向と青月の足元までは届いていない。日向は、そんな中を悠然と歩く背中を見つめる。
「なに」
気づいたのか、突然立ち止まった青月がこちらを向いた。
「い、いえ。青月さんは、怖くないんですか?」
「ないね。結構長いから、こんなことして」
「へえ……。そのケースの中、なにが入っているんですか?」
「きみが知るようなものじゃないよ」
「教えてくれないんですか?」
「教えない」
ぎこちない会話が、紡がれる。
「いつも、こんな時間に見回りしているんですか?」
「鬼と異形は、基本夜に行動するからね。実体化する鬼は、幽霊みたいなものだから」
幽霊と聞いて、日向はぞくりと寒気を感じた。
と、そのときだった。どこからか不気味な雄叫びが聞こえる。空気を揺らして、日向と青月の耳に入ってきた。
「な、なに……」
「今度は、異形のようだね」
青月が冷静に分析する。持っていたケースの鍵を解除し、色白い指を滑らかに上へ向けた。パーツが現れ重なっていき、一体の人形が完成する。それに目をぱちくりさせる日向をよそに、重い足音が響いてきた。異形が、どんどんと近づいてくる。角を曲がり、彼女の前にすがたを見せたのは、その名の通り異なる形をした人間だった。
「ひっ……。なに、嫌。怖い……」
目くじらに涙があふれる。日向は一歩二歩と、後退りしてしまう。先ほどまであった高揚や歓喜は、一瞬にして消え去った。あるのは恐怖だった。
対する青月は、日向の前に立ち人形を動かす。淫らによだれを垂らしている異形めがけ、人形を走らせた。同時に、異形も地を蹴った。
人形は素早く刃を掌から出現させ、通常の倍以上ある異形化した人間の腕を狙う。だが、それは弾かれる。鉄のように分厚く、白く人ならざる腕に傷はつかなかった。相手は人形を掴もうと、腕を伸ばした。
「そうはさせないよ」
人形は宙を舞った。異形の攻撃は空振りに終わった。
人形はそのまま異形のうしろに着地する。そして素早く踵を返して迎撃に向かった。異形も雄叫びを上げ、応戦する。
そんな、日常では皆無である出来事に呆然とする日向であった。膝から崩れ、ただぼうっとその場を眺めていた。怖い、怖い、怖い、怖い。夢なら、覚めて。早く、早く。こんなのは、夢なんだから――。
皮を引き裂く音が、辺りに響いた。人形がその刃を液体で汚していた。異形はというと、裂かれた部分を手で押さえている。指の間から零れるは、赤い液体――否、黒い泥だった。
「終わらせる」
青月は素早く指を動かした。それに反応した人形がぴくりと反応し、異形を襲う。怯んでいる異形の懐に飛び込んだ。そしてそのまま、勢いよく胸部を刃で貫いた。
勝った――かと思いきや、異形が空いている手で人形を叩きつぶそうとする。だが人形は、二撃目を許さず、もう一方の掌の刃を胸部に向けて振り上げる。どしゅり、どぼどぼ……。
「……なんなの」
まだ頭が追いつけていない日向は、溜まっていた涙を流した。鼓動が、まだ収まる気配を見せてくれなかった。
異形は泥になったあと、蒸発していった。
「戻れ」
人形がぴょんと飛び、青月の前に立つ。ばらばらのパーツになったあと、ゆっくりとケースに戻っていった。そのケースを肩にかけ、青月は日向に手を伸ばした。
「わかっただろう。きみの知らない世界が、どれだけ怖いか」
知らない世界。その言葉が、彼女が忘れ去っていた記憶を呼ぶ。
「違う。私、知っている」
だが、もやがかかっており、はっきりとしたことはわからない。
日向は青月に手を引っ張られて、立ち上がった。
「知っているって、なにを?」
「わかりません。でもなぜか……はじめてじゃない気がするんです」
彼女の意味深長な言葉に青月はそう、とだけ返した。
「東堂さんに聞けば、なにかわかるかな」
「今日はもう遅いよ。明日にしたほうがいい。さあ、もう帰るんだ。きみの家はすぐそこだろう。これ以上遅くなるのは、危ないからね」
「あれ、どうして私の家がこの近くだってわかったんですか?」
「……毎日、この辺を見回りしている」
「そうなんですか。じゃあ、詳しいんですね」
「……」
一夜にしてたくさんの未知なる体験をした少女は、夜道を帰っていく。
じっと、その背中を見送られながら。