第四話
とっぷりと夜が深けた時刻。
はたと目を覚ます。
ここがどこなのかわからない。
傍らに知らない少女がいる。
なぜか身体が重く、気分が優れない。ここは息苦しい。
食べようとしても、いつものすがたになれない。
出たい。ここから出たい。
おとうさんに会いたい。
痛い。だれかがおそってくる。怖い、いや。逃げたい。
そうして、一人の少女が夜の世界へ飛び出していくのだった。
×
翌日。東雲の刻。
青月が異変を察知してナナシの部屋へ向かう。脇腹を負傷した暁華がぐったりと座り込んでいた。すぐ後ろのベッドにはだれもおらず、少女が逃げ出したのだと悟る。追ってくれ、と暁華に促される。彼は頷いて、愛用の武器を持って夜が明けたばかりの世界へ行く。宛はないものの、放っておくわけにはいかなかった。
だが、それらしいすがたはどこにもない。焦りが募るなか、ふいに視線を感じた。振り返れば、黒鋼が立っていた。
「なんだ、きみか」
「あとで霧生たちもあいつを探すことになった。人手は多いほうがいいだろ?」
「人手が増えたところで悪い知らせだ。あの子が行きそうな場所がさっぱりわからない」
「そうだろうな……あいつの逃げ込みそうなところなんざ、この辺にはないだろう」
やれやれだぜ、まったく、とため息をする黒鋼をよそに青月は思考を巡らせた。
神道会に保護されてしまったのか? あるいはもうこの辺りにはいないのか? 前者であれば探しても無駄だ。後者ならば範囲を広めれば見つけられるかもしれない。だが、弱っている少女がそう遠くに行けるとも考えにくい。半人半鬼である彼女が人目を避けて逃げ込みそうな場所といえば――。
「あそこなら……師匠の管理下にある神社ならだれも立ち入らない」
「なるほどな。行ってみる価値はありそうだ」
ふたりは東堂の管理下にある神社へ急いだ。
×
ちょうどその頃、黒鋼からナナシ脱走を聞いた霧生が日向と合流する。
「朝早くから呼び出してすまねえ」
「いいよ。一大事だからね。それより、ナナシはどこに行ったの」
霧生はかぶりを振った。近くの時計塔を見上げ、辺りに目をやる。
「これから人が増える時間帯だから、手当たり次第ってわけにもいかないな」
「そうだね。でも、宛なんてないし」
うーん、と首を傾げた日向。
「人が立ち寄らないところといえば、天炉さんたちのいる廃墟とか」
「行ってみる価値はある。急ごう」
だが、ふたりの行動は徒労に終わる。廃墟には天炉たち以外の影はなかった。
「ここじゃないなら、どこに行ったっていうの」
「俺にもさっぱりだ。どうする? 一旦、東堂さんのところに」
「いいえ、探しましょう。ナナシをひとりぼっちにさせないんだから」
少女の気合いに驚き、霧生はくすりと笑った。
「お前、ずいぶん成長したな。初めて会ったときとは別人だ」
「え、あ、褒めて、くれたの?」
「そうだよ。なんだ、嬉しくないっていうのか?」
「ううん。ありがとう」
「おう。さてと、探しにいきますか!」
ふたりはナナシ探しを再開する。彼女がいるであろう場所へいくつも向かった。日向が攫われた神社、律華を襲った神社の裏、幸介を襲った道など、ナナシがすがたを見せたところすべてに足を運んだ。結果、少女は見つからずじまいとなった。
息を切らす日向。歩を止めて、青空を仰ぐ。
「ナナシは、自分が悪いことをしたってわからないんだよね」
「どういうことだ?」
「東堂さんが言っていたじゃない、ただ人を喰らって、仲間を増やすことしか知らないって。ナナシにとって人を食べることは悪いことじゃないんだよ、きっと」
霧生は顔を曇らせた。
「俺も同じ半人半鬼だけど、俺にはみんながいるからなにも怖くねえ。でもあいつは、ひとりぼっちだったんだろうな。……救われたのとそうでないってのは、こんなにも違うのか」
「だったら、だったら私たちでナナシを救おう! 助けるのよ!」
「だな。よっしゃ、休憩終わり!」
彼と彼女は駆け巡った。
救われなかった者をひとりぼっちにしないために。彼女に手を差し伸べるために。
×
ある男の独り言。煙管から出る紫煙を眺めて。
「私の元弟子は元気にしているかな? 虫の息か。手荒くされたものだ。
極悪非道? すまないね、私はニンゲンではないのでその辺りのことはさっぱりだ。鬼なりのやり方でしつけをしてやったつもりだったが。
私に話だと? なんだ、もうここまで至ったのか。神流公もすべてお見通しと見たぞ。いいさ、すべて吐くとも。そちらの手を煩わせんよ、八羽。しかし、どこから始めようか。
きっかけはある少女だよ。〝鬼さんは人を食べちゃうって、ほんと?〟と無邪気に問いかけてきた。私が鬼とも知らずに。私はそれに答えてみた。傍にいた子供を喰った。少女は逃げていった。あの子を食べる気はなかったというのにな。山へ帰ろうとしたときだ。喰った子供に鬼が死んだことを確かめずに憑依した。するとどうだ、死んだ肉体は変形した。異形になったんだ。わずかに灯っていた魂と鬼とがひとつになったわけだ。どういう状況だったのか、説明しようがない。ただ鬼が興味本位に憑依し、そうなったとしか言えんよ。だから、だからこそ私は、ニンゲンの魂を利用し、実験をしたのだ。そしてようやく、鬼と人とがひとつになった完璧なる半人半鬼、ナナシを生んだ。人を超越した鬼の力を宿す肉体を持つニンゲンの誕生だよ。そののち、異形がニンゲンを襲えば、襲われたほうは異形になるとわかった。つまり増殖だな。実験結果はこれで充分だった。ただ誤算だったのは、ナナシは喰うことしか能のない少女になってしまったことだ。かろうじて意思疎通はできるようだが、それだけだ。鬼のように腹が空き、腹を満たすため彷徨う。それが彼女の生き方だ。良いか悪いかなどない。ただ喰って喰って喰って、生きるのみ。そのため、異形が増えた。神道会のきみたちや私の弟子たちが狩ることになった原因だよ。そして出来上がったのが、怪物のいる街。
早々に私が食べてしまおうかと思ったが、津雲川が言ってきたのだ。〝もうやめさせてくれ、俺の妹に人殺しをさせないでくれ〟とな。私のもうひとつの誤算はもとの戻し方を実験しなかったこと。つまり、津雲川の望みは叶えられない。戻らないのだから。彼奴も気付いていたはずだが、それでも私にすがってきた。やめさせてくれ、と。絶望していた。私は津雲川にこう言ってやった。〝ならばほかの異形と同じことをナナシにやればいい〟。言わば可愛い妹を殺せということだな。そしたら彼奴は頷いた。〝それしかないなら、その選択肢を選ぼう。覚悟はある〟。同じとき、ナナシは青月と美月紗耶を襲った。女は絶命だったが、男は運よく生きていた。珍しい力を宿していると知り、私は拾ってやった。肉体の損傷した部分を、私が作った人形のパーツと繋ぎ合わせて生き返らせた。開口一番に言ったよ、〝あの異形はどこだ。復讐して紗耶のところに行く〟とさ。津雲川に言ってやった。お前の妹を殺そうとしている者がいるがいいのか? 案の定、そうはさせないと返答してきた。これが、青月と津雲川がぶつかることとなった始まりだよ。ま、そのあとはお前たちが観ていた通りだ。
ふふ、少女はもう憶えておらんだろうが、あの問いかけさえなければここまではならなかったんだよ。まあ、私もそのときのことは薄っすらとしかわからん。だれと話していたかなど、もう顔も声も、すがたも思い出せんが。――青月がこれからどうするかだと? さてな、私に刃を突き立てるだろうが、果たしてそれが正しいかどうか……」
×
その頃、青月と黒鋼は木漏れ日を踏みしめながら、竹林の奥にあるという神社を目指していた。そこにナナシがいるかどうかは、定かではない。けれど青月は、〝いる〟と確信する。
反して黒鋼は半信半疑だった。半分は青月の直感を信じ、半分はいないと疑いつつも、相棒の後を追う。すると、青月が歩を止めたのでなにかあると悟り、ガンホルダーに手を添える。
「黒鋼、構えなくていいよ」
「……わかった。んで、なんで止まったんだ?」
「気付いているかい?」
「景色が変わっていないことか? 入口からだいぶ歩いてきたしな……罠ってやつか。ま、師匠が管理している神社があるんだから人避けの結界ぐらいはあるだろうさ」
青月は竹林を見渡した。敵の気配はない。動物の声もない。からん、からん、と風に揺られて響く心地よい音色が耳朶をくすぐる。先を見やると、永遠と続く林道があるだけだ。空を仰いでみれば、太陽が動いていない――時間が停止しているとわかった。出口らしきところもなく、見事に術中にはまっているのだった。結界があるのか確かめるために、手を前に出す。指先から虚空に波紋が広がった。
「ふうん、何層にもなっていて、来る者拒まず、されど出る者帰らさず、と」
「このまま進んでいてもダメってことだね。さて、これをどう突破する?」
親指を見えない壁に向け、青月は黒鋼に言った。
「こういうのは暁華が詳しいんだが……うーん、壊すっつっても数があるんじゃこっちが先にギブアップしちまう。すまん、俺にはわからねえ。お前は?」
「俺もきみと同じ、わからないよ。師匠が考えた結界だからそう簡単に破れないだろうし、どうしたものかな」
名案が浮かばないふたりはその場で立ち往生する。
しばしの無音。とまったままの太陽が竹林の間から彼らを照らす。
沈黙に耐えかねた黒鋼が今更だが、と口を開いた。
「本当にナナシが、この先にいるのか? いない可能性だってあるだろう」
「いや、いるよ」
声音は真剣そのもの。迷いのない発言だった。それを聞いた黒鋼は半信半疑だった心を捨てて、青月に賭けることにした。
「いいぜ、お前を信じよう」
「ありがとう、黒鋼。――さて、話を戻そうか」
「おう。と、その前にひとつ疑問がある」
「なんだい?」
黒鋼は見えない結界に手を置いて続けた。
「ナナシがいるんならよ、ここをどうやって通ったんだ?」
「もしかすると、ナナシがきたときには結界がなかった、あるいは、通れるようにしてあったとか。この先の神社に来るように誘い込まれたって見方もできるね」
「おいおい、それじゃあまるで師匠がそうしたみたいに聞こえるぞ」
「師匠がナナシを匿っている、って思うのが自然じゃないかい。半人半鬼のあの子がだれにも見つからずいられるところ、そして、俺たちが知る場所といったらここしかないだろ。ここなら人の出入りがないから隠れるにはうってつけだ」
「ま、待て、待ってくれ。それじゃあなにか、師匠はナナシの手助けをしたっていうのか? なんでそんなこと」
「それを考えるのはあとだ。ともかく、今は進まないと」
「……だな。師匠が関わっているなんざ考えたくもないが、今はそっちを優先しよう」
腑に落ちない顔だった黒鋼はあたまを振り、気持ちを引き締めた。
「全部、行けばわかることだ」
青月と黒鋼の心が決まった刹那、鈴の音に似た音色が竹林にこだまする。あっという間に景色が一変する。音が止むに伴って眼前に上へ続く長い石段が現れた。
驚くのもつかの間だった。結界のしくみを理解したゆえに、やれやれと呆れる。
「これは俺たちがそこに行きたいと思えば通れたんだ。きみが半信半疑でなくなったからこうして先へ進めるようになったんだね」
「なんだあ、そういうことかあ。深く考える必要がなかったってわけか」
「師匠ってときどきこういう遊び感覚で結界を作るから困るんだよね」
「同感だ。まったく、性格悪いぜ、あの人」
顔を見合わせたのち、頷き合って、長く続く石段を上りはじめた。
×
「私が生き返らせたことによって、青月は復讐する好機を得た。恋人を奪い、自分の肉体をも奪ったナナシという怪物を葬ろうと復讐を決意し、果たせたのちはあの世へ行くと決めていた。ためらいはなかったようだ。しかし、彼奴の身体はもう人ではない。ただでは死ねない。私が限り蘇るのだと知るまで、時間はかからなかった。そこから、青月のうちに矛盾が生まれた。復讐と己の死という目的を達成させたい――だが、死ねないとわかり、死者がときとともに忘れ去られるのだと知り、死を恐れた。目的と本音が異なったのだよ。矛盾に苛まれ、苦悩する顔は傑作だったよ、彼が美しいゆえに。
このまま矛盾を抱えて生き地獄を味わうかと思った。そうはならなかった。青月と美月の間に生まれた女の子、日向鈴が現れてから、徐々に生きる意思が芽生えたようだ。希望とでも言おうか、それが青月を変えていった。復讐をまったく予想外の形で果たしたときのあのすがすがしい顔は、直視できなかったな。
今、青月たちはナナシと再び対峙するだろう。あの子はもう生きられんよ。人としても、鬼としても。きっと、彼らのうちだれかがナナシを楽にさせるだろうさ。これで青月の復讐は終わる。そして次に狙うはおそらく、この私だ。彼奴が矛盾から解放されるには私を倒し、蘇らぬようにせねばならない。しかし、まだ青月のなかに迷いがあると見た。ナナシは倒すだろうがその次、どう出るのか楽しみだよ。ふふふ」
×
ナナシを探す最中暁華から、青月たちが戻らないと聞く。そういえば同じ街にいるはずなのにすがたがない。おかしい。急に不安になった日向が暁華に、彼らがどこへ向かったのか問うたのち、街外れの竹林の入口に立った。はじめて来る日向は、霧生にここはなんなのかを訊いた。すると言いたくないような色で、師匠の神社とだけ答えた。実験好きの師がときどきここへ出入りしており、みなには人形を作る工房だと言っているが本当のところは不明。あまり深入りしないほうがいいと直感的に察した日向はそれ以上なにも訊かなかった。
怪しげな場所、お化け屋敷みたいかもしれないとおそるおそる入る。しかし、予想とは裏腹にとても居心地がよく、林道を歩きながら竹林の景色に感動の声をあげた。
「わあ、とってもきれい。別の世界に来たみたい」
竹林が陽光に照らされて美しい緑を作りあげている。ずっと長く伸びた竹の葉の隙間からもれてさす木漏れ日は、彼女と彼を導いているようであった。その風景に見惚れる少女。そのきらきらと目を輝かす少女の横顔に目を奪われる少年が一人。
「こういうところが好きなのか」
「うん」
「そうか」
「どうしたの? 顔が真っ赤」
「ううう、うるさい! 前向けって前!」
「わ、わかったから押さないで! んもう!」
推された勢いで前に出る。その数メートル後ろで霧生がなにやらぶつぶつ言いながら頬を赤く染めていた。が、やや進んだ瞬間、真摯な顔つきに切り替わった。さっと日向の前に移動して、石段を注視する。
「今度はなに?」
「結界の跡がある。でももう解かれているから、先にだれかが来たのかもしれない」
「もしかして、ナナシが?」
「可能性はある。急ごう」
霧生は石段を跳躍しながら、日向は一段飛ばしながら、神社の境内まで上りきった。
呼吸を整え、顔を上げた。境内は下の竹林とはうって変わって、殺風景だ。奥に古びだ拝殿と本殿がある。拝殿の前にある二体の狛犬像は壊れかけている。
「日向、とヨウスケくん?」
「おう」
「青月さん、黒鋼さん! よかった、ここにいたんですね。あの、ナナシは」
――刹那。押しつぶされるような大音声が四人を襲った。
耳を塞いでも、脳に突き刺さる響きは遮れない。
「なに、これ」
声の主を探せば、それは拝殿の屋根の上にいた。異形化したナナシだ。目は真紅に、額の皮を破って角が伸びている。その容姿に、人間の面影は皆無であった。
「ナナシ……」
叫び声が終わると共にナナシが日向たちの前に降り立つ。敵意を剥き出しにしている。すぐにでも喰い殺さんとする形相である。
青月たちが武器を構え始めた。張り詰めた空気が、その場に緊張感を走らせる。
先に動いたのは、ナナシだ。地面を抉り、異形の腕を振るう。その先にいるのは、青月だ。
青月は指先を流れ動作の如く動かして人形に伝達を送る。人形は刃を構え、応戦する。一撃一撃が重いナナシの攻撃を、人形は受け止め流す。敵の背後を取り、急所を突く。
ナナシは人形の攻撃をかろうじて交わす。脇腹を掠った。だが、それは異形化しきったナナシにとっては痛くもかゆくもない。拳を作り、人形を潰しにかかる。
黒鋼と霧生はナナシの左右に周り、青月を援護する。銃弾と剣戟を与え、ナナシを追い込んでいった。
自分も戦おうと決心した日向は式札を握りしめた。しかし、このままナナシを、ただ葬っていいのだろうかと戸惑う。あの異形化した少女を倒せばすべてが終わるかもしれない。本当にこのまま、倒すだけでいいの? それが救ったってことになるの? あの子は悪い子なんかじゃない。人を喰らって怪物を増やしていったけれど――私の友達を殺めたけれど――青月さんの恋人を奪ったけれど――霧生を半人半鬼になる原因を作ってしまったけれど――怪物のいる街にしてしまったけれど――津雲川さんの大切な妹は、そうなるように操られていた。なら、だったら……
「あの子を操っている真の敵の呪縛から解放する。それがあの子を救う道と見たり!」
式札に意識を、思いを込める。
乱戦のなか、ナナシの足元に五芒星が浮かぶ。結界だった。
結界を作った日向に青月たちの視線が集中する。
「なにをする気だ、日向」
「おいおい、どういうことだ」
「日向? あいつをどうするんだ?」
日向はナナシに歩み寄った。
鬼と化した幼き少女を見ても、恐怖心はなかった。
心を埋め尽くすのは、救いたい気持ち。
怯えは捨てた。逃走の選択も捨てた。真っ向から少女と向き合う。
今こそ、彼女による彼女なりの戦いが始まった。
日向の眼差しは、ナナシを釘付けにする。
敵意が消えたとわかる。そっと手を伸ばし、結界に添えた。
「震えてる。怖いのね、あなた」
怪物の真紅の瞳が揺れる。ずるり、と一歩下がった。
「もしも、もしもまだ、人間のあなたがいるのなら、あなたの本当の気持ちを教えて」
ナナシは静止した。あたまを抱える。内なる自身と戦っているようだ。
「お願い。打ち勝って! あなたは化け物なんかじゃない! 怪物なんかに負けちゃだめ! もう戦いたくないなら、怖いことをしたくないのなら、叫んで。自分の意思を言葉にして」
鬼が苦しそうに悶えた。地面にあたまをぶつけて、人を追い払おうとしている。
「あ……私の声が聞こえているの? ナナシ、しっかり!」
苦しさに喘ぐ声がぴたりとやむ。どうなったのか、日向は唾を飲みこんだ。
「……ちゃん」
「え?」
「お……ねえちゃん、わたし、勝った、よ」
「うん、うん。おねえちゃん、ちゃんと見てたよ。あなたは強いわ」
「だから、おねがい」
「なに? どうしたらいいの? 私にできることなら」
「ころ、して。わたし、を」
「そんな……ううん、わかった。それがあなたの願いね」
そんなのはダメ。と言いかけた。だが、なにも知らない日向ではない。異形を倒す方法はたったひとつ――鬼の心臓と人の心臓を停止させる。ナナシはそれを望んだ。望みを叶えるために、日向は頷いた。できるか、できないか、否、しなければならない。どんな感触がするのか知らないけれど、ナナシの胸に刃を突き立てる。迷うな、私。泣くな、私。
「あり、がとう……あ、ああっ、に、にげ―――――」
「ナナシ!?」
地に響く怪物の雄叫び。日向の張った結界が破れ、再び鬼と化したナナシが突進してくる。回避する間もなく、細く柔らかな身体は白くごつごつした手に捕えられた。持ち上げられてしまい、足が地面から浮く。もがいてももがいても、鬼の腕には通じなかった。
ぶつり、と音がした。鋭利な爪が服を貫き、皮膚を破いた。痛みを堪えるために日向は、ぎゅっと下唇を噛んだ。入り込んでいる爪を見ず、ナナシと目を合わせた。
「あなたの願い……叶えるから、もう少しだけ、辛抱して」
怪物は腕を振るい、日向を勢いよく叩きつけた。
そのさい強くあたまを打ち、日向鈴は気絶してしまった。




